1-10 焔の魔術師Ⅱ
シノとツィスカは、決闘上の脇にある一室に連れてこられていた。
上に備え付けられている見学席からのものだろうか、決闘場へと続くゲートの向こう側から、沢山の人間の声や、興奮した様子が漏れ伝わってくる。
そこから決闘場が見渡せた。
必要であれば、水を引き、模擬海戦すらも可能だというその場所は、それほど広くはなかった。
当然ながら、身を隠したり、盾にできるような遮蔽物はない。
優れた魔術師なら、端から端まで射程圏内だな。
やはり接近戦しかない。
逃げ回っていれば、いずれ押し切られる。
「準備は良いかね?」
ゲーユが厳かな声で、二人に確認する。
シノは軽く頷いた。
ツィスカは何も答えないが、唇は動いていた。
何か囁きながら、バスタードソードを背に掛けている皮紐へ手をやる。
「シノ、その人、頼らない。同じ」
辛うじて聞き取れる声で、ツィスカが声を発した。
……その人? 何言ってんだ?
「どうしたんだね、ザカリアス君」
応じないツィスカに、ゲーユが苛立たし気に言った。
ブゥーン、と彼女の背のバスタードソードが振動した。
唸っている剣を見ると、顔を引きつらせて、ゲーユは押し黙る。
何の意思表示なのか、シノには分からなかったが、抗議をしているような気がした。
「……ん?」
シノの腰の剣もカタカタと音を立てていた。
頭の中に、明確な敵意が流れ込んでくる。
これまで感情のようなものを伝えてくることはあっても、こうして直接訴えかけてくるのは初めてだった。
柄を握りしめると、剣は安心したように静かになった。
「大丈夫」
話が決着したのか、ツィスカは革紐を解いた。
背から滑り落ちた剣は、大きな音と共に、床に亀裂を入れた。
重量にも驚いたが、驚嘆すべきはこれだけの重荷を負いながら、彼女の精力には乱れが無かったことだ。
全く無茶をしていない。
この少女にとっては日常なのだ。
シノは戦慄した。
勝機は接近戦しかないと思ってたけど、こいつはそれでも容易ではなさそうだな……。
拳を握り、気を引き締め直す。
身体に精気を通し、活性化させる。
鋭敏になった感覚が、見学者たちの高揚、雑音を伝えてきた。
これで少なくとも、初撃は凌げる……と思いたい。
「終わった」
ツィスカも準備完了の意を示す。
「では、両名、戦場へ」
立会人を務めるゲーユを先頭に、シノとツィスカが後ろに続き、ゲートをくぐる。
決闘の場に足を踏み入れた瞬間、幾つあるのか分からない程の視線が、上から叩きつけられた。
周囲の空気が粘性を増し、シノは息苦しさを感じた。
無数の人間の気配が入り交じり、吐き気がこみあげてくる。
足が震えていた。
緊張しているのか。
……いや、これは恐れだな。
静かに対面に佇む、紅い少女。
全く動じている様子はない。
アレと今から戦おうというんだから、尻込みするのも当然だな。
なにせ、相手が自在に操る力をこっちは全く持っていないんだから。
しかも、以前、ヤツの相手をした魔術師は死んでいるというオマケ付きだ。
その時、シノが敢えて、矢のように降り注ぐ視線の源を見上げたのは、とある期待があったからかもしれない。
ーー果たして、すぐに見慣れた銀の髪を最前列で見つけた。
祈るように両手を合わせ、少し俯き加減だ。
表情は覗えない。
来たのか、オドリオソラ。
無意識に緊張していたシノの身体から不要な力が抜け、身体を循環する精気が澄んだものになる。
渇いていた唇を湿らせる。
なら、負けられないな。
視界の中央にツィスカ・ザカリアスを入れる。
観衆が落ち着く頃合いを見計らって、ゲーユが腕を振り上げた。
「ツィスカ・ザカリアス、シノ・グウェン、前へ!」
本来であれば、ここで紋章官による紹介が行われるが、学内決闘である事、二人とも貴族ではない事から省略された。
ゲーユの合図とともに、見学者たちも固唾をのみ、練武場全体に重苦しい沈黙が流れた。
「願わくば、この決闘が誇り高いものであるようにーー開戦っ!」
ゲーユの腕が風を切って振り下ろされ、決闘の開始が告げられる。
同時に、ツィスカの魔力が爆発的に増大した。
「なんだ、あれ……。もしかして、魔力……なのか……?」
その強大さは、彼女の周囲の空間が、濃密な魔力で紅く染め上げられているのが、喪失者の目でも視認できるほどだった。
「焔」
ツィスカは、たった一言呟いただけだった。
退けっ、死ぬぞ!
