1-20 黎明Ⅱ
部屋を出ると、急に気恥ずかしさが込み上げてきた。
なんとなく話しておかなければと感じたのは、虫の知らせというものだろうか。
──でも、あれじゃまるで、慰めてと言ってるようなものじゃない!
「シェイラ様」
一人、悶々としていたところに突然、名を呼ばれ、シェイラが振り返ると、そこには一人の魔術師。
動揺していたとはいえ、シェイラはその存在に全く気付かなかった。
ローブの上からでも分かる盛り上がった筋肉は、この魔術師が己の肉体をも武器としていることを示している。
相手の全身を視界に収めるために、対象から少し離れた場所に焦点を絞る独特の観察法、これほど近い距離にいるにも関わらず、不自然なほどに魔力が感じられない。
自らの魔力を隠すことを、良しとしないこの国の魔術師とは明らかに違う。
実際に目にしたのは初めてだったが、すぐにオドリオソラの魔術師だと察しがついた。
そして、当主以外には姿を見せないといわれるオドリオソラの魔術師が、目の前に現れた意味についても。
若くはない。
顔の黄ばんだ肌の上には、多数の古傷が這い回っている。
失敗すれば、死に直結する暗殺者という業に身を置きながら、その魔術師は幾度も歳を重ねていた。
つまりは残る傷痕を代償に、その年齢になるまで生き延びてきたという事だ。
『大災厄』後の歴史の裏側で暗躍していた凶手を前にして、心臓は早鐘を打っているが、シェイラの心は不思議と落ち着いていた。
「無礼な魔術師ね」
──あたしはオドリオソラ侯爵家が長女、シェイラ・オドリオソラなのよ。
自分の家に仕える魔術師に怯える必要は、どこにもない。
「ほう……」
思わず、魔術師が感嘆を吐いた。
──オドリオソラの血を引かぬ養子だと聞いていたが、中々どうして、気骨があるではないか。
自らの主となり得るかとは、血筋によってではなく、魔術師としての格によって証明されるものだと信じる男は、少女をオドリオソラの娘として扱う事にした。
すぐに跪き、臣下の礼を取る。
が、頭は落とさずにシェイラの動きを注意深く見ていた。
「シャルテルとお呼び下さい。そして、このように突然伺った無礼をお許し下さい」
「何か用なの?」
「御当主様の命により、シェイラ様をお迎えに上がりました。王都を騒がせている不埒者の狼藉、大変心配なさっておいでです」
勿論、ここを出る建前なのだろうとシェイラは思った。
「お父様……の?」
──あぁ、嫌な予感というものは、本当によく当たるわね。
不意に、孤児だったころ、助けてくれた魔術師の言葉が思い出される。
代償を支払う時がきたということか。
「はい。一度お戻り頂けますよう」
慇懃な態度だが、目的を果たすまではその場から動きそうもない。
「いいわ。行きましょう。でも、その前に──」
立ち上がったシャルテルの逞しい腕が突き出され、シェイラの言葉を遮った。
「王都に入ってから後を尾けて来ているが、何か用か? 根が臆病なものでな、そのように近づかれては殺してしまうではないか」
単なる脅しではない。
僅かでも危険の芽があれば、徹底的に摘み取り、オドリオソラの魔術師としての役割を全うしてきたのだ。
応えるように吹いた一陣の風と共に、少女が現れる。
見事な金髪が風に巻き上げられ、ゆっくりと流れ落ちた。
「ウォールズ……」
「ウォールズ……? あぁ、王女殿下に侍っているという魔術師か。どうも『風』を使う連中は、鼠のように嗅ぎ回るのが得意なようだな」
「鼠というよりは、狗と呼んで欲しいものですね。シェイラ・オドリオソラをどうするつもりなのですか?」
長年に渡って、オドリオソラの影を司ってきた歴戦の魔術師に対しても、メルヴィナの鉄面皮は剥がれない。
「どうする、とは剣呑な。親が子供の身を案じるのは当然ではないか? そもそも、このような状況になったのは、お前達イスファーンの魔術師共が不甲斐ないせいではないか」
シャルテルが態とらしく驚いてみせた。
「心配……ですか。アロイス・オドリオソラを使って、解決に動いていたリアン様を抑えるように、陛下に働きかけたのは何故です? 何をしようとしているのですか?」
「さて、預かり知らぬ事だな。それこそ、陛下もユリアーネ王女殿下の身を案じておられただけであろう。私はただ、主の命を粛々と果たすのみだ。ウォールズ、お前だって同じだ。 それ故の『王女の槍』だ」
「あなたはそれで良いのですか?」
埒があかぬと、メルヴィナは後ろのシェイラへと言葉を向ける。
「いいのよ、それでお兄ちゃんの立場が守られるなら。だから、あんた達は退いておきなさい」
感情を抑えた無機質な返答。
「決まりだ。力で己が主の命を実行するというのなら、こちらも応える用意があるが? 幸い、最も憂慮すべき懸念材料は見逃してくれるようだ」
シャルテルは、メルヴィナを意識にすら入れていない。
目の焦点は、彼女の背後に立つ黒髪の少年に絞られている。
最早、シャルテルからは相手の全身に目を配る余裕など消え失せていた。
目の前の男からは、強い魔力や敵意といったものは感じられない。
だが、注視していなければ、狩られるのは自分だと、これまでシャルテルを生かしてきた生存本能めいた勘が告げていた。
