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065







 アデレイドは最速の馬車で故郷へと向かっていた。

 ジェラルドからの手紙を受け取ってすぐに簡単な荷造りをして馬車に飛び乗ったのだ。荷造りの間の僅かな時間にアマンダとハロルドが学院への休暇申請と長距離馬車の手配を済ませてくれていた。

 もうすぐ春休みということもあり、予め馬車の予約をしてあったため、日程を前倒しにすることはそれ程難しくはなかった。

 御者に全速力で進んでくれとお願いしてあり、要望通りに可能な限りの速度で走っているはずだが、アデレイドは歯痒かった。

(なんて遠いの……!)

 ユディネからエリスティアの国境まで通常の馬車の速度で五日、そこからレイ領までさらに五日。

 急いでもらっているので馬車はユディネを出てから四日目には国境の町に着いていた。

 ローランドと落ち合う予定にしていた町だ。

 だが今のアデレイドには町の様子を観る余裕など欠片もなかった。明日の早朝には町を発つつもりだ。

 アデレイドは宿の寝台に倒れるように横たわった。

(ローランド、すぐ行くから………)

 俄かには信じがたい、信じたくない報せ。まだその事実を事実として受け止めきれていないのが本音だが、それでも酷く胸が苛まれた。

 アデレイドでさえ、こんなにも胸が苦しくて辛い。ローランドの痛みはこの比ではないだろう。今すぐ彼の側に行きたい。今、ローランドの側に居ないことが酷く辛かった。







***





 ローランドは自分がどうやってレイ領まで戻ってきたのか覚えていない。

 気付いたら父親の棺の前に立っていた。


母親のヒルダは夫の死に憔悴しきっていた。あまりにも突然の別れだったのだ。実年齢よりも若く見える可愛らしい人だったが数日で一気に老け込んでしまっていた。すっかり頬もこけ、虚ろな瞳からは止めどなく涙が溢れている。

ローランドは何も言えず、ただ母を抱きしめた。



 ローランドは肩にずっしりと圧し掛かる重圧に押しつぶされそうだった。

 まだ十六歳で、小さいとはいえ数万の民が暮らす領地を治めるのは荷が重い。けれど領主が不安な顔を見せるわけにはいかない。だからローランドは毅然と前を向いていた。涙も零さずに。真っ先に土砂に埋もれた街道の復旧作業と領民の安否確認の指示を出した。領民は若き領主を誇りに思った。

 けれど、彼をよく知る人々―幼馴染のジェラルドやセドリックは、そんなローランドが痛々しくて見ていられなかった。




***





 何日経ったのかも定かではなかった。

 ひっきりなしに訪れる弔問客に挨拶を返すことを繰り返すだけの日々。

 もう雨は上がったはずなのに、世界は灰色に包まれたまま。色褪せた風景の中にいるみたいだった。それでもローランドは黙々と領主の仕事をこなした。





 その日も弔問客が帰るのを屋敷の前で見送って、屋敷内に戻ろうとした時だった。見送った馬車と入れ替わるように一台の馬車が近付き、屋敷前に止まった。

 馬車から銀色の光が転がり落ちるように飛び出して、一直線にローランドの元へ駆け寄って来た。


「ローランド!!」

 ローランドの金の瞳が見開かれた。

 声には悲痛な色が滲み、今にも泣き出しそうなのに駆け寄ってくるその姿は生命力に溢れて力強い。


 柔らかい塊がローランドにぶつかってきた。華奢な身体、銀糸のごとき流れるような銀髪。

 アデレイドだ。

 アデレイドはぎゅうっとローランドの胸に抱き付いた。

「ローランドが一番辛い時に、側に居られなくて、ごめんね……」

 アデレイドはぽろぽろと涙を零した。ローランドの胸は温かい涙で湿った。

「私、おじさまのこと大好きだったわ……」

「………アディ」

 柔らかくて温かいアデレイドの身体の体温がじわじわとローランドに移る。

 ローランドの瞳から涙が溢れた。アデレイドの涙が芯から凍えたローランドの心を包んで解かしたのだ。


 ずっと、泣き方を忘れていた。

 ローランドはぎゅっとアデレイドを抱きしめた。それは溺れる者が必死に縋り付くようでもあった。

 アデレイドはローランドの背中に手を伸ばして、そっと撫でた。ぽとぽとと、涙がアデレイドの背中に落ちる。

(ローランド…)

