077 幕間
アデレイドの婚約式の半年前です
とある9月の晴れ渡った良き日に、彼の姉は婚約した。
彼の姉は可愛いものが大好きで、弟の彼をこよなく愛してくれた。
……彼本人は、若干姉を鬱陶しいと思っていたが。
(困った姉上ですが、遠くへ行くとなると……まぁ、やはり、少しは……淋しくなり…ますね……)
まだ婚約するだけで実家を離れるわけではないが、彼女の婚約者は遠方の次期領主であり、結婚後はそちらで暮らすことになる。
今日はその姉の婚約式の日だ。
彼――アルフレッド・ウィンストンは濃紺のスーツに身を包み、両親と共に聖堂院へと向かっていた。
聖堂院では姉の婚約者の家族――デシレー子爵夫妻とその娘とも初対面する予定になっている。
姉の婚約者のジェラルド・デシレー及びその弟のセドリック・デシレーとは昨年の姉の誕生日の夜会で既に対面し、その後も何度か会っているが彼らの両親とその妹とは今日が初対面だ。
両親同士は既に対面して意気投合しているが、弟妹である彼らは遠方に住んでいることもあり、なかなか会う機会がなかったのだ。
「アルちゃん、素敵よ」
控室で支度の終わった姉のクリスティーナと対面すると、瞳をキラキラさせて抱きしめられた。
「姉上、やめてください」
いつまでも子ども扱いする姉に辟易するも、本日の姉は今まで見たことがないくらいに綺麗でアルフレッドは内心ドキドキしていた。
婚約式で女性は白のドレスを纏う。
クリスティーナは上半身はノースリーブのシンプルなデザインで腰から下はレースを幾重にも重ねてふわりと広がるドレスを纏っていた。
髪はハーフアップにし、サイドにねじりを入れて空色のリシアンサスという薔薇に似た八重の豪華な花を飾っていた。
「クリスティーナお姉さま、綺麗」
そこへ可愛らしい声が響き、振り向いたアルフレッドは一瞬息を止めた。
花の精が現れたのかと思った。
透き通るような白い肌に、銀色の睫毛に縁どられた深い紫紺色の宝石のような瞳、薄桃色の愛らしい唇。
少女は撫子色のドレスを身に纏い、ふわりと裾を翻してアルフレッドの脇をすり抜けた。
絹糸のような艶やかな銀の長い髪が流れ、甘い香りが漂う。
「アディちゃん!来てくれてありがとう!今日は一段と可愛いわ~」
「お姉さま、ダメ、お化粧ついちゃう」
(お姉さま?)
クリスティーナが少女を抱きしめようとして拒否され、クリスティーナがしょんぼりしている。
「アディ、ご挨拶を」
少女の後から入室して来たデシレー子爵夫妻に窘められて、少女がパッと振り返った。
アルフレッドと目が合い、ふわりと微笑む。
「失礼いたしました。初めまして、ジェラルドの妹のアデレイドです」
少女は居住まいを正し、優雅に一礼した。それまでの天真爛漫さとは真逆の、お手本のように見事な所作だった。
アルフレッドは少女の一連の流れるような身のこなしに見惚れていたが、少女が顔を上げ、にっこりと微笑んだのを見てドクッと胸が高鳴るのを自覚した。
「アルちゃん」
クリスティーナに呼び掛けられて、漸く自分が惚けたようにアデレイドを見つめていたことに気付くと同時に羞恥で死にそうになる。
(だから、その呼び方……!!)
