066
庭園の隅でぼんやりと箒を握ったまま立ち尽くしている少年にハロルドは音もなく近付いた。尤も、例えハロルドが鼻歌を歌いながら近づいたとしても少年は気付かなかっただろう。それくらい心ここに在らずといった風情だった。
「……何かあったのか」
至近距離からのハロルドの声にびくりとジャレッドの肩が震えた。振り返ると一歩離れた木の側に射抜くような鋭い眼差しをしたハロルドがいた。知らない者が見ればハロルドが怒っていると思うだろうが、ジャレッドには彼が自分を心配してくれていることが痛い程分かった。
ハロルドは僅かに眉間を顰めた。
ジャレッドの顔色は蒼白だった。普段であれば誰が見てもおかしいと気付いただろう。けれどこの非日常において、とりわけローランドの様子に皆が心を砕いている状況の中ではジャレッドの異常は見過ごされていた。親族のグレアムでさえも今はローランドを支えることを優先していた。
「言ってみろ」
ハロルドは言葉少なに、けれど有無を言わせぬ口調でジャレッドに問うた。
ここ数日、ハロルドはジャレッドを注意深く観察していた。レイ邸に到着した時から彼の顔色の悪さに気付いていたのだ。憔悴していることにも。始めは主人想い故に彼もローランドの悲しみに同調して沈んでいるのかと思った。だが、ジャレッドの瞳にあるのは悲痛だけではなかった。
――罪悪感。
ハロルドはそんな彼の表情に違和感を覚えた。
(何を抱えている)
ジャレッドが自ら打ち明けてくれることを待ってみたがそろそろ限界だった。そしてそれは双方にとっても同じだった。
ジャレッドは罪悪感と恐怖に押しつぶされそうだった。誰かに吐き出してしまいたかった。その相手は前世の全てを知って、現世においては自分を見張り、かつ見守ってくれているハロルド以外あり得なかった。
「……俺の、せいかもしれない」
「………何が」
「ロバートさま…ローランドさまのお父上が亡くなったことが」
「馬鹿な」
「目を付けられたんだ、……魔女に」
「――――‼」
ハロルドは息を飲んだ。
ジャレッドの声は今にも泣き出しそうだった。彼は絞り出すように言葉を紡ぐと荒く肩で息を吐いた。
**
「そなたの名は―――アール」
――あの時、真紅の王女に前世の名で呼ばれたあの瞬間、ジャレッドは底のない闇に落とされたような恐怖と絶望感に襲われた。
音を立てて血の気が引いていくのが自分でも分かった。
絶句して動けないジャレッドに、王女はまた一歩近付く。絶体絶命かと思われた、その時。
「―――殿下、お時間です」
一瞬のようにも永遠のようにも感じた呪縛はその一言で解かれた。王女の背後からかけられた側近の諫めに、王女は仕方なさそうに溜息を吐いた。
「……わかった。今行く」
(助かった……)
ジャレッドの肩から力が抜けた。無意識に身体を強張らせていたようだ。だが、気を抜くのはまだ早かった。
「……またな、アール」
王女はジャレッドに艶然とした微笑みを向けるとくるりと踵を返してその場を後にした。
残されたジャレッドは王女が落して行った言葉に愕然としていた。
(……また?)
王女が「魔女」であるならばそう簡単に「アール」を見逃すはずがない。少し考えれば分かることだった。
(―――俺は、またあの女にいいように利用されるのか?)
そんなのはごめんだ。
(魔女が求めているのは恐らく「レオノーラさま」の情報。……俺は絶対に漏らさない)
ジャレッドは二度と王女に近付かれないよう、また、二人きりにならないように、常に友人や仲間の輪に潜り込むようにした。さらに、予防線として学舎の裏や人気のないところは行かない、通らない。
(一番大切なのはローランドさま。そしてアデレイドさま。大丈夫、俺の心は操られていない、奪われていない)
ジャレッドは朝起きた時と夜眠る前、ひとつひとつ自分の大切なものを数え上げて己の意識が正常か確認する。
前世の記憶もしっかりとある。魔女は敵。真紅の王女には近付かない。
そうやってしっかりと気を付けていたつもりだった。
――けれど相手に諦めるつもりがない時点で逃げ切ることは不可能だったのだ。
「ジャレッドくん、ローランドさまがここに来てほしいって」
授業を終えたジャレッドが教室を出たところに、一人の女子学生が手紙を持って近付いた。
その女子学生とはいくつかの授業が同じで顔見知りだったから油断した。
呼び出された学舎の一室で待ち構えていたのは真紅の王女だった。
「アール、やっと会えた」
何が嬉しいのか、王女は満面の笑みでジャレッドを迎えた。
「………俺はアールじゃありません」
ジャレッドは強張る身体を叱咤してなんとか口を動かし王女に訴える。
「人違いです。では」
踵を返そうとすると、後ろから肩を掴まれた。びくりと振り仰ぐと屈強な男に見下ろされていた。王女の護衛騎士だ。
「まあ、待て。名はそなたが教えてくれぬからわたくしがそう呼んでいるだけで、深い意味はない。嫌なら本当の名を教えてくれればよい」
「………なぜ、俺を」
「………探していたのだ。ずっと……」
王女は過去を思い出すように目を細めて空を見つめた。
その瞳は何かを憂えるように少しだけ心細そうに見えた。
