1-11 焔の魔術師Ⅲ
暴力的な焔に自らを溶かし込むと、身体と焔との境界が曖昧になる。
自らの制御を失った瞬間、文字通りこの世から消え去ることになるだろう。
必死に自身の姿をイメージし続けながら、この焔の向こう側へと突き進む。
熱さなのか、痛みなのか、よく分からないものが体内で荒れ狂っている。
魔術による防御もなく、生身で強引に他者の魔術に同化しているのだ。
その代償は、苦痛としてシノを苛んだ。
途轍もなく長い数秒が、ゆっくりと過ぎ去っていく。
もう少し……もう少しだ。
「そん……な……」
シノが炎の中に消えたの目の当たりにし、シェイラが茫然と眼下の惨状を見つめていた。
「これは……」
スサナも言葉を失う。
「……」
黒衣の女は、事ここに至っても身じろぎ一つしない。
非現実的な光景だった。
決闘、などと呼べるものではない。
こんなものは、ただの蹂躙だった。
あの場に居た者は死体も残らないだろう。
決闘場全体が、ツィスカを起点に押し寄せる炎の津波ともいえるものに覆いつくされている。
魔術障壁で護られている見学席にまでは、火の手は及ばないが、伝わってくる熱量と常人の理解を超えた視覚的衝撃で、見ている者たちは圧倒されていた。
そして、興味本位で訪れた者は、ツィスカ・ザカリアスが入学早々、上級生を殺した際の決闘など、軽いお遊びだった事を思い知らされていた。
決闘場を飲み込んでなお、規模を増す焔は、魔術障壁に沿って上へと昇り、巨大な火柱を形成した。
やがて、放出された魔力が尽き、徐々に火柱は高さを失っていく。
「ほぅ、そんなことも出来るのか。見事だ」
石像のように動かず、下の戦況を観察していた黒衣の女が、決闘が始まってから初めて口を開いた。
シェイラは、絶望と後悔に打つひしがれていた。
「やっぱり、無理にでも、家の力を使ってでも止めておくんだった……。意地を張ったあたしのせいだ……!」
「シェイラ……」
スサナが気遣うように、彼女の肩を抱いた。
シェイラの目から涙が零れ、嗚咽を漏らした。
涙で地を濡らすシェイラの目の前に、布が差し出される。
「しぶとい男ですね。あれでも死にませんか……」
「ウォールズ……?」
シェイラが顔を上げると、背後からメルヴィナ・ウォールズが、仏頂面でハンカチを持った手を前に突き出していた。
「涙を拭け、オドリオソラ。お前が信じてやらんでどうする。私が称賛をくれてやったのは、ザカリアスではないぞ。流石は私のモノだ。あの程度ではどうにもならんな! どうだ、私の言ったとおりだぞ、メルヴィ。賭けは私の勝ちだな」
シノ・グウェンに対する、主の覚えが良くなることは、メルヴィナにとっては全く面白いことではない。
「まだ分かりません。それに、リアン様のものでもありません」
シェイラには、二人の言っていることが理解できていなかった。
「シェイラ、あれっ!」
身を乗り出したスサナが一点を指さした。
ツィスカの魔力が消え、赤熱した地面が露わになっている。
無事なのは、ツィスカの周囲だけだ。
「え?」
円形に残った、元の色を留めている地の上、ツィスカ・ザカリアスの目前に男が立っていた。
血に塗れ、ローブがあちこち焦げてはいるが、あの黒髪はまさしく、シノ・グウェンだった。
「どうやって……?」
「亡霊?」
自分の前に立っているシノを認識すると、ツィスカは戸惑った様子で、そんな事を言った。
「亡霊ってのは脚があるのか。それは知らなかったな」
疲労困憊のシノもどこかズレた答えを返す。
クスッ、とツィスカが小さく笑った。
笑ってから、不思議そうに、自分の頬を撫でた。
シノは初めて、ツィスカの感情を見た気がした。
「俺の勝ちでいいか?」
規則に則り、今度はシノが戦闘継続の意思を確認する。
いくら速かろうと、敵が目前にいては、詠唱は間に合わない。
「ううん」
しかし、シノがそうしたように、ツィスカも首を横に振る。
「そうか」
シノが拳を握りこみ、腕を引き絞ると同時に、ツィスカの右足が地を踏み鳴らした。
詠唱が完全省略され、肉体詠唱のみで具現化した焔の壁がシノを防ぐべく、高く聳え立った。
魔術の即時発動を完遂したツィスカが、余裕をもって距離を取ろうと全身に力を込めた刹那、燃え盛る焔など意に介さず、壁の向こう側から伸びた腕が彼女を捉えた。
抵抗を試みるが、腕は鋼の鎖のように彼女を締め上げ、離さない。
揺れる炎の間から、シノの顔が透けて見えた。
焔の激しさに劣らない、強烈な執念が宿っていた。
「俺の……勝ちだ!」
血反吐を吐くような勝鬨と共に、拳を固める。
「……!」
ツィスカの唇が、新たな防御魔術を紡ぎだす前に、精気を纏った拳が打ち抜いていた。
打撃によって、身体が一瞬浮き上がり、そのまま前のめりに倒れていく。
静寂の中、ツィスカが地面と衝突する渇いた音が響いた。
「終わった……」
眠い……。
変な力の使い方をしたからか、身体がうまく動かない。
こりゃ、筋肉痛で済みそうにないな。
