072
「ローランドあのね。週末なんだけど、ちょっと気分転換しよ?」
仲良く夕食を終え一息ついたところで、アデレイドは隣に座っていたローランドのシャツの袖をくいくいと引っ張って話を切り出した。
真面目なローランドがすんなり頷いてくれるか心配していたアデレイドだったが、拍子抜けするほどあっさりとローランドは承諾した。
ジャレッドに言わせると「陥落」だった。緊張からほんのり頬を染めるアデレイドに軽く上目遣いで「おねだり」されたローランドは瞬殺で墜ちた。
週末、ローランドは外泊届を出してジャレッドを伴い寮を出た。
アデレイドは既に前夜、ハロルドの手引きによって密かに外出済みである。
行先は街中を経由して途中ハロルドと落ち合い、迎えに来てくれていた馬車に乗ってグランヴィル公爵家へ。
馬車は裏門から敷地内へ入り、密やかに屋敷内へ案内される。
使用人通用口から入ると直ぐに公爵家の執事が出迎えてくれた。
「このような場所からご案内すること、大変申し訳ございません」
「いえ、むしろ有難く思っています」
ローランドは首を横に振った。
階段を上がり、ローランドは公爵家の書斎へ通された。
天井から床までの造りつけのマホガニーの書棚には綺麗に揃った背表紙の分厚い書物が並んでいる。
サイラスは部屋の中央に据えられたダークレッド色のベルベット張りの長椅子に泰然と腰かけていた。
「お久しぶりです、グランヴィル卿」
ローランドが礼儀正しく頭を下げると、身振りで対面の椅子をすすめられた。
「お悔やみを申し上げる。急なことで気持ちが落ち着かないことだろう」
執事がお茶を淹れて退出した後、サイラスは居住まいを正してローランドの父親の死を悼んだ。
「お気遣い頂きましてありがとうございます」
ローランドは父の急死から二月弱が過ぎて、ようやく母も自分も日常を取り戻し始めたことをぽつぽつと語った。
「君さえよければ私が君の後見になろう」
サイラスの提案にローランドは瞬いた。
グランヴィル公爵家という大家の後見。思いがけない申し出だが、願ってもない有難いことだった。
「……いいのですか?」
驚きを露わにした一瞬後に、すうっと冷静な表情を浮かべた少年に、サイラスは微笑した。
「ああ。領地経営で困ったことがあったらいつでも相談に乗ろう」
鷹揚に頷くサイラスに、ローランドは眩しさを堪えるように目を細めた。
胸に湧くのは憧れと悔しさ。サイラスの計らいは粋で、正直有難い。けれど同時に何故彼がそんな申し出をしてくれたのかは明らかで、それは決して自分を評価してくれたからではないことが悔しい。
(この人は……本当にアディのことを)
アデレイドを想う気持ちは誰にも負けるつもりはないけれど、アデレイドを何者からも守る力はサイラスの足元にも及ばない。そのことを痛感させられて、悔しいと思う。
それでも。
「……お心遣い、感謝します。学ばせて頂きます」
ローランドは真っ直ぐにサイラスの瞳を見返した。
今はまだ、遠い。けれど諦めたり、自分を卑下したりはしない。そんなことをしたら目の前のこの人は容赦なくアデレイドを攫っていくだろう。
試されているのだと思う。でも猶予も与えられている。
ローランドは恋敵に教えを乞うことになっても貪欲に学ぼうと決めた。
悔しいけれど、サイラスは本当に格好良くて憧れずにはいられない存在だった。
それでもローランドにも意地があった。いつまでも甘えるつもりはない。
「……2年。学院を卒業するまでの間で結構です。それまでに自立してみせます」
サイラスはローランドの強い眼差しに僅かに口元を綻ばせた。
若くして父親を亡くし、爵位を継承することになった現実は重荷だろうと思い手を差し伸べた。
僅かなりともローランドの負担が減れば、アデレイドも心安らかにいられるだろうと思ってのことでもある。
そんな申し出にローランドは強い決意で応えた。
それが思いの外心地良かった。
ここで挫けて投げ出してしまうような男なら論外だが、もしも恋敵の援助は受けないなどと意地を張って申し出を断られていたら失望していたかもしれない。
利用できる物は利用すべきだと思うからだ。
それに領主の責務は未熟ゆえの失敗が許されるものではない。
世の中には年若い新領主を食い物にする悪徳貴族や悪辣な商人もいる。グランヴィル公爵家の後ろ盾はその抑止力となり得る。貴族であれば誰もが欲しがる強力なカードだ。それをみすみす見逃すのは愚の骨頂だ。
「……それでいい。今はがむしゃらに前に進むことだけを考えろ。失敗してもいい、私がフォローする」
「……ありがとうございます。よろしくお願いします、グランヴィル卿」
***
「ローランド」
ローランドが書斎を出ると、目の前にアデレイドが待っていた。
「……アディ」
アデレイドは灰色の地味でシンプルながらもドレス姿だった。髪は緩く三つ編みにしてサイドに流している。
(……可愛い)
思わず見惚れているローランドに構わず、アデレイドはローランドの手を取ると悪戯っ子のように笑った。
「ちょっとお散歩しよ」
アデレイドは無言でローランドの手を握ったまま真っ直ぐに進んで行く。廊下を曲がり階段を下り、サロンの奥、ホールの扉窓からテラスへと出る。テラスには外階段があり、下りると庭へ出られる。玄関ホールとは反対側の奥庭だ。
テラスから庭へ下りて、庭園を突っ切っていく。
その足取りに迷いはなく、この屋敷内を我が物顔に歩き回る姿はまるでこの屋敷の住人のよう。
「アディ」