 アデレイドも一緒に泣いた。



 不意にずしりとアデレイドの身体に重みが落ちて来た。

「ローランド…?」

 ローランドが意識を失ったのだ。

 アデレイドは支えきれず、その場に座り込んだ。すぐに兄たちが駆け寄って来て、ローランドを抱えてくれた。

「大丈夫、寝てるだけだ。ローランド…この一週間ろくに眠れなかったんじゃないか」

 ジェラルドがローランドを抱きかかえながら言った。

 アデレイドの瞳にじわりと新たな涙が浮かんだ。

 アデレイドはローランドの側に居たいと思った。




 深夜、ふとローランドは目を覚ました。枕もとに小さな明かりが一つ灯っており、寝台の周りがぼうっと闇に浮かび上がっていた。手のひらに温もりを感じて視線をやると、華奢な手がしっかりと繋がれていた。手の先を目で追うと、アデレイドが寝台の脇に置いた椅子に座って、上半身を寝台に突っ伏すようにしてすやすやと眠っていた。

 自然とローランドの頬が綻んだ。

(…アディ)

 アデレイドの体勢が窮屈そうだったので、そっと抱き上げて、寝台に横たえた。アデレイドは起きなかった。

 ローランドもアデレイドの隣に横になった。アデレイドの寝顔を見つめると、胸の奥がほわっと温かくなるのを感じた。アデレイドの頬には涙の痕があった。

 ローランドの胸がふるりと震えて、涙が頬を伝った。

(…父上…)

 この一週間感じていた重圧とは違う、喪失感にローランドは涙を流した。やっと父のために泣くことが出来た。胸の空白を埋めるように、ローランドはアデレイドを腕に抱きしめた。

(アディ…。今だけ、側に居て)

 



 翌朝目覚めたアデレイドは、自分がいつの間にかローランドの寝台に潜り込んで、しかもローランドに抱きしめられている状態に動揺していた。

(え、あれ!?何がどうなったんだっけ!?)

 でも、ローランドの頬に涙の痕を見つけて、ふっと興奮が冷めた。

(ローランド…夜に、泣いた…?)

 痛ましくなって、アデレイドは眉間に皺を寄せた。指でローランドの頬をなぞる。ふわりと蝶が翅を広げるように、ローランドの睫毛が揺れて瞼が開いた。金色の瞳がアデレイドに焦点を結ぶ。

「おはよう、ローランド」

 アデレイドが優しく囁くと、ローランドが微笑んだ。その様子はどことなく夢心地で、まだ半分寝ぼけているのかもしれない。

「…アディ…」

 きゅうっと抱きしめられる。アデレイドは焦ったけれどローランドの好きにさせてあげようと思った。

「ローランド、眠れた…?」

 労わるように訊ねると、ローランドはこくりと頷いた。

「…久しぶりに、熟睡した…」

 アデレイドはよかったと思った。

「ご飯食べよう?」

 ローランドはアデレイドを抱きしめたまま目を瞑った。

「…うん。アディも一緒に食べるなら…」

 アデレイドは頷いた。ローランドに甘えられているなあと感じて嬉しくなった。でもそれだけ彼が喪失感を抱えているからだと思うと切なくなる。今アデレイドに出来ることは、思い切りローランドを甘やかしてあげることくらいだ。

