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もう、恋なんてしない  作者: 桐島ヒスイ
第二部

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062





「精霊節?」

 振り返ったアデレイドにセレスティアはふっと微笑んで頷いた。貴公子然としたその笑みは凛々しく、離れたところからそれを見ていた乙女たちの心を容易く掻っ攫っている。

「今月の末日は精霊がこの地に降り立ち宴を催すと言われていてね。その日は無礼講で皆が仲良く酒を酌み交わし友誼を深める。人も精霊もその姿を見咎めず、ただ出会えたことを共に喜び合うんだ」

 それはこのヴェネトに古くから伝わる伝統行事だった。ヴェネトは大国に挟まれた小国であり、常に侵略の脅威に晒されてきた。だが同時に各国の異文化が集まり交わる、国際色豊かな土地でもあった。人や物が行き交い交易が盛んだが文化が違えば行き違いや衝突なども頻発するのは当然で。

 そんな土地柄だからこそ、一年に一度、宴を開いて蟠りや諍いを水に流す日を設けたのだろう。

「まあ、本来は人だけでなくこの世界には精霊や妖精も存在して、共に生きていることを寿ぐ日なんだけど」

 現在では多民族共存の意味合いが強いが、と苦笑しながらも名前の通り精霊を受け入れる祭りであることの名残でその日は民がみな精霊に扮するのだという。

「と、まあそんなわけで」

「え、ちょっとセレスティア!?」

 アデレイドは有無を言わせずセレスティアの家の馬車にぐいと押し込められ、バルトレッティ伯爵家へと連れ去られたのだった。



「アデレイドの扮装を決めたくてね」

 誘拐犯は犯行の理由を悪びれずににっこりと笑って言ってのけた。

 アデレイドは呆れたがさらに呆れたことにセレスティアは事前にハロルドとアマンダに話を通していたらしく、二人はアデレイドの乗った馬車のすぐ後ろに続く馬車に乗って付いてきていたのだった。

「ハロルドはともかく……アマンダ先生は……」

「アデレイドさまが精霊の恰好をされるのを見過ごすわけにはまいりません!」

 爛々と目を輝かせて宣言されてしまった。アデレイドが脱力しているとセレスティアはくすっと笑った。

「そう言うと思った。それじゃ早速着替えようか」

 セレスティアがパチンと指を鳴らすと、待ち構えていたかのようにわらわらと伯爵家の侍女たちが現れアデレイドを客室へと攫って行ったのだった。




 精霊節の扮装は昼間は主に成人前の子供たちが春や夏、光の精霊に扮し、夜は大人たちが秋や冬、闇の精霊に扮するのが習わしとなっている。昼の精霊は可愛らしい感じで夜の精霊は妖艶だ。

 アデレイドは成人前なので昼の精霊に扮する。


「これは…想像以上だな。いい。可愛いよ、アデレイド」

 着替えの終わったアデレイドにセレスティアが感嘆の声を上げる。

 アデレイドは夏の精霊の装いをしていた。薄い若草色の紗の生地を花びら型に切り抜き、腰元から束ねるようにして足元へと広がるように何層も重ねたドレスは所々金糸で縫取りがされており光を反射してきらきらしている。さらに背中には蜻蛉の翅のような質感の精緻なレースの布で作られた翅を纏っている。アデレイドが動くたびにふわりと舞う様は妖精そのものだった。

 アマンダは頬を染めて魅入っているし、ハロルドも僅かに口元が綻んでいる。

「お嬢さま、春と光のドレスもお召し頂きたいのですが」

 侍女たちが薄桃色のドレスとゴールドのドレスを手に鼻息も荒く迫る。

 アデレイドは逃げ腰だが、セレスティアがいい笑顔で当然と頷いたので拒否権はなかった。



 アデレイドがすべてのドレスを試着させられてみんなが満足した頃には夕刻を過ぎていた。

「結局セレスティアのドレス姿は見られなかったわ」

 アデレイドは若干むくれてセレスティアを睨む。結局着替えをしたのはアデレイドだけで、セレスティアは見ているだけだったのだ。

「はは。私は着ないから」

「え!?何それ、勿体無い」

「……。もったいない?」

 セレスティアは何を言われたのか分からないといった珍しくぽかんとした表情を浮かべた。

「絶対可愛いもの。見たかったな」

「………………」

 じわじわと言葉の意味を理解したセレスティアはパッと口元を覆った。

「セレス?」

 目元が朱く染まっている。

「か、可愛いわけないだろ!……私はこんな、男みたいだし……」

「そんなことないわよ。すらっとしていて恰好いいけど、セレスは可愛い恰好が似合う女の子だと思う」

 中身、乙女だしね、と内心微笑ましく思いながらそう言うと、周りにいた伯爵家の侍女たちも力強く頷いた。

「セレスのドレス姿、見たいな」

 アデレイドがにっこりと微笑むと、セレスティアはう、と息を飲み、視線を彷徨わせたが、周りの侍女たちからの期待するような視線に逃げ場を失い、観念したのだった。






 精霊節当日。

 街中は精霊で溢れていた。男の精霊は丈の長い一枚布を肩から斜めに垂らして、ぐるぐると身体に巻き付けて襞を整えてピンで止めた恰好だ。男女ともに背中に翅を生やしていることは共通で、小さな子供たちの姿は愛らしいの一言に尽きる。

 その日は精霊の好物であるというメレンゲのクッキーを仲のいい人やお世話になっている人に配るのだという。

 アデレイドは前日にセレスティアの屋敷で彼女と一緒に料理人に教わりながら大量のメレンゲクッキーを作った。

 早速アマンダとハロルドに贈ると、二人ともとても喜んでくれた。

(エリスティアに戻