「お前らの家の都合に興味がないだけだ。オドリオソラがそれでいいなら、口を出す筋合いもないしな」
「また覗き見をしていたのですか、グウェンさん」
「脚は大丈夫そうだな、金髪女。あの王女さん、怒られたんだって?」
屈託無く笑うシノには、相変わらず緊張感というものが無かった。
「グウェンさんもお変わりなく不敬ですね。今回も助けに来てくれたのでしょうか?」
「馬鹿を言え。誰がタダ働きなんてするか。この前は王女さんに頼まれたからだ。俺は模範的なアイン・スソーラ国民だからな」
「邪魔はしないと言うのなら、何をしに出てきたのだ?」
「一応、忠告をな」
「忠告だと?」
シャルテルが歯を剥き出して笑った。
これまで彼は、いつも忠告をする側だった。
『大災厄』後にアイン・スソーラの支配権の簒奪を目論んだ輩に、王の障害となる貴族に、そしてオドリオソラに敵対する全ての魔術師に対し、秘術を用いて、オドリオソラの威を示してきたのだ。
隠されるべき血筋の家が、侯爵にまで成り上がった理由を、この場で証明してやるのもやぶさかではなかった。
そんな自分に忠告があるという。
込み上げてくる笑いは、不快なものではなく、むしろ期待感から生じたものであった。
「まぁ、そんなに大した事じゃない。俺は、シェイラ・オドリオソラのおかげで命を拾った事があってな」
「何が言いたい?」
「もし、そいつに何かあったら、全力で助ける。何処に居ても、誰が相手であろうとも、だ」
淡々と事実を述べているように、シノは目の前の凶手に、オドリオソラ家そのものに警告を投げかける。
シャルテルは笑みを崩さないが、心中は苛立っていた。
任務の最中に、これほどの個人的な感情を抱いたのは久方ぶりだった。
些かの気負いもなく、この男は“我々を敵に回せる”と宣言しているのだ。
その事が、妙にシャルテルの癇に障った。
「シノ……」
シェイラが強く唇を噛み、俯いた。
「面白い事を言う。そうならぬように、お連れするのだが?」
「例えばの話だ。是非、心に留めておいてくれ」
「あぁ、肝に銘じておこう。では、シェイラ様」
シェイラがシノから顔を背け、横を通り過ぎた。
直視してしまえば、助けを求めてしまうかもしれないから。
もしそうすれば、彼は自分を助けてくれるのだろう。
あの時、ツィスカ・ザカリアスに食い下がったように、自らを削りながら、それでも立ち続けるのだろう。
だが、その選択はあり得なかった。
どんなに窮地に陥ろうとも、生まれながらの貴族ではなくとも、それが魔術師シェイラ・オドリオソラとしての意地だった。
なにしろ、借りがあるのは自分の方なのだから。
シャルテルが、準備していたスクロールを取り出す。
「まだ話は終わっていません!」
槍を掲げ、雷撃を放とうとしたメルヴィナの腕をシノが押さえた。
一息に破られたスクロールの乾いた音と共に、2人の姿が消え失せた。
「放して下さいッ!」
メルヴィナが腕を掴んだままのシノの手を振り払う。
「何故、逃したのですか!? 何か企んでいるに決まっています!」
興奮したメルヴィナが、シノに詰め寄った。
「アロイス・オドリオソラは何処にいる?」
シノの静かな言葉とは対照的に、メルヴィナは冷静さを失っていく。
「そんな事より──」
空気を切り裂く音と共に、メルヴィナの眼前、今にも触れそうな距離に、シノの拳が突き出されていた。
視認すらも困難だった。
臨戦態勢を整えていたメルヴィナの魔力も、精気によって消し飛ばされている。
「落ち着けよ」
「……すみません。取り乱したようです」
少し頰を赤らめ、頭を振って気持ちを切り替える。
「確かにお前の言う通り、腑に落ちない。何で今更、オドリオソラの家が連れ戻しに来る?」
「リアン様からの最後の命令は、オドリオソラの魔術師が、イスファーンに入らないかを見張れ、との事でした。そして、見つけたのなら、何もせずにリアン様に知らせるようにと」
「命令違反じゃねぇか」
シノが呆れたようにメルヴィナを見る。
「む、むざむざ目の前で連れ去られるのを黙って見ているわけにはいきませんっ!」
「……別に連れ去られちゃいなかったけど」
「と、とにかく! この事をリアン様に知らせないと……」
「なんだ、城に行くのか?」
「はい。自室にて待機なさっているはずです。ですが、会わせてはくれないでしょうね」
メルヴィナは最善手を考える。
軟禁しているのなら、見張りくらい置いているだろう。
それもオドリオソラの息がかかった者を。
言葉での交渉は絶望的と言っていい。
「とりあえず行こうぜ」
「え? グウェンさんも行くのですか?」
メルヴィナは目をぱちくりとさせる。
「当たり前だろ。王女さんが困っているからな。王国民として、協力する義務がある」
王女への忠誠を嘯いてはいるが、果てしなく胡散臭かった。
真意を問いただしている暇はない。
これでも、荒事には頼もしい存在となる筈だ。
先日の『目玉狩り』の件でも、それは証明されている。
メルヴィナは、そう自分を納得させた。
「ですが、どうやって会いに行けば……」
「大丈夫大丈夫」
考え込むメルヴィナを横目に、シノが事もなげに言った。
「え?」
「我に秘策あり」
驚くメルヴィナに、シノがニヤリと笑った。