でも、まぁ……これでもらった分は報いたかな、オドリオソラ。
「勝った……、勝ったの?」
ツィスカが倒れるのを目にして、シェイラは急に息苦しさを覚えた。
緊張のあまり、呼吸をするのも忘れていた。
強く顔を覆っていたのか、爪痕がはっきりと刻まれている。
「え……?」
いつの間にか、隣の女は姿を消していた。
「……勝者、シノ・グウェン。これにて、試験を終了する」
のっそりとゲートから出てきたゲーユがツィスカの状態を確認し、渋い表情で決着を宣言した。
勝敗が決したが、称賛の拍手や歓声を送る者はいない。
静かなさざめきが起きるだけだ。
そして、すぐにそれは戸惑いへと変わる。
決闘場の中心、黒ずくめの人間が一人、シノのいる所へと歩いていく。
「おいっ! 神聖な戦いの場にーー」
見咎めたゲーユが、駆け寄ろうとしたが、前につんのめった。
「なんだ、これはっ!」
靴底と地面とが、凍り付いていた。
乱入者は、視線を一身に集めながら、シノの前で立ち止まると、ゆっくりと外套を脱ぐ。
蒼い髪が、流れ落ちた。
「ユリアーネ王女殿下!?」
ゲーユの声が裏返った。
「なんだ、来てたのか」
シノが苦笑する。
「お前は、私のモノになる予定だからな。来ないわけがないだろう。私の武器の威力を示しておくのも悪くない」
ユリアーネも笑顔で応じる。
王女の姿を認め、徐々に歓声が大きくなっていく。
「勝者に然るべき敬意と称賛を! 稀に見る良き試合であった!」
見学席に向かって両手を広げ、高らかにシノを称える。
呼応した声が、地響きのように練武場の空気を震わせた。
シノもシェイラの前へ行き、勝利でも捧げたい所だったが、体力の限界だった。
「おっと」
傾いたシノの身体を、ユリアーネが受け止める。
衣服が、シノの血で赤く染まったが、労うように優しく抱きしめた。
「酷い怪我だな。まったく、無茶をする。内心、気が気ではなかったぞ。……ここまでしたのは、シェイラ・オドリオソラの為か?」
ユリアーネはそう言って、称賛に沸く見学者たちの中で、不安そうにシノ達を見ているシェイラを見上げる。
「今回に関しては、そうなるな。正直、編入なんてどうでもよかった」
腕の中で、シノが僅かに首を縦に振った。
「少々引っかかるが……まぁいい。ゆっくり休んで──」
ユリアーネが言葉を切った。
話している相手の視線が、全く別の方向へと向いていることに気付いたのだ。
具体的に言えば、腕の中にいる男の視線は、上の顔ではなく、真正面、つまりは胸部へと突き刺さっていた。
血で濡れ、服がぴったりと張り付き、形が顕わになっていた。
「元気そうじゃないか」
ユリアーネが腕を解き、脱ぎ捨てた外套を肩に掛けた。
放り出されたシノの身体は重力に従い、疲労で受け身も取れずに地面とキスをする羽目になった。
「ブフッ! おい、俺は怪我人だぞ。うわっ、香ばしく焼けた砂が口に入った、ペッペッ!」
砂を吐き出すシノの頭の横に槍が突き立った。
槍からバチバチと、弾けるような音が出ているのは、気のせいではない。
「お前も来てたのか、金髪女。いるのかいないのか分からんやつだな」
「メルヴィナ・ウォールズです。金髪女ではありません。リアン様についてきただけです。それよりグウェンさん、この間は逃げられましたが、今なら逃げられませんよね?」
「ほぉ。戦いで動けない者を、さらに痛めつけようというのか。大した騎士道精神をお持ちのようだ。主人の品格が疑われるぞ」
「くっ……減らず口を……。地面に這いつくばりながら言っても──」
「殿下! お召し物が……。すぐに新しいものをご用意いたします」
メルヴィナを遮って、ゲーユがユリアーネの前に平伏する。
「結構だ、別に汚れてなどいない。それより、彼の治療を」
「は……?」
ゲーユが呆気にとられた。
「もう、この学校の生徒だろう?」
「ですが、まだ正式には……」
「早くしろ」
温度が下がったユリアーネの言葉に、ゲーユが凍り付く。
「分かりました。シノ・グウェンを医務室に」
待機していた魔術師たちによって、シノが宙に浮かされて運ばれていく。
「リアン様はこの力が見たかったのですか?」
「いや、先に目を付けたのは私だと、言っておきたかっただけだ。これだけ派手にやれば、明日にはイスファーン中に広まっているだろう」
「……彼は一体何なんでしょう?」
メルヴィナが、少しの恐れを混ぜて呟いた。
決闘場はあちこちに穴が穿たれ、熱で黒く変色してしまっている。
損傷していない個所など見当たらないくらいだ。
これがたった2人による決闘の爪痕だとは、実際に見ていなければ信じられない。
殆どはツィスカ・ザカリアスによるものだが、この惨状の中で生き延びたばかりか、相手を仕留めたということが、メルヴィナの理解を超えていた。
「分からない。でもこれだけは言える」
「リアン様?」
「あいつは非常識な男だ」
「そうですね」
メルヴィナは主人の言葉に深く頷いた。




