008
ローランドが学院へと旅立ってから一週間が過ぎ、アデレイドは退屈を極めていた。
今まで一緒に遊んでいた子たちは親方の元へ弟子入りしたり、商家へ奉公に出たりするようになり、残った近所の子供たちはまだ幼いため、遊び相手として物足りないのだ。
そこへローズがにこやかに近付いて来た。
「アディ、貴女もそろそろレディとして教育を受けなくてはならないわ。先生をお呼びしたわよ」
ローズの後ろから若い女性が現われる。黒っぽい髪を後頭部できっちりと纏め、実用第一の洒落っ気のない眼鏡の奥の瞳は理知的で、少しも冗談が通じそうになかった。
「初めまして、アデレイドさま。私は本日より家庭教師として参りました、アマンダ・ノックスと申します」
(おぉ…、母さま、仕事が早い)
今までは我儘を許してくれた母だったが、そろそろ年貢の納め時ということなのかもしれない。
有無を言わさず、その日からアデレイドのレディ教育が始まったのだった。
とはいえ、今生のアデレイドが野性児のように野山を駆け巡っていたのとは違い、前世のレオノーラは公爵令嬢として申し分のない教養と所作を身に着けていた。アデレイドは教えられずとも、レディとしての身のこなしは完璧だった。
アマンダは、手ごわそうだと思っていた生徒が実は優等生だと知り、驚いた。
その上、アデレイドは基本的な勉強も学院入学に必要なレベルを満たしていた。
これでは何も教えることがない。失業の危機に、アマンダは震えあがった。
本音を言うと、アマンダは家庭教師になどなりたくはなかった。だが、他に道がなかったのだ。やっと掴んだ仕事なのに一週間もしないうちに失業では、斡旋所に無能の烙印を押されてしまう。それは困る。
アマンダはちらりとアデレイドを盗み見た。今のアデレイドはドレス姿だ。綺麗な少女だと思った。所作も美しい。それなのに、髪だけが無残にも首の後ろ辺りで切り落とされている。違和感に戸惑う。
「あの、アデレイドさま…。差支えなければ、その…髪を、短くされているのは」
アデレイドはふっと微笑んだ。その微笑は大人びていて、アマンダはドキッとした。
「…私は、もう、恋をしないと決めたのです」
「え…」
アマンダは驚いた。まだ十歳の少女の台詞とは思えなかった。言葉を失うアマンダに、少女はくすっと笑った。
「…恋をして、破れて、そして死んでしまった少女のお話を読んだの。とても切ないけれど、それで死んでしまうなんて、愚かだわ。だからそんな愚かな恋はしないと私は決めたの」
アデレイドが冗談めかして言うと、放心状態だったアマンダの瞳から涙が流れた。
「い、いけません。早まっては。アデレイドさまはそんなにお美しいのに、まだ幼いのに、今から恋を愚かといって切り捨ててはいけないわ」
アデレイドは目を見開いた。
「…でも、死んではいけないと思うわ…」
「ええ、死ぬのはいけません。でも、恋をして死んでしまった女の子を、愚かと言ってはいけませんよ。きっと、死ぬほど好きだったのです。それは尊い気持ちです。それを否定して、恋自体を拒否するのは間違いですよ。でも大丈夫ですよ、お嬢様はきっといつか幸せな恋をしますよ。だって貴女はこんなに可愛くて、賢くて、素敵な女の子ですもの」
アデレイドは呆然とアマンダを見つめた。アマンダは興奮のあまり、はあはあと肩で息をしていた。そしてふと顔を上げ、アデレイドと目が合うと、我に返ったように狼狽を浮かべ、かぁっと頬を赤く染めた。
「あ、すみません、私…」
それはきっちりとした、真面目なアマンダの印象とはかけ離れた姿だった。情熱的で感情の豊かな女性。
アデレイドは興味をそそられた。
「今のが、先生の本質?」
「い、いえ…」
アマンダは焦った。斡旋所では散々注意されたのだ。貴女は優秀だが、感情の起伏が激しすぎると。冷静沈着を求められる家庭教師に、それは致命的だと。
アデレイドは小首を傾げて、アマンダの瞳をじっと見つめた。アマンダは美しい紫紺色の瞳に溺れそうになった。
「…先生は、少女の気持ちを尊いと思うの?…報われなくても、それは間違いではないと?…思い続けても、いいの?」
アマンダは瞬いた。すっと真面目な表情になる。アデレイドの瞳が、とても真剣だったから。
「……報われない恋は、可哀想です。思い続けるのは辛いでしょう。だから、諦めてもいい。むしろ諦めたほうが楽になれる。…それでも諦められなかったとしたら、それはそのまま持ち続けていいと思います。でもきっと、生きていれば、いつかその想いは風化する。想ったまま死んでしまえば、想いは綺麗な結晶のまま、消えることなく残るかもしれないけれど、生きて時を刻めば、想いは形を変える時が来る。…私はそう思います」
「時間が、想いを変えてしまうということ…?」
「時間はすべてを変える力を持っていると、思います。新しい出会いや別れ、それはこの先の考え方や生き方を変えるかもしれない。そうなれば、苦しいまま持ち続けた気持ちを手放そうと思う日が来るかもしれない。来ないかもしれない。それは誰にも分りません。でも可能性は無限大です」
アデレイドの瞳から、透明な涙が零れ落ちた。アマンダは狼狽した。
――泣かせてしまった!?
アデレイドは小さく首を横に振った。
「…先生、ありがとう。…今日はもう、部屋に戻ります」
「あ、あの…」
おろおろするアマンダに、アデレイドは微笑んだ。思わず目が惹きつけられる、そんな艶やかな笑顔だった。
「また明日、先生」
部屋に戻ったアデレイドは静かに扉を閉めると、寝台にうつ伏せに倒れ込んだ。
涙が止めどなく流れるけれど、気持ちは穏やかで胸は希望に満ちていた。
…嬉しかった。
レオノーラを肯定して貰えたことが。
そして、自分に前世の記憶があるのは、想いを昇華するためなのだと思った。時間をかけて、ゆっくりとでいい。
「…うん、やっぱり、死んではダメだね…」
こんな風に三百年も後にまで、宿題を持ち越す羽目になる。
「…ローランドは、元気かなぁ…」
不意に、アデレイドは幼馴染みの顔を思い浮かべた。離れてからまだ半月しか経っていないけれど、既に懐かしい。
前世では、婚約者だった王子は学院に入学して、運命の女性と出会った。
アデレイドの胸が、ちくりと痛んだ。
「…別に、ローランドはお兄ちゃんみたいなものだし」
実の兄にだって、恋人が出来たらきっと淋しい。それと同じだ。アデレイドはバタバタと足を動かして、それ以上考えないようにした。