1-26 愚者の選択Ⅴ
──変な感じだ。
浮いているような、立っているような、吊り下げられているような感覚。
以前に同じような経験があった。
違うのは、この場所が暗闇ではなく、煙のようなものに満たされているという事。
煙は、様々な形へと姿を変え、そして崩れて、元の不定形へと戻る。
無意味な循環を、幾度となく繰り返す。
ここでは、魔剣を抜いたシノの目も光を映した。
(魔に属するモノは、須らく、自分の世界というべきものを持っている。だから、彼らを殺すには、この世界ごと消さなければならないわ)
「じゃあ、これはアロイスと混じっている悪魔の……」
(そうなるわね)
しばらく見つめているうちに、シノはひっきりなしに形を変える煙が、人型を頻繁に取ることに気付いた。
造形は粗く、判然としないが、よく知る少女の姿に見えた。
(あの男は居場所を明け渡したのね)
思う所があるのか、しみじみと魔剣が言う。
「魂を売ったのか」
(売った?)
「悪魔に力を借りる事を、そう表現するんだ」
魔剣は噛みしめるように、シノの言葉を繰り返す。
(売った……。えぇ、正しい言葉ね)
恐らくはシェイラの姿を模しているであろう不恰好な人型は、アロイスの心中を表しているのだろうか。
「何だかな……」
(なに?)
「いや、報われないなってさ」
結局、アロイスは妹を守りたかっただけなのだろう。
ただ、手段を致命的に間違えていた。
いや、そうせざるを得なかったのか。
(まぁこの程度、軽食代わりだけど。さぁ、振るいなさい! 全部食べてあげる)
握りしめる柄から、確かな振動が腕を伝った。
刃を震わせ、魔剣が歓喜の瞬間を待ちわびる。
シノが魔剣を振り上げた。
(……どういうつもり?)
魔剣の刃は、世界に僅かな切れ目を入れただけ。
「この世界を壊すと、アロイス・オドリオソラも死ぬんじゃないのか?」
(当然ね)
「なら、腹を満たすのは、もう少し後にしてくれ」
(……どうして?)
不満ではなく、殺意の篭った問い掛け。
「殺してしまえば、救いになってしまう。罪は自分で償ってもらわないと。それに、裁く権利は俺にはないよ」
魔剣が黙り込む。
シノも黙って、答えを待つ。
やがて、漏れた笑いが響いた。
(ふふっ、いいわ。そうしましょう。可哀想だから、とか言い出したら、すぐに貴方ごと喰い潰してあげようと思っていたけれど)
「そんなに優しそうに見えるか?」
(えぇ、見えるわ。あなたと同じ精気の色をしていた人間は、とても強欲だったもの)
もう何もない。
唯一、自分を止める可能性のあった敵対者は、この世の向こう側だ。
難敵を退けたアロイスが、勝者らしからず力無く足を踏み出した。
──これで良かったのか。
いいや、こうするしかなかった。
脳裏に妹の顔が浮かんだが、すぐにその残像を消し去った。
足を止め、今しがた通り過ぎた、シノが立っていた辺りを振り返ったのは、恐怖か、或いは願望か。
黒いモノが浮かんでいた。
中からは、鈍く光る刃が突き出している。
黒い沁みのように見えるそれが、裂け目だと気付くのに、暫しの時間を要した。
「そんな……バカな事が……」
渇いた喉から絞り出した言葉が消えないうちに、刃の軌跡をなぞるように大きくなった裂け目から、のっそりと人間が一人、這い出てくる。
「よぉ」
存在を抹消したはずの男が、そこに居た。
「世界から追放した程度では、戻ってきてしまうというのか……!?」
目を剥き、衝撃を顕わにするアロイスだが、口角だけは笑うように、僅かに吊り上っていた。
「今度はこっちからいくぞ」
剣を手にしたシノの腰が沈み、そして前へと跳んだ。
策も何も無い、標的への愚直なまでの突進。
至極単純な攻撃故に、防ぐには正面から撃退する他にない。
アロイスの右手が上がり、持てる全ての魔力を束ね、それを放つ。
魔力を充実させる暇は無かったが、間近に迫る死への生存本能が、人生最高の秘術を組み上げさせた。
詠唱は無けれど、秘術は会心の出来栄えであった。
目視出来る程に束ねられた魔力は閃光となり、アロイスに迫るシノへ襲いかかる。
一撃で殺せるなどとは、考えていない。
なにしろ、世界の境界線を貫いてくるような男だ。
間髪入れず、アロイスは追撃を準備する。
「叩き落とせ!」
シノが何も映さない目で間合いを測り、剣を一閃させる。
閃光は切っ先と交錯すると同時に、闇が下りたように呆気なく消えた。
オドリオソラの秘術は、ほんの僅かな足止めにすらならない。
速度は少しも緩まない。
「……!」
第二撃を放つ間も無く、アロイスの首筋には剣があてがわれていた。
「仕留めるのなら、余力なんか残さない、全力での一撃にすべきだった。悪魔の力は、連続しては使えないみたいだな」
既に、刃は人体の致命的な弱点に添えられている。
人間に戻ったアロイスに、勝ち目は無かった。
「……僕の負けだよ」
観念したように、アロイスは束ねていた魔力を手放した。
「世界を救う、と言ったな。どうしてシェイラ・オドリオソラが必要なんだ?」
