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1-22 愚者の選択Ⅰ

 アイン・スソーラ東の国境、アルバス。


 この辺境の地を、オドリオソラ侯爵家は所領として与えられていた。


 侯爵という爵位には見合わぬ小さな領地ではあるが、よく治められ、争いとは無縁の平和な土地である。


 王の落胤として隠れ住んでいた頃から、変わっていない。



 高い城壁も圧倒的な兵力もなく、決して大きいとは言えない領地が、僅かな失地すら許さずに国境を維持していられるのは、オドリオソラの秘術が持つ威力ゆえだった。



『大災厄』以後、揺れるアイン・スソーラを狙ったのは、何も内側の反乱分子だけではない。


 外国の勢力も、水面下において幾度となく動いたが、その全てがオドリオソラの魔術師によって同じ結末を辿った。




 曰く、彼等はどこにでも現れ、いかなる相手であっても瞬時に殲滅せしめる。


 これが、偶然と奇跡とが重なり、僅かに生き残った者たちが伝えるオドリオソラの秘術に関する証言だ。






 スクロールによる転移が完了した瞬間、シェイラは軽く安堵の息を吐いた。



 見慣れた居館の内装は、アルバスの城のものだ。


「着いたばかりで恐縮ですが、奥で我が主がお待ちです」


 シャルテルの言葉に、シェイラは一瞬弛緩した身体が強張っていくのを感じた。




 アルバスが故郷となった時から、ここが安息の地であったことはない。


 養父となったトラウゴット・オドリオソラ侯爵は、厳格な試験官であり、城の中は、オドリオソラの魔術師となり得るかの試験場だった。



「シェイラ様をお連れしました」


 シャルテルが、目の前の扉を叩き、恭しく中にいる人物へと声をかける。


「入れ」


 不遜な響きの声。


 シャルテルに促され、シェイラが中に足を踏み入れた。



「久しいな」


 投げ掛けられた侯爵の声には、何の感情も伴ってはいない。


 そもそも名を呼ばれた事も無いのだ。


「はい。お父様もお変わりなく」


 シェイラも形だけの挨拶を返す。




 本当に変わらない。


 トラウゴット・オドリオソラ侯爵の眼差しは、地に這いつくばり、殺されそうになったあの時から全く変わっていない。


 変わったのは自分だ。


 ここに来た時は、兄を救いたい一心だった。


 他に大切なものなんかなかった。


 初めて自分の意志で進学したシュミートでは、友人と呼べる人間ができた。


 魔術を学ぶのは楽しかった。


 新しい魔術を覚えれば覚えるほど、今まで守ってくれていた兄に近づけている気がした。


 いつの間にか、王城に入るのかな、などとぼんやりとした将来を思い浮かべるようにさえなっていた。



 そして、少し前。


 衝撃だった。


 記憶にある顔と、全く同じ顔の男が現れたのだ。


 自分が侯爵家の人間になるきっかけとなった、あの日の苦い思い出。


 恐らくは別人だろう。


 あれから十年は経っているし、なにより少年は無能だった。


 言葉一つで、2人の人間を拘束してみせたあの人とは違う。


 でも、その方が都合が良かった。


 罪悪感を薄めるには、自分の方が “与える側”でなくてはならなかったから。





「主よ」


 影らしく、一言も発さなかったシャルテルが初めて口を開いた。


「どうした?」


 影は、余計な言葉は使わない。


 影には、命令を聞く耳さえあればそれでいい。


 発言したからには、そこには必ず意味がある。


「招かれざる客人と交戦中のようです。ここに侵入を果たした者は初めてですな」


 異常事態を告げるシャルテルに焦りはなく、寧ろ確かな喜びが、傷だらけの顔に浮かんでいる。



 侵入者の正体についても、心当たりが多分にある。


 確信と言ってもいい。



 それはシェイラも同じで、終始萎縮していた身体がピンと跳ねた。


「まさか、来たの……?」



「侵入者……? 外側からの魔術干渉については、一切が無効化される筈だが。……いや、違うな。“入れ替えた”のか。覚えのある手口だ。シャルテル、客人には然るべき歓待を受けてもらわなければな。ましてや、当家初めての客人ともなれば、相応の礼が必要となる。違うかね?」