シノは、自らの生存本能に従い、その場を飛び退いていた。
形振りなど構ってはいられない。
文字通り、転がるようにして、その場を離れることに全力を尽くす。
直前までシノが立っていた場所を、なんの前触れもなく巨大な炎が駆け抜けた。
普段、戦場に縁の無い者にとって、ツィスカ・ザカリアスの魔術を目にする機会など無かった。
「おぉ……!あれが、ザカリアスの……」
「なんと……美しい」
束ねられた魔力の密度、詠唱の簡潔さ、練り上げられた暴力的なまでの焔。
一切の余分が削ぎ落された、芸術として完成されているような魔術を前にして、魔鬱に造詣のある者たちは、興奮を抑えきれない。
「……っ!」
無様に転がって逃げるシノを見て、シェイラが声にならない悲鳴を上げていた。
魔術とは、魔力を媒体にした意志の物質化だ。
威力も範囲も、形態でさえ、発動者の意志によって定められる。
意志を魔術発動に至らせる為に最適化された手順が、詠唱だ。
自らの中に息づく、習慣化された言葉でもって、現実を上書きする。
現実に与える影響が大きい、つまりは強大な魔術であればあるほど、実現に足るだけの詠唱は長大になっていく。
規模によっては、肉体詠唱による補助も必要になるだろう。
だが、あの赤髪の魔術師はどうだ。
微動だにせず、唇はほとんど動いていなかった。
たったそれだけの動作で、地面が赤熱し、蒸発させるだけの炎を無から創り出した。
これだけの破壊をもたらすのに、一体どれだけの意志の力が必要なのか、同じ魔術師であるシェイラにも想像がつかなかった。
「無理よ……あんなの」
誰に言うでもない掠れた声が、渇いた喉から零れ出た。
「喪失者が、学生程度の魔術師が勝てる相手じゃないわ……」
シェイラに出来る事は、決着がついても、少年が生きていることを祈るのみだった。
自分の魔術が避けられたのを見て、ツィスカが何かを呟き、腕を軽く掲げる。
瞬時に意志に応えた紅い魔力は、さらに凝縮すると、小さな炎球に形を変えた。
2つ、4つ、8つ……と炎球は急速に数を増やしていき、シノは途中から数えるのをやめた。
膨大な数の炎球を前にして、これから何が起きるのか、嫌でも察しがついた。
あんなの、躱しきれない。
なら、打ち堕とすしかない。
間に合うか……。
両腕に精気を通し、攻撃に備える。
対峙している相手の力の高まりを察知したツィスカの目が、鋭くなる。
拳を構えたが、シノの脚はまた竦んでいた。
事前に通わせていた精気も弱まっていく。
あの炎球それぞれが、直撃すれば、人間一人くらい簡単に消し炭にする威力を持っている。
ローブには、一応の魔術防御が施されているが、ほとんど意味をなさないだろう。
ーーじゃあ、もう勝手にしなさいよ! 死んでも知らないんだからっ!
不意に、シェイラの顔が脳裏をよぎった。
あの時の、悪態をつき、後悔と心配とで泣きそうになっている銀の少女。
今までの、何ともいえない味の夕食。
再び、上を見上げる。
祈るように合わせられていたシェイラの掌は、彼女の表情を覆い隠している。
泣いているように見えた。
生き残れ、シノ・グウェン!