急にアデレイドが見知らぬ少女に思えてローランドは立ち止まった。アデレイドもローランドの手を掴んでいたため、立ち止まり、振り返る。
「ローランド?」
ローランドの顔を見ようとしたのに、ぽふっと顔面が何かにぶつかって何も見えない。
ぎゅっと腰を引き寄せられて、アデレイドはローランドに抱きしめられているのだと気付いた。
「………アディ」
「どうし……」
「………………」
ローランドはさらにアデレイドを抱きしめる腕の力を強めて離さない。
アデレイドの頭はローランドの鎖骨辺りまでで、すっぽりとその腕の中に囲われてしまうと逃げられない。
(……逃げるつもりはないけど)
よくわからないけれど、ローランドが今自分を必要としていることは感じ取れた。
そっとローランドの背中に腕を回す。今の自分に出来ることはこれくらいだ。
(もっとローランドの力になれたらいいのに。歯痒いなぁ……)
背中に回した手でローランドのシャツをきゅっと握り、ローランドの胸元に顔を寄せて目を閉じると、ふとローランドが身動ぎした。アデレイドが上向くと、自分を見つめているローランドと目が合った。
綺麗な金色の瞳。大好きな色。
思わずにこりと微笑むと、ローランドの目元が赤く染まった。
「……ごめん。急にアディが遠く感じられて……」
「なんで!?こんなに…近くにいるのに」
「…そうだね。ごめん、変なこと言って」
不安そうに自分を見つめるアデレイドの頬に口付けると、アデレイドの頬が赤く染まっていった。それを見て、ローランドは漸く腕の中に彼女を閉じ込めていることを実感できた。
アデレイドはここにいる。
ずっと、幼い頃から一緒に育った。一番近くで見守ってきた、可愛い幼馴染。知らないことなんてないはずなのに、突然小説を書いたり、筆頭貴族の次期公爵と仲良くなったり、驚くことばかりだ。
特に次期公爵であるサイラスのアデレイドへの態度は溺愛といっていいものであり、その愛情は無償の、何の見返りも求めない純粋なものに見えた。
権謀術数の渦巻く世界で筆頭貴族が、例え高潔と謳われるグランヴィル公爵家といえども、親族でもなく利害関係の全くない一人の少女に心からの愛情を捧げるなど、俄かには信じ難い。
(だがグランヴィル卿の気持ちは本物だ。彼は本当にアディを愛している……)
アデレイドは可愛い。ローランドにとって、彼女は代えのきかないたった一人の最愛だ。誰よりもアデレイドを可愛いと思っているし、愛おしい。アデレイドが生まれた時から彼女を見守り、大切に想ってきた女の子。彼女以外、目に入るわけもない。
だが、サイラスの周りには綺麗な女性は数多おり、いくらでもより取り見取りだったはずだ。しかも出会ったのは三年前、まだアデレイドは十歳だった。
いくらアデレイドが可愛いとはいえ、十歳の少女を二十一歳の青年が愛するなど誰が信じるだろうか。
その上解せないのは、サイラスがアデレイドのことを良く知っていること。まるで昔から側で見守っていたかのように。
(そしてアディも……グランヴィル卿に対して心を開いている)
サイラスに対し、アデレイドは全く警戒していない。まるで実の兄であるジェラルドやセドリックと同じように信頼し甘えているように見える。
まだほんの数回しか会っていないはずなのに。
人を信頼するのに会う回数は関係ないのかもしれない。年月も必要ないのかもしれない。
サイラスは信頼できる。それは間違いない。だがその結論はこの数年、サイラスと交流してきたからこそ得られたものだ。
アデレイドとサイラスの不可思議な絆。
サイラスの遠い先祖の肖像画の少女がアデレイドにそっくりなのだと、ジェラルドとセドリックから聞かされている。
サイラスとさらにオズワルド王子にとって、その肖像画の少女が初恋の相手であるらしいことも。
二人がアデレイドに執着するのはその肖像画の少女にアデレイドがそっくりだから、ということも理解は出来る。
けれど肖像画の少女とアデレイドは他人の空似であって、何のつながりもない赤の他人、別人だ。
アデレイドにとっては、二人は無関係の他人。
(そのはずなのに……)
時折感じる、余人には立ち入ることの出来ない二人の絆。
浅からぬ因縁があるのだと、サイラスは言った。
(何だよ、それ……)
知りたい。アデレイドが秘密にしていることを。
「ローランド?…大丈夫?」
アデレイドの声にはっと気付いて視線を下に向けると、心配そうな紫紺色の瞳に囚われた。
「具合、悪いの?」
アデレイドがほんの少し背伸びをしてローランドの両頬を包み込む。
こつんと額にアデレイドのそれが重ねられて、そっと離される。
「……熱はないみたいだけど……。庭園の奥に、お茶を用意して貰ったんだけど……やめておく?」
「……お茶……」
「生垣の奥にね、秘密の花園みたいな場所があって。えっと、今朝下見して薔薇も咲いていて綺麗だから」
(そっか……、アディは昨日からここに滞在しているから……)
「ローランドと一緒に見たいなって……」
「………!!」
「ちょっとだけでいいから」
アデレイドの華奢な指が遠慮がちにローランドの小指をつまむ。
「行こ?」
凝っていた感情がほろほろと解けていく。ローランドは無意識にこくりと頷いていた。
アデレイドが嬉しそうに破顔した。ローランドはもうそれだけで胸がいっぱいになった。
(アディが笑っているなら、それでいい)
アデレイドが今ローランドの前にいて、ローランドだけを見つめていることは紛れもない事実だから。
触れていた小指を解いてしっかりと手を繋ぎ、二人は秘密の花園へと向かった。