「我らの全力を以って、迎撃致します」


 喜色に染まった顔を下げる。



「待て、シャルテル」


 すぐに出て行こうとしたシャルテルの足が止まる。


「何か指示でもお有りでしょうか?」


「もし、黒い髪の喪失者(ルーザー)がいたら、気をつけたまえ。アレは死神だ。難しければ、退くのもいいだろう」


「黒い髪の喪失者(ルーザー)……。分かりました」


 一人の若者が脳裏に浮かぶ。


 主人の命に頭を下げ、了解の意を示しながらも、シャルテルは内心、首を傾げていた。



 言うまでもなく、オドリオソラの魔術師は有能な暗殺者だ。


 突出した魔力も、並外れた武勇も備えているわけではないが、状況判断力に長け、これまで対象を討ち損じた事はない。


 侯爵もよく分かっており、彼らにつまらぬ仕事を与えたことは無かった。


 ましてや、撤退しろなどという命令が下ったのは初めてだ。



「……では」


 疑問などおくびにも出さず、再度頭を下げ、主人の下を辞した。



「さて。話の続きをするとしよう。以前、汚い二人の子供の命を救ったことがあったな。無論、善意などではなかったはずだ。対価を伴う正式な契約だった。覚えているかね?」


 どこか他人事で、侯爵はシェイラに確認をする。


「はい」


 答えながらも、シェイラの心は別にあった。




 ここに至っては、もうシェイラがシノにしてやれる事はない。


 なんとか生き延びてくれますようにと、祈るほかはなかった。



──どうして、最後はいつも祈っているのかしらね。


まったく!



 護ろうと手を尽くしても、結局は本人がそれをひっくり返してしまう。


 でも、今回に限っては悪い気がしない。


 どうしてだろう。


 答えはすぐに導かれた。



──あたしだけの為、だから。


そっか。


あたしは、シノ・グウェンが好きなんだ。




「結構だ。ここに契約は成った」


 侯爵の言葉が耳に届いた瞬間、内臓の体積が倍になったような気がした。


「あ……あ、あ、あ、アアアアァァッ!」


 全身の神経が圧迫される感覚は、痛みと呼べるような代物ではない。


 度を越した痛覚は熱となって、全身を駆け巡る。


 耐え切れず、シェイラの脳は考えることを放棄した。






「……なぁ、王女さん」


「何か言いたい事でもあるのか、シノ?」


「カーラってヤツは相当な馬鹿なのか、ただの脳筋だと思うんだけど」


「私の師を侮辱するとは、良い度胸だ。だが、許そう。なぜなら、いま私も同じ気持ちだからだ」


「同じ気持ちで嬉しいよ」


「あぁ、私もだ」




 現実から目を背けるように、中身のない会話を繰り広げている2人の前には、十人を超える魔術師が魔力(マナ)を練り上げていた。


 全員が殺気立ち、友好的な対話は望むべくもない。



「これが解決の機会? 嘘だろ? ヤツらの仲間だった、という方がまだしっくりとくる。よりによって本拠地ど真ん中に転移させるかよ、普通」


「言っても始まりません。まずは彼らを退けなければ。前向きに生きていくのではなかったのですか?」


 ぼやくシノを窘めながら、メルヴィナがユリアーネの前で槍を構える。



「一応、確認しておくが、私の名はユリアーネ・ローゼンヴェルクだ」


「殿下はイスファーンに居られるはず。殿下の名を騙る逆賊め!」


「……そうくるか。民の前へ出るのを避けていた事が悔やまれるな。私の顔を知らないとは」


 王女だと証明するものは何一つない。


「この調子じゃ、知ってても同じだと思うけどな」




「城の中に直接、転移してくるとは。どのような策があるのかは知らぬが、不敵なヤツだ。その大胆さは真実、ユリアーネ王女殿下かもしれぬな」


 シノたちと睨み合う魔術師達の奥に、傷跡だらけの顔に薄い笑みを浮かべた男が姿を現した。


「私の顔を見忘れたのですか?」


 メルヴィナが冷ややかに、シャルテルを睥睨する。


「おぉ、『王女の槍』殿ではないか。そなたまで裏切るとは、さぞ殿下もお嘆きになる事だろう」


「悪びれる気はないのだな?」


 ユリアーネが、魔力(マナ)の密度を上げる。


 一気に周囲の気温が下がり、乳白色の霧が漂った。



「はて。我らのどこに悪びれるところなどありましょうや。殿下の名を騙る不届き者を野放しにしては、陛下の忠実なる臣としての、オドリオソラ家の面目が立ちますまい。何よりも……オドリオソラの城に侵入した恐れ知らず共を叩きのめさねば、我らの矜持が許さぬのでな」


 シャルテルが一歩前に出ると、魔術師達が散開し、三人を取り囲んだ。


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