いや、それだけじゃ足りない。
勝たなければ。
お前の貰ったものに返すには、それぐらいしなければ。
そうじゃなきゃ、シェイラ・オドリオソラが報われない。
まだ魔術は完成しきっていない様子だったが、ツィスカは攻撃を早めることを優先した。
「いって」
掲げられた腕が、シノへと向けられる。
炎球が、指示された方向へと次々に飛び出した。
しかし、目標を捉えることはできなかった。
炎球が弾けた時には、既にシノの姿は無い。
精気によって、極限まで活性化されたシノの速さは常軌を逸していた。
地を滑るように縦横無尽に駆け、爆発と衝撃から逃れていく。
追い切れず、シノの後をなぞるように、地面にクレーターが穿たれた。
炎球全てを同時に操れるわけではないらしいな。
ーーいけるか。
僅かな希望が持ったその時、ツィスカが射出を止めた。
気付けば、シノは決闘場の隅へと追い詰められていた。
「おわり」
ツィスカが残りの炎球に命令を下す。
後ろは壁。
逃げ場はない。
「1回死んでみろっ!」
一瞬のうちの覚悟を決め、双拳を構え、殺到する焔を迎撃する。
重い。
第一撃を打ち堕としたシノが、抱いた感想はそれだった。
炎そのものに質量が伴っているかのようだ。
砕け散った焔の欠片だけでも、身体は痛めつけられ、至近での爆発は肌を灼いていく。
致命的な攻撃だけを打ち払い、他は当たるに任せた。
「どうして……?」
自らの魔術による結果が、一切の魔力を帯びていない、ただの打撃によって粉砕されていく様を見て、僅かに目を見開いた。
全てを撃ち尽くした後には、シノが満身創痍の状態で立っていた。
ツィスカは開戦から、一歩も動いていない。
「なんだ、品切れか? 大したことなかったな」
シノは構えを解いて、笑ってみせた。
少しよろめいたが、両足でしっかりと地を踏みしめる。
「ボロボロ……」
立っているのもやっとの様子に、ツィスカが冷静にシノの状態を言い表した。
「ぐっ……。全然、効いてねぇよ」
「もう一回」
再び、ツィスカが魔力を練り上げる。
「いや、やっぱり痛かった、痛かったよっ! そもそもお前がつけた傷だからな、これ」
「なら、降参。殺さない。わたし、加減、苦手」
その声には、若干の懇願が混ざっていた。
「ぜぇったいに、嫌だ! 断るっ!」
あーあ、俺は何言ってんだ……。
ここで折れておけば、これ以上痛い思いをせずに済むぞ。
この学校ともおさらばできる。
ゆっくりと自分の手掛かりを探していけば良い。
……分かってるよ。
仕方ねぇよな。
またあの泣き顔だ。
「そう」
ツィスカの表情は変わらない。
再び、周囲の魔力の輝きが増す。
「全てを灼き尽くせ」
ツィスカが詠唱を紡いだ瞬間、全ての魔力が焔へと変換された。
修飾語が一つ付加されただけで、魔術の様相が激変する。
ツィスカ・ザカリアスを中心として、紅の絨毯を敷き詰めたかのように、総てが炎に沈んでいった。
立会人であるゲーユは既に、ゲートの向こう側へと退避していた。
勢いを増す、紅い侵食は、シノを目前に歩みを止めた。
「これでも?」
降参しないのか、とシノを睥睨した。
「昨日言っただろ。もう俺だけの決闘ではなくなったと。答えはいいえ、だ。面洗って出直してこい」
「……わかった」
ツィスカが眉根を寄せる。
短い返答には、はっきりと不機嫌さが滲み出ていた。
シノが、力を振り絞って、全身に精気を巡らせる。
目の前に広がる焔は、強力な魔術には違いないものの、炎球ほどの圧力は感じられない。
魔力の密度よりも、行使範囲に重きを置いたのか。
ーーなら、できるはずだ。
潜り込む余地があるはずだ。
理屈ではなく、直感だった。
今まで何度もそうしてきたかのように、どうすればこの難局を乗り越えられるのか、その手順をシノは確かに知っていた。
こと魔術戦において、自分は最強だ。
そんな根拠のない自信を持っていた。
奥歯を噛みしめ、今まさに解き放たれようとしている紅い奔流を見据える。
「変成せよーー」
人間としての在り方に囚われるな。
今のお前は炎だ。
目の前に迫っている真っ赤な焔だ。
恐れるな。
ただ前へ。
その先に、勝たねばならない魔術師がいるんだろ?
なら、何としてでも辿り着け!
「其は焔なり!」
シノの姿が、赤色に塗り潰された。