「じゃ、起きよう」

 アデレイドがローランドの腕から抜け出そうとすると、ローランドがぎゅっと腕に力を込めた。

「アディ、行かないで」

 アデレイドは胸を衝かれた。ローランドの声には切迫感があった。

「…行かないよ。側に居る」

 腕を伸ばしてローランドのふわふわの髪を撫でると、ローランドが目を開けた。目が合った。そのまま見つめ合うこと十秒。

「……!!」

 ローランドは今はっきりと目覚めたようだった。けれど何故目の前にアデレイドがいるのかは理解出来ないようだ。

「ア、ディ…?」

「…おはよ」

 アデレイドは微笑んだ。ローランドはがばりと跳ね起きた。

「え、なん…」

 混乱するローランドにアデレイドは恥ずかしそうに言った。

「ごめんね、ローランド…。私、いつの間にかローランドの寝台に潜り込んでいたみたい」

 そこの椅子に座っていたはずなんだけど、と続けると、ローランドは瞬いた。

「え…あ。…ああ、思い出した。……アディが椅子から落ちそうだったから、僕が寝かせたんだ」

 そうだったのか、とアデレイドは納得した。だが。

「…ローランド、夜中に起きちゃったの?」

 アデレイドの顔が心配で歪む。ローランドは微笑んだ。

「一瞬だけね。すぐにまた寝たよ」

 アデレイドは安心したように微笑んだ。

「…でも、もう少し寝てる?」

 ローランドはその誘惑に心が揺らいだ。

(アディが側に居てくれるなら、眠れそうだ…)

 でも、折角アデレイドがいるのに、顔を見ないのは、話をしないのは勿体無い。ローランドは微笑んだ。

「起きて、朝ごはんにしよう」

 アデレイドも微笑んだ。



 アデレイドとローランドが顔を合わせるのは約一年ぶりだった。そんなに離れていたのは初めてだった。ローランドが学院に通いだしても休みのたびに会えていたので、長くても半年程度がこれまでの最長だった。

 久しぶりに見るローランドは一年前よりさらに背が伸びて、顔立ちも精悍になっていた。今は少しやつれて顔色も悪いけれど、それは徐々に解消されるだろう。

 アデレイドはセドリックから、この一週間ローランドはほとんど食事が喉を通らない状態だったと聞いて、甲斐甲斐しく隣の席に座って世話を焼いていた。

「ローランド、これも食べて。チーズは?」

 ローランドはぼうっとアデレイドを見つめていた。この一年でアデレイドの背もずいぶん伸びた。顔つきも大人びてきた。髪は腰までの長さで、ローランドが贈った金地にオリーブ・グリーンのレースがあしらわれたリボンで纏められている。アデレイドが振り向くたびに銀の髪がキラキラと揺れて、美しい。長い睫毛に縁どられた紫紺の瞳は深みを増し、神秘的だった。その瞳に見つめられたら誰もが魅入られずにはいられないだろうと思わせるほど。

相変わらず服装は男物だけれど、もう誰もアデレイドを男の子とは思わないだろう。

ローランドがぼんやりしたままパンを取るために伸ばした手が、アデレイドの手に触れた。

「あ…」

 アデレイドは手を引っこめようとしたがローランドに掴まれてしまった。ローランドはどこかぼうっとしたままアデレイドの手をきゅっと握った。

 そのまま手を口元に運ぶ。アデレイドは焦った。

(何かローランド寝ぼけてる?私の手をパンと勘違いしている!)

「ローランド、それ…」

 パンじゃない、と言おうとして口を開きかけたが遅かった。ローランドはアデレイドの手に口付けた。

(え…!?)

 口付けたままちらりとローランドが目だけをアデレイドに向けた。色気の滲んだ眼差しにアデレイドはドキリとした。直後、ぐいっと引っ張られてローランドの胸に抱きしめられた。

「アディが好き過ぎてどうにかなりそう…」

(な――!?)