「『大災厄』は、必ずまた起きる。それも、そう遠くない未来にね」
「なぜ分かる」
「それは言えない、というよりも分からない。父がそう言っていただけさ。でも、僕にとってはどうでもいい事だ。シェイラが救えるのなら、それでいい」
「……言いたい事は山ほどあるけど、今はいい」
シノが続きを促す。
「でも、次の『大災厄』では大英雄を望めない」
──なるほど。
「大英雄の代わりが魔人か。つまりアンタは妹にも……」
アロイスは黙って頷いた。
「シェイラは、悪魔に抗する術を持つと同時に、自分の道を自分で切り拓く事ができる。僕よりも遥かに優れた器だ。必ず悪魔を飼い馴らす」
「もしアイツがそれを望むのなら、止めはしない。目的は一つだと言っただろ。俺は、シェイラの意志を確かめたいだけだ。だから、行かせてもらう」
既にアロイスは、勝利と自身の命は諦めている。
だが、それは道を譲るという意味ではない。
相討ちの可能性はまだ残されている。
「例え、死に体となっても、僕は脅威を排除しなくてはならない」
それが使命だからと、アロイスは再び淡く笑った。
「好きにすればいい」
反撃の意思を聞いても、魔剣を首筋に突きつけたまま、シノは微動だにしない。
目は見えていないが、確かにアロイスを見据えている。
決死の宣言にも、シノの意志には些かの陰りもない。
初めて目にした時から、シノ・グウェンは気に食わなかった。
大切な妹の周りを飛び回る鬱陶しい虫だからではない。
禁を犯し、魔力を剥奪された喪失者だからだと思っていたが、それも違うようだ。
この男は揺らがないのだ。
矮小な存在が相手であろうとも、強大な存在が相手であろうとも、自らの優先度を変えない。
そんな事には頓着しない、ただの無関心なのだ。
「侮るなッ!」
アロイスの手にはいつの間にか短剣が握られている。
首筋を這う刃が肌を傷つけるのも意に介さず、シノの喉元に短剣を突き入れた。
「……なぜ?」
放心したように、アロイスが言葉を吐いた。
短剣は、盾のようにかざされた左腕を貫いていた。
少なくない血が刃を伝うが、狙った首までは届かない。
「ちょっと、剣が短かったかな」
(馬鹿ね)
「どうしてッ! そのまま剣を押しこめば、僕を殺せた! なぜそうしない。 僕を哀れんだのかッ!」
激昂するアロイスに、シノは酷薄に笑った。
「それは自殺だ。そんな楽な道は選ばせない」
そして、数歩後ろに下がる。
刺さっている短剣をそのままに、魔剣を構え、足を踏み込んだ。
剣先がアロイスの体内に吸い込まれる。
「分かってるよな」
(はいはい。でも、こんなにくっついてたら、難しいわ。一緒に殺してしまうかも)
「構わない」
数瞬の後、シノが魔剣を抜き出した。
刀身には全く血が付いていない。
「何をした……」
アロイスが膝をつく。
力が入らない。
あるのは喪失感だった。
シノが剣を鞘に納め、視界に光を戻す。
「俺の役目は悪魔を殺す事。それを果たしたまでだ。どうする? まだやるのか?」
足元で崩折れたアロイスを見下ろし、問うた。
「く……」
苦しげに身を捩り、アロイスは身体を天に向ける。
そして、心臓の辺りを軽く叩いた。
「止めは刺さないのかい?」
「必要ない」
短くシノが答える。
その足は既にユリアーネの後を追っている。
遠ざかる背に、なおもアロイスは言葉を投げ上げる。
「今度は後ろから襲うかもしれないよ。僕の受けた命令はまだ有効だ。身体が動く限り、オドリオソラに仇なす者を狩り続ける。そういう契約なんだ」
「言っただろ、絡み合った結び目ごと切り落とすと」
強い決意を込めて、シノは言葉にした。
アロイスを目にしても、もう殺意は湧いてこない。
「それに、アロイス・オドリオソラにもうその力はない。次があれば、今度は自分の意思で生きてみてくれ」
それきり一瞥もくれず、シノは敗者を残して奥へと消えた。
もうその必要も、意味も無いが、敗者は己の敗因を考察する。
任務に何か綻びがあれば、同じく過ちを繰り返さぬよう、徹底的に吟味し、改善する。
全ては、対象を確実に抹殺するために培われた、凶手としての習性か。
天を仰ぎながら、意識を失うまでの間を、分析に充てた。
先手を取り、戦力でも上回っていた。
何故負けたのか。
彼我の違いは何だった?
「そうか──」
不思議と思考は冴えている。
中途半端だった。
人間と悪魔の間を行ったり来たり。
悪魔に成り果てる覚悟はなく、無力な人間のままで、大切なものを守る勇気もなかった。
「でも──」
シノ・グウェンは違った。
アレは完全なる悪魔だった。
喪失者は、魔力という対価を支払えない。
あれほどの魔剣、対価を持たない喪失者から、何を奪うのだろうか。
想像するだに恐ろしい対価を、笑みさえ浮かべて受け入れていた。
そして、少しの躊躇もなく力を使った。
大丈夫。
どちらにせよ、きっとシェイラは救われる。
瞼が下りるまでの間、アロイスが感じたのは深い安堵だった。




