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1-18 過去

 シェイラ・オドリオソラとアロイス・オドリオソラは、孤児だった。


『大災厄』の爪痕として残った退廃地区で育ち、シェイラが物心ついた時には既に、襤褸に包まって、イスファーンの掃き溜めの底を這いずり回っていた。


 空腹を満たすために、兄の後について食べ物を探している時間が一番長かった気がする。


 地獄のような境遇ではあったが、幸運な事にシェイラは孤独ではなかった。


 他の多くの孤児のように、世界を呪ったこともない。



 兄アロイスの存在が、シェイラをこの世界に執着させていた。


 それはアロイスにとっても同様で、過酷な日々においても、人としての一線は越えなかった。


 常に、妹に胸を張れる兄でいたかったのだ。


 18歳になるまで生き延び、軍に入ろうと考えていた。


 脛に傷のある者は、軍には入れない。


 軍人になれば、妹を養ってやれる。


 絶対に達成しなければならない、たった一つの目標だった。



 だが、騎士になる資格を得る20歳になる前の年の冬、アロイスは流行病に掛かり、倒れてしまう。


 薬を調達出来る筈もなく、何か食べ物をと、あてもなく退廃地区から市街に出たシェイラは、プレートアーマーを着込んだ1人の従者を連れた貴族が歩いているのを目にした。


 周囲に人気はない。


 そして、その貴族の腰で揺れる重そうな袋も。



 お金が入っているのだろうか。


 お金なら、直接薬を手に入れる事ができる。


 事は一刻を争う。


 あの貴族には代わりの財布があるだろうが、兄はたった一人だ。



 これまで守ってきた、犯罪だけは犯さないという兄との約束を破る決意をするのに、時間は掛からなかった。



 魔術師なら、呪文を唱える隙さえ与えなければ、上手くいくかもしれない。


 護衛の従者は怖いが、不意を討てばあるいは──。



 背後から忍び寄り、腰の袋を掴むまでは良かったが、ぶら下げている紐の強度を見誤っていた。


 なにしろ金が入っているのだ。


 少女が引いた程度で、千切れるようなものを使う筈はなかった。


 気づいた従者に首筋を掴まれたシェイラが、容易く地面に叩きつけられる。



 衝撃で息が詰まった。



「このガキっ!」


「こんな汚らわしい子供に気付かんとは……。キミ、それでも騎士かね? これはもうダメだな。新調しなければ」


 掴まれた辺りの服を布で拭いながら、その貴族は嫌悪感を滲ませる。


 冷たい目だった。


 幼いシェイラには、それが酷く恐ろしく見えた。


「も、申し訳ありませんっ!」


 叱責された騎士はシェイラを押さえつけながら、平身低頭していた。


「もう着られなくなってしまった服の代金を支払って貰いたい所だが……期待は出来なさそうだな」


 貴族が、這いつくばっているみすぼらしい格好のシェイラを見下ろす。


「だが、罰は与えなければならない。今後、ここを通る同胞が、同じ轍を踏まないようにな。やれ」


 従者が地に伏せるシェイラに向けて、足を振り上げる。


 浮浪児ごときに付け入る隙を与えた、己の失態が怒りに拍車をかけていた。


 護衛中とあって、全身武装している従者の靴は硬く、鈍器と大差ない。



当たったら、骨が折れるかな……。



 シェイラに出来るのは身を縮め、この場をやり過ごす事だけだった。


 だが、いつまで経っても覚悟した衝撃と痛みはやって来ない。


「……?」



 少しずつ目を開けていくと、狼狽した様子の従者の姿が見えた。


 爪先は腹に突き刺さる寸前で止まっている。



「あれ……?」


「な、何をやっている!? さっさとやらないかっ!」


「かっ、身体が……」


 何がどうなっているのか分からないのは、従者や貴族も同様だった。



「貴族ってのは、子供にも手をあげるのか?」


 殺伐とした空気を弛緩させるような、呑気な声。


 黒い髪の男が腕を組み、壁にもたれ掛かっていた。



 兄よりも、幾らか年長に見える。



「何だ、貴様はーー」


「黙れ」


 激昂し、叫び声をあげようとした貴族に、男は小さく唇を動かした。


 途端に、貴族は苦し気に喉を抑えた。


 男を睨みつける目だけは、延々と怒りを垂れ流している。


「大丈夫か?」


 男が2人の方を向いているせいで、誰に言っているのか、シェイラは一瞬理解が出来なかった。


「は……はい、はい、だいじょうぶです」


 シェイラが何度も頷いてみせる。



「そろそろ解いてやれ。窒息してしまうぞ。やれやれ、お前は優秀だが、容赦がないのがいかんな」


 どこか気だるげな男のものとは、対照的な凛とした声。


 声の主は、濃い栗色の髪をひっつめにした、意思の強そうな目の女性だった。

 