 耳元で切なげに囁かれてアデレイドはぞくっとした。身体の力が抜ける。顔が赤くなる。

「ローランド…」

「食堂で何をしている」

 その時セドリックの苦い声が響いてアデレイドは我に返った。ローランドの腕が緩んだので慌てて立ち上がる。

「まあ、ローランドに少し元気が出たならよかったじゃないか」

 苦笑しながらジェラルドも食堂に入って来た。

 二人が入ってきたことで正気に戻ったローランドは片肘をテーブルについて目を覆った。

(あー…何やってるんだ、僕は……)

 精神状態がめちゃくちゃだった。

 父を失った哀しみと切なさと、それに伴う重圧と緊張感をやわらげるためにアデレイドに甘えて縋り付いて。

「ごめん、アディ……」

 自分が情けなくて項垂れるローランドに、アデレイドは驚いたように目を見開いた。

 それから迷いのない動作でローランドの頭をぎゅっと抱きしめた。

「!?」

「私もローランドが大好きよ。ローランドは十分頑張っているわ。だから甘やかしたいの。もっと甘えていいのよ」

「アディ」

 ローランドの両腕がアデレイドの背中に回ってぎゅと引き寄せられた。

「ありがとう、アディ」

 胸元が温かく湿る。ローランドが泣いていることに気付いたアデレイドはそっとローランドの髪を撫ぜた。ローランドの腕にさらに力が籠ってアデレイドは胸がきゅんとした。

 甘えられるのが嬉しくて、でも泣いて欲しくなくて、一緒に泣きそうになる。でもローランドが泣くのが自分の胸なのが安心出来て、愛おしい。

 そんなアデレイドの頭をジェラルドとセドリックは優しく一撫でしてアデレイドに目配せすると、そっと食堂を後にした。




 昼間、ローランドは領主として様々な執務をこなし、今なお訪れる多くの弔問客の対応に追われていた。

 その間、アデレイドはヒルダと共に過ごした。アデレイドの母親のローズも駆け付け、ヒルダはローズやアデレイドとお茶をしたり、穏やかに過ごすことで、ゆっくりと心を取り戻していった。

「この二週間ほど、記憶が曖昧なの。ダメね…母親失格だわ」

 流れ続けた涙も漸く涸れ、ヒルダは自嘲気味に微笑んだ。

「突然すぎたもの。無理もないわ」

 ローズは親友の肩をそっと撫で、労わった。

「ローランドを一人にしてしまったわ」

「ローランドにはわたしがいます」

 自分を責めるヒルダを励まそうとアデレイドが力強く言うと、ヒルダは驚いたように目を見開いたあと、嬉しそうに微笑んだ。

「まぁ頼もしいわ、アディちゃん」

「一人になんかしません」

「あの子をよろしくね、アディちゃん」

 勿論アデレイドに否やはなかった。




 アデレイドがレイ領に来てから十日経った。その日の午後、アデレイドはジェラルドとセドリックに彼らの泊まっている客室に来るよう言われた。

 室内は落ち着いたグリーンの色合いで纏められている。子供の頃からデシレー兄弟のために用意されている部屋だ。

 二間続きの部屋で、居間の一人掛けの肘掛椅子にジェラルドが、二人掛けの長椅子にセドリックが座って待っていた。セドリックはアデレイドを手招いて隣に座らせる。

 

「俺たちはそろそろデシレー領に帰るよ。…アディはどうする?」

 ジェラルドに静かに問われたアデレイドは間髪置かずに答えた。

「ここにいる。…ローランドの側に」

 ジェラルドは目を瞠った。アデレイドに迷いはなかった。強い決意を感じさせる眼差しに、ふわりと目元を緩めて優しく笑んだ。

「そうか。…ローランドも喜ぶだろう。アディの思う通りにするといい」

 ジェラルドの大きな手に髪を撫でられて、アデレイドは勇気が湧いてくるのを感じた。












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