1-25 愚者の選択Ⅳ
「父に聞いたことがあるよ。精気を使う者は、未来を見ているかの如く、先を読むという。言葉を弄し、未来を支配しようとする魔術師にとっては死神だとね」
「お前、その眼……」
「魔術は意志の物質化だ。しかし、人間の思考には穴がある。君たちには、それがどこなのかが分かるのだろうね。今まで相手をしてきた中には居なかったけど、今日この時に相まみえることができたのは幸運だった。今でなければ、僕は敗れていただろうからね」
アロイスがゆっくりと右腕を上げる。
もはや詠唱という手続きは不要。
悪魔の頭脳によって構築され、解き放たれた魔術に回避の可能性は残されていない。
「勘弁してくれよ……」
全身に精気を走らせ、回避ではなく、防御に全力を注ぐ。
精気の鎧を不可視の刃が蹂躙した。
空中に紅い花が咲き、その下をシノの身体が傾いていく。
「防いだか……。便利だね、精気というものは。確かに君は恐ろしく強い。けれど、所詮は人間としての範疇の話さ」
血を流し、倒れ臥すシノを眺めながら、アロイスはどこか諦めたように目を瞑り、頭を振った。
「痛ぇなぁ、クソッ……! 悪魔だったのか、あんた」
「いいや、僕は僕さ。もっとも、長くはないだろうし、もう人間と呼べるものでもない。さしづめ、『魔人』といった所だろうか」
「よく喋るな。じゃあ答えて貰おう。なに、どうせ殺す相手の戯言だ。問題ないだろう? 目的はなんなんだ? その為に、シェイラが必要なのか?」
秘術による傷は深くない。
会話を続けながら、シノは身体に精気を充填し、回復に努めた。
だが、殺意は耐え難い程に内圧を増していき、抑える為に噛み締めた唇は弾けるように裂け、血が流れた。
「目的か。……世界を救う為だと言ったら、君は信じるかい?」
「魔術師が言うんだ。信じるよ」
「ならば、今の君は救世を阻む世界の敵ではないのかな?」
「かもな」
「ならばこのまま、来た道を引き返すべきだ。拾った命、少しでも永らえたまえ」
アロイスが道を空ける。
「善悪なんかどうでもいい。目的なんて、最初から一つだ。あんただって、自分のしている事が正しいなんて確信は持てないんだろう? だからこんな無意味な問答をしたがる」
「違うね。せめてもの慈悲だよ、シノ・グウェン。ここで引き返した所で、いずれ君は死ぬ。死後の世界への旅路での、土産話くらいにはなっただろう。それで……もう終わりか? 他に手は無いのかい?」
声にはどこか懇願するような響きがある。
「慈悲だって? あんたが吐く台詞にしちゃ、ちょっと綺麗すぎるな。妹の友達を殺した後に押し寄せる罪悪感を、ほんの少しでもやり過ごす為の言い訳だろ」
「……黙れ」
「黙ってるのはお前だ、アロイス・オドリオソラ。本当に妹の為だというのなら、堂々と言えばいい。アイツだって、その方が良い筈だ」
「黙れと言っている!」
激情のままに放たれた魔術を、シノは左腕で受け止める。
再び鮮血が散り、地に紅い斑点をつけた。
「僕は君を守る為に、他の人間を犠牲にしましたってなぁ!」
血しぶきの隙間から飛び出した言葉は、何よりも鋭利な刃物となり、アロイスの心を切り裂いた。
「ダマレェッ!!」
荒れ狂う魔術は、人の域ではない。
それを前にして、シノの心に宿ったのは、恐怖でも絶望でもなく、安堵だった。
──あぁ、良かった。
こんなモノがいるから、シノ・グウェンが存在しているのか。
精気を操る素質と、異常な程に習熟している対魔術戦闘技術。
当然だ。
これほどのモノを殺すには、生半可な非常識ではダメだ。
「理解した」
「モウ オソイ」
「俺は、ソレを殺すために存在しているんだと」
殺さなければならない、ではない。
殺したい、という表現の方が正しい。
使命感と言うよりは、欲求に近い衝動だった。
──でも、力が足りない。
このままでは殺せない。
だから、あるはずだ。
持っているはずだ。
アレを殺すに十分な武器を。
それが与えられた役割だというのなら、果たすだけの力を、俺は持っているという事なのだから。
「そこにあるんだろ──!」
不思議な確信を持って、シノは虚空に手を伸ばし、何かを掴み取る。
掴んだそれは、掌に冷たい感覚を伝えてきていた。
握られていたのは、一振りの古びた剣。
決して抜く事が叶わなかった、黒い鞘に納められた剣だった。
(はぁ、やっとなのね。飢えて死ぬかと思った! やっぱりあなたが今代の担い手だったのね)
柄を握った瞬間に身体を通り抜けた声は、大人びた少女の声にも、子供じみた女性の声にも聞こえる。
あの不思議な空間で聞いた声に違いなかった。
「寝坊だぞ」
(起こさなかったのは貴方。担い手がある、と思う所に私は在るわ。貴方は意志を示し、私はそれに応える。誓約は果たされた。光と闇は両立し得ない。貴方からは光を貰う。その代わりに創られた闇で、全ての魔を沈めてあげる)
「素晴らしい。なら、働いてもらおうか」
シノの右手が、剣の柄を強く握り込んだ。
硬く冷たい感触を伝えていた柄が、熱を持つ。
命の火が入ったように、鼓動が握っている手を微かに震わせた。
「ソレハ……ナンダ?」
剣を前にしたアロイスが、忌まわしげに顔を歪ませる。
「ほつれて、複雑に絡まり合ってしまった結び目は、切り落としてしまえばいい。これは、その為の刃」
躊躇なく抜き放つ。
刃が鞘走る摩擦音は、歓喜の叫び声のように聞こえた。
優美な曲線を描く剣身は、諸刃ではなく片刃。
曲刀と呼んだ方がいいかもしれない。
だが、シノは抜き身を目にする事は出来なかった。
「……おい」
(何よ。お腹空いてるのだけど)
魔剣は煩わしそうに言葉を返した。
「見えないのだけど。どうやって戦うんだよ」
シノの視界は、闇に閉ざされていた。
(それがどうしたの? 目なんか見えなくたって、私を悪魔の身体に突き刺すくらいは出来るでしょう?)