 見慣れない狩装束のような革製の襦袢を纏い、腰には黒い鞘に入った剣をぶら下げている。


「殺してはダメなのか?」


 なんて事ない調子で、男はとんでもないことを言った。



このひとも、おんなじなんだ。



 動けなくなった貴族を眺める黒髪の男の様子は、先程のシェイラを見る貴族と似たようなものだった。


「ダメだ。ちゃんと教えたろう? 貴族を殺すと、後々面倒なんだ。それに、お前の役目はこんなものの掃除ではない」


「分かった」


 素直に頷いた黒髪の男が視線を外すと、2人は倒れこみ、貴族の方は息も荒く、何度も肺に空気を送り込んだ。


 酸素の欠乏から、顔は青紫色になってしまっている。



「貴様……ら……、私が……誰だか……分かっているのかっ!」


「分かっているとも。オドリオソラ侯爵、王家に連なる者だな。惜しむらくは、父親の人徳までは受け継がれなかったことか。ヤツは弁えた男だったのだがな」


 貴族の怒声にも、女性にはたじろぐ様子もない。


 それどころか、好戦的な笑みさえ浮かべながら見下ろした。


「この……この……!!」


「こんな時、『大災厄』中であればよかったと思うのだ。そうであれば、お前のような連中は勝手に死んでくれるものを」


「貴様ぁ! 《我、内に眠りし殺意の刃を喚び起こさん》」


 逆上した貴族の男が魔術を行使するのと、狩装束の女性が腰の剣を鞘ごと手に取り、風切り音と共に振り抜くのは同時だった。


 何が起ころうとしたのか、シェイラには全く分からなかった。


 確かに、貴族の男は詠唱をしたのだが、何も起こらなかったからだ。



「貴様は何なのだ……? いや、待て。その剣は……!」


 女性が手に持っている黒い鞘の剣を見つめる。


「それがオドリオソラの秘術とやらか。なるほどなるほど、無色の魔力を操るか。どちらかといえば、お前の得意分野だな、おい」


 今度は女性の隣に、忽然と紅いローブを纏った男が現れる。


 目まぐるしく動く状況に、シェイラはただ見ているしかなかった。


「変な登場の仕方はやめてもらいたいものだな。可哀想なそこのお嬢さんがびっくりしてるじゃないか」


「我が物顔で城に侵入してくる無礼者にだけは言われたくない。……それに、私ならもっと効率よく魔力を束ねられる」


 むっつりとローブの男が呻いた。



 栄誉ある紅いローブを身に着けてはいるが、その男からは活気というものが感じられなかった。


 乱れ放題の髪が顔を半分以上隠し、瘦せぎすな上に、背中を丸め、俯き加減に話すので、言葉が聞き取りづらい。



「あなたは……」


 だが、貴族の男の反応は劇的だった。


 身を震わせ、歯の根が噛み合わず、ガチガチと音を立てる。


 従者の男は、言葉にならない悲鳴を上げながら後ずさった。


「おっと。それ以上は言わない方が身の為だな。なにしろ、私達……というかこっちの根暗男は城にいなければならないのでな。言葉にしてしまうと、口にしたヤツを始末して無かった事にしなければならなくなる。どうすれば良いのか、分かるよな?」


 女性が悪戯っぽく笑う。


 貴族の男には、その笑みが獲物を前にした獣の舌なめずりに見えた。


「わ、私は誰にも会っていません!」


「そうだ。そういう貴族は長生きが出来る」


 満足気に女性が頷く。


 そして、もう行け、と鷹揚に手を振った。


 貴族の男と従者は、転げるように走り去った。



「立てるか?」


「ひっ……」


 黒髪の少年が、シェイラに手を差し出したが、彼女は身を竦めて後ずさった。


「……」


 一瞬、少年は目を伏せたが、すぐに踵を返し、女性の後ろへと控えた。


「慣れん事をするからだ、馬鹿が」


 言葉は厳しいが、目は優し気に少年を気遣っている。


「驚かせて悪かったな。だが、財布に手を出したお前も悪いんだぞ?」


「でも、おにいちゃんがびょーきだから、おくすりがいるの」


「そうか、可哀想にな。だが、さして珍しくもない話だ。次からは身の丈に合った相手を狙えよ。おい、行くぞ」


「……」


 促された少年は少し躊躇し、再びシェイラへと歩み寄った。


「やめておけ。お前にはまだ早い。自分を脅かす存在に対する、人間の敵意を知らないんだ」


「でも、師匠──」



「そうか。なら、私をお前の兄の所に連れて行け。力になれるかもしれん」


 救いの手を差し伸べたのは、紅いローブの魔術師だった。


「どういうつもりだ?」


 女性はあからさまな疑念を、端正な顔に浮かべている。


「たまには善行もよかろうと思ったのだが?」


 髪に隠れたローブの男の表情は分からない。


「いい……の?」


「人の親切は受けておくものだ。だが、忘れるな。この世界に無償の施しなどない。何らかの形で、負債は必ず回収される。どうするのだ、神に愛されし少女よ」



 下心を腹の中に隠した温情は、ここで嫌という程見てきた。


 希望を持って、退廃地区から出て行った人間が、数日後に変わり果てた死体となって打ち捨てられているのも、特段珍しい光景ではない。


 しかし、元よりシェイラに選択肢など、ある筈もなかった。


「おねがいします!」



「魔術師が何の代価もなしに、自ら骨を折ることはない。魔術師が良い顔をして近づいて来ても、騙されるな。必ず裏がある」


 女性は、シェイラの後ろについていく魔術師を睨んでいた。


「じゃ、師匠もか?」


 忠告が耳に入っているのかいないのか、黒髪の少年はきょとんと目を瞬かせる。


「生意気な口を聞くようになったな。私は別だ、馬鹿」


 不機嫌そうに、女性が少年の頭を小突いた。



 アロイスは紅ローブの魔術師により、すぐに回復した。


 アロイスとシェイラが、養子としてオドリオソラ侯爵家に入るのは、それからまもなくの事である。


 乱暴を働いた詫びがしたい、という建前だったが、そんな言葉を信じるには、アロイスもシェイラも苦難が多過ぎた。



 何か目的があるに違いない。


 それに、紅いローブの魔術師は『無償の施しなどない』と言った。


 そして、シェイラは未だ対価を支払ってはいない。



 ただ、手を振り払ってしまった黒髪の少年については、シェイラの心に罪悪感と共に、小さくない後悔の念を残した。

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