ジャレッドは一瞬虚を突かれ、言葉を探して口ごもった。だが彼が言葉を見つけるより先に王女はニタリと笑った。
「そなたは今、ローランド・レイの従者だそうだな」
王女の言葉に心臓を握り潰されたような絶望と恐怖がこみ上げた。冷汗が吹き出す。
「…………それが、何か」
ジャレッドの声は掠れていた。けれど表情だけはなんとか無表情を貫いた。
「そなたは従者として生きていくつもりか?」
「…………」
ジャレッドは答える義務はないと思った。この女に何一つ情報を与えたくない。王女は既にジャレッドのことをある程度把握しているようだが、自分から教えてやる必要はないだろう。
「従者として最上級の場所で働きたくはないか?」
「――興味ありません」
王女が何を匂わしているのか察してジャレッドは即答した。その鋭い返しに王女は一瞬僅かに目を見開いたが、すぐに艶やかに微笑んだ。
「……ローランド・レイが大事か」
「…………‼」
ジャレッドは己の失敗を悟った。自分の大事な人を王女に知られてしまった。
その後のことはよく覚えていない。
気付いたら寮の自室で蹲っていた。夕食の時間になっても部屋を出て来ないジャレッドを心配してローランドが迎えに来てくれて、ジャレッドは漸く我に返ったのだった。
――事故が起きたのはその十日後だった。
**
「魔女が何かしたと思っているのか」
話し終えたジャレッドは力なく項垂れた。
前世の、魔女の最期を覚えている。凄絶な憎しみを宿した瞳で自分たちを呪っていた。
何をしでかしてもおかしくない目だった。
もしも、自分のせいでローランドの父親が亡くなったのだとしたら。
ぽん、と軽く肩を叩かれてジャレッドはびくりと身体を震わせた。視線を上げると目の前に跪いたハロルドが強く自分を見つめていた。綺麗な榛色の瞳。
「おまえのせいではない」
「――でも」
何か出来たのではないか。あの後すぐオズワルドに王女のことを報告していれば、王女を抑止出来たのではないか。
「王女のことはサイラスさまも調べている。監視もしている。不穏な動きをすれば阻止しているはずだ」
ハロルドの言葉はジャレッドにとっては一縷の希望だった。
「サイラスさまから特に何も連絡はない。王女は無関係だ。レイ卿のことは…痛ましい事故だ」
ジャレッドの眦から涙が零れ落ちた。
不可抗力の事故だったのだと思いたい。――自分のせいではないと。
父親を失ったローランドのことを思いやるべきなのに、そんなことを考えている自分はなんて浅ましいのか。
「俺……ローランドさまのお側にいて、いいのかな……」
「しっかりしろ。魔女がおまえの『大事な人』というだけでローランドさまに危害を加えるとは考えにくい。ローランドさまがアデレイドさまのご婚約者と露見したのならともかく」
ジャレッドははっとした。
「真偽はわからない。だがおまえは嘆いている場合ではないだろう」
ジャレッドはこくりと頷いた。
――そうだ、自分のために嘆いている場合ではない。本当に事故だったのか、魔女が何かしたのか、すべてはそれを確認してからだ。
「もし、魔女が何かしたとしたら、それだけで終わるとは思えない」
「―――――」
ハロルドの言葉にジャレッドの心臓がドクリと震えた。
その通りだと思った。
「どうすれば、いい」
「おまえは誓いを忘れたか。盾になるのだろう、ローランド殿の」
「……!……ああ」
「まずは情報収集だ。サイラスさまにご助力を仰ぐ」
「魔女はどこまで掴んでいるんだろう……。俺、魔女の懐に入り込んでみるべき」
「やめろ」
ジャレッドが言い終わる前にハロルドに強く止められた。
「危険過ぎる。魔女には迂闊に近寄るな」
ジャレッドはこくりと唾を飲み込んだ。
「……もしお前が魔女に操られても解除できる者がいない」
ハロルドは脳裏に浮かぶ緑色の髪のいけ好かない男を無理矢理追い出して溜息を吐いた。仮にあの男にその力があったとしても彼は隣国にいる。それではいざという時、間に合わない。
「だから無茶はするな」
「………わかった」
「……一応これを渡しておく」
ハロルドは少し眉間に皺を寄せて、不本意そうにしながら懐から何かを取り出した。
「?」
ハロルドの様子にジャレッドは首を傾げながらも手渡された物に目をやった。
「――護符だ。…………一応、効力は保証する」
ジャレッドは目をぱちくりと瞬いた。とても良いものに思えるのに、何故ハロルドはこんなに嫌そうなのだろう。
「ありがとう、バラクロフ」
ジャレッドが礼を言うと、ハロルドはふっと肩の力を抜いて微笑んだ。
「安易に王子殿下にも近付くな。おまえはローランド殿の側を離れるな」
ジャレッドはこくんと頷いた。ジャレッドの瞳に力強さが戻ったのを見てハロルドは小さく頷いた。
「大丈夫だ。おまえは一人じゃない。一人で悩むな」
ハロルドはとん、とジャレッドの肩をひとつ強めに叩いてしっかりと目と目を合わせると安心したように笑って屋敷へと戻って行った。
ジャレッドは心の中が随分軽くなっていることに気付いた。
(バラクロフは頼もしくて……格好いいな)
絶対に本人に言ってなんてやらないけど、と思いつつ、尊敬と憧れの眼差しで遠ざかるハロルドを見送った。