アデレイドの前でだけはやめて欲しかった。
「……クリスティーナの弟のアルフレッドです」
アルフレッドはぐっと恥ずかしさを飲み込んで丁寧に礼を返す。
さらりと肩口で切り揃えられた黒に近い灰茶の髪が流れる。
その様は洗練されており、若き貴公子として申し分のない物腰だった。
「アルフレッドはアディちゃんの二つ上で、今年十四歳になるのよ」
クリスティーナとアデレイドが仲良く話しているのをぼんやりと見ながら、アデレイドの年齢が十二歳だという情報をしっかりと頭に刻み込む。
アデレイドのことをもっと知りたい。
「アデレイド嬢は来年から学院に?」
「はい、その予定です」
アルフレッドの胸に喜びが湧き起る。
「では、授業のことや学院の仕来りなど、なんでも相談――」
「やぁ、アディちゃん。相変わらず妖精のような愛らしさだ」
「……父上……」
クリスティーナとアルフレッドの父、ウィンストン伯爵がでれでれと相好を崩しながら三人の側に近寄って来た。
ウィンストン伯爵は一度デシレー領を訪れ、アデレイドとも会っているのだ。
「おじさま、お久しぶりです」
にっこりと笑うアデレイドが可愛らしい。最早ただのおっさんと化している父親を半眼で睨み付けていると、父親が爆弾発言をした。
「アディちゃんにうちのアルフレッドのお嫁さんになって貰いたかったのだが――」
げふっと思わず変な咳が出てしまったアルフレッドだったが、内心快哉を上げかけた、が。
「もぉ~お父さまったら!アディちゃんには素敵な婚約者がいらっしゃるのだから」
「あぁ、分かっているよ。羨ましいことだ……」
アルフレッドは直後に地獄に叩きつけられた気分だった。
(な……、婚約者……いるのか…………、いや、別にいてもおかしくはない、が……)
アルフレッドが一人で密かにショックを受けている間にアデレイドはセドリックに呼ばれてジェラルドの控室へと移動してしまった。
クリスティーナはアルフレッドがアデレイドを見つめた瞬間に好意を抱いたことを悟った。そして、彼女に婚約者がいるとを知ってかなり落ち込んでいることも。
(あぁ~……アルちゃん…もしかしたら初恋……だったのかしら)
クリスティーナが密かにはらはらしていると、アルフレッドが低い声で訊ねてきた。
「姉上、アデレイド嬢の婚約者にお会いしたことがあるのですか?どんな相手なのです?」
「え、えっと、優しそうな子だったわ。アディちゃんの幼馴染みだそうよ」
「……幼馴染み……そう、ですか……」
何故かさらにショックを受けたようなアルフレッドにクリスティーナはなんと声をかければよいのか分からずおろおろした。
「あ、アルちゃん……」
「姉上、今後一切、その呼び方禁止です。破ったら一生口ききません」
「!!」
ギロリと睨まれて、クリスティーナはこくこくと頷くよりなかった。
***
姉の婚約式から数週間後。
(……あ)
学院の銀杏の並木道をぼんやりと歩いていたアルフレッドは、噴水の前でセドリックが友人と談笑しているのを見つけ、声を掛けようと近付いた。
「……だろ、ローランド?」
(……え?)
アルフレッドが声を掛ける前にセドリックが気付き、声を掛けてきた。
「やぁアルフレッド」
「こんにちは、セドリック殿」
ぺこりと会釈しつつも、視線はついローランドへと向いてしまう。
それに気付いたセドリックがローランドを紹介する。
「彼はローランド・レイ。幼馴染みだ。ローランド、彼はアルフレッド・ウィンストン。クリスティーナ姉上の弟君だ」
「初めまして、アルフレッドです」
「ローランドです」
「ローランドはアディの婚約者なんだ」
(この人が……)
セドリックにアデレイドの婚約者だと紹介されて、ローランドははにかんだ。
柔らかそうなオリーブ・グリーンの髪が風に揺れる。瞳は満月を彷彿させる綺麗な金色。
何故かはわからないが、ズキリと胸が痛む。
「アデレイド嬢の……」
アルフレッドの瞳が揺れたのを見て、ローランドは何を思ったのか真顔で言った。
「アディのことは僕が幸せにします。必ず」
「はっ!?……な、なんですか急に」
「アディのことは生まれた時から愛してます。いや、生まれる前から、かな。アディが母親のお腹の中に居た時から大切だったから」
それから小一時間、アルフレッドはローランドの惚気を聞かされる羽目になった。
「ローランド、牽制し過ぎ……」
セドリックの呆れ気味のツッコミはアルフレッドの耳には届かなかった。
アルフレッドはよろよろと並木道を寮へと辿っていた。満身創痍だった。
(ぐっ……幼馴染み最強すぎる……ずるい……)
ローランドの惚気はアルフレッドを戦意喪失させるに十分過ぎるものだった。
***
例え叶わないと知ってもアルフレッドは新年度にはアデレイドが学院に入学してくることを心待ちにしていた。
(わかっている……彼女には婚約者がいる。でも……同じ授業を受けたり、教室移動を共にするくらいなら)
許されるのではないか、と。
そんなアルフレッドを嘲笑うように、姉のクリスティーナからアデレイドが留学したことを知らされたのは新学期が始まってしばらくしてからだった。
入学式を気にしたり新入生の収納棚付近をうろうろしても一向にアデレイドを見つけられず、痺れを切らして姉にそれとなく探りを入れてみたのだった。
「あ~……アディちゃんは諸事情により国外に留学を……」
クリスティーナは目を泳がせながら曖昧なことを言う。
諸事情って何だ。国外ってどこだ。
「姉上。……いつからご存じだったのですか?……どうして教えてくれなかったのです」
「あ、ぅ~…それ、は色々、事情があって……」
いつもなら何でもアルフレッドの言うことを聞いてくれる姉が珍しく言葉を濁す。
「アディちゃんのことだから、わたくしがぺらぺら喋るわけにはいかないのよ」
「………それは、そうですが……」
「わたくしだって淋しいのよ……」
アルフレッドは遣る瀬無い気持ちで溜息を吐いた。
自分は彼女にとって兄の婚約者の弟。
会ったのも一度きり。……別に留学することをわざわざ知らせるほどの間柄ではない……。それが、哀しかった。
(同じ学院にいれば、少しずつ、打ち解けることだって……)
せめて友人くらいにはなれたかもしれないのに。
アルフレッドはその後一週間は落ち込んで過ごした。
けれど学院内でローランドを見かけて、衝動的に彼の元へ走った。
「レイ卿!」
「……ウィンストン卿?」
ローランドは全力で自分の前まで走ってきた少年に瞬きした。
「どうされました?」
「……っ、あ……いや、不躾に……失礼しました」
アルフレッドは衝動でローランドの前まで来てしまったが、唖然としているローランドを前にして我に返った。
(僕は……何をしているんだ)
先月末、彼はアデレイドと正式に婚約した。
随分と急なことだったが、アデレイドが留学したからだと気付いた。
「……ご婚約、おめでとうございます」
「……あぁ、ありがとう」
ローランドはふわりと微笑んだ。その幸せそうな笑顔に気持ちがざらりとささくれた。
「……残念ですね、アデレイド嬢が留学して」
「――少し、時間いい?」
アルフレッドがアデレイドの名を口にした瞬間、ローランドの笑顔が冷ややかなものになった。アルフレッドは背筋にぞくりと冷たい汗が流れるのを感じた。
(失言だった……)
少し、意地悪な気持ちで言ってしまった。アルフレッドは自分の醜い感情を恥じた。
(アデレイド嬢のような可愛い婚約者がいるこの人に、嫉妬してしまった……)
それと同時に初めてローランドを見た時に胸に痛みを感じたことを思い出す。
(そうだ、この人が……アデレイド嬢の婚約者がもっと醜男なら良かったのにって思ったんだ)
そうしたら、勝ち目があると思ってしまった。自分は伯爵家の嫡男だし、容姿だって悪くない。でも。
ローランドは綺麗な顔立ちで、神秘的な満月色の瞳は思わず目を惹きつけられるほど美しい。その上二人は幼い頃から一緒に育った幼馴染み。互いを良く分かった上での婚約だ。
勝ち目なんてどこにもないではないか。
なんて醜い考えだろう。
ローランドに促されるまま、雑木林の中へ分け入る。
しばらく進んだところで漸くローランドが立ち止まった。
アルフレッドは恐る恐る辺りを見回して、木と木の間に両端が巻き付けられている布に気付いた。
(なんだろう、あれは……)
ローランドはアルフレッドの疑問には構わず、単刀直入に言った。
「学院ではアディのことは口にしないでほしい」
「………え……」
「……アディには少し事情があって……銀髪で紫紺色の瞳の少女を欲しがっている高位貴族から逃げているんだ」
「……は!?」
「クリスティーナさまから何か聞いていない?とにかく、アディのことは現在留学中であることや容姿については特に口外しないでほしいんだ」
(姉上から……ってそういえば、何か)
――アディちゃんのこと「可愛い」とか誰にも言ってはダメよ。アディちゃんに興味を持つ相手が増えたら大変だもの――
何かの雑談の中で、そんな感じのことは言っていた。
(かなり曖昧な言い方だな、姉上!)
「その高位貴族って……」
「それは……知らない方がいい」
「…………」
ローランドはそっと目を逸らして言葉を濁した。
アルフレッドは暫し絶句した。
(………アデレイド嬢が変態スケベジジイの毒牙に……!!)
……そして盛大に勘違いと妄想を膨らませイロイロと想像して――怒りに震えた。
「わかりました……絶対誰にも口外しません」
ふるふると握りしめた拳を震わせ、いつかその変態スケベジジイを成敗してくれると心に誓うのだった。