──確かに。
この世ならざる魔と混じった不快な精気の塊は、アロイスの居場所を否応も無く伝えてきている。
「……そうだな、問題ない」
「キエロ」
言葉通りの結果をもたらすべく、再び縒り合わされた魔力がシノに叩きつけられる。
奇跡の行使に、一切の手続きを介在させない悪魔の力であり、『大災厄』において、人間を一顧だにしなかった要因。
だが、放たれた魔術は、魔剣の一振りによって消し去られた。
「ナンダト……!?」
より強い魔力により潰された訳ではない。
そもそも属性など持たせていないのだ。
反属性魔術での消却の可能性もない。
残滓すらも残さずに、文字通り、初めから存在などしなかったかのように、ただ消えたのだ。
オドリオソラの秘術を、悪魔の力で増幅させてある。
既に人の手には余る代物と化している。
いかに魔剣が優れていようとも、完全に抹消する事など不可能だ。
──何かの間違いに決まってる。
あの男が脳に描いた術式が、偶然にもこちらの魔術を無効化した奇跡に過ぎない。
繋ぎ止めている理性の片隅で、アロイスは結論を出し、同時に対抗策も導いた。
次は違うカタチにしなければ。
……ならば檻だ。
強力な魔力で囲い込み、存在ごと塗りつぶしてやる。
アロイスの支配下にある魔力が、シノの周囲で瞬時に凝縮する。
「なっ、おい──」
戸惑う言葉を痕跡に、今度はシノの姿が消え去った。
悪魔の魔力によって編まれた檻の中は、法則の異なる一つの異世界だ。
中にいるものは、世界から隔離されることになる。
シノが立っていた空間には、もう何も無い。
「シンダカ……。シンダナ。モウイイ」
アロイスの瞳が、あるべき人間のそれに戻る。
表情に勝利の満足感はなく、色濃い疲労が浮かぶのみだった。
「……大丈夫なんでしょうか? 逆賊とはいえ、アロイス・オドリオソラは近衛きっての精鋭──」
迷いなく奥へと向かうユリアーネとは対照的に、メルヴィナが躊躇いがちに前を歩く主人へ、シノの安否を気遣った。
「問題ない」
素っ気なく聞こえるほどに、簡潔な即答。
仲間を切り捨てて、先に行くような性格では断じてない。
信頼からの言葉だとメルヴィナには分かったが、その根拠は全くもって理解出来なかった。
思えば、最初からシノに対しては過剰ともいえる信頼を寄せていた気がする。
多くの立場の人間から欲望を向けられることの多い王女という役目にあって、ユリアーネは信頼すべき人物を、時間を掛けて見極めてきた。
傍に置いているといっていいのはメルヴィナを含め、たったの二人だ。
──リアン様の事です。
きっと、何か理由がお有りなのでしょう。
早足で過ぎて行く城内の景色は、侯爵としては勿論、一介の貴族としても殺風景なものだった。
当然居るべき、城付きの使用人の姿も見かけない。
堅実で知られるウォールズ家の居館ですら、もう少し華美である。
案内でもするように、城の扉は全て開け放たれていた。
やがて、ユリアーネが一際大きな扉の前で立ち止まる。
唯一閉ざされた扉の前で、顔をしかめた。
漏れ出る魔力だけでも、魔術師としての感覚が警告を発していた。
「終点らしい」
オドリオソラを見守ってきたであろう扉は、長い年月と日光の影響で、すっかり色みが濃くなっている。
その扉を、ユリアーネの白い手が撫でた。
「いいか、メルヴィ。もし、侯爵と争いになったら、勝とうなどとは考えるな。オドリオソラの娘を確保し、侯爵の目的が分かれば、速やかに撤退する。備えもない状態での戦闘は避けるべきだ。後はナツィオを動かす」
「はい」
メルヴィナが頷きを認め、ユリアーネが扉を押し開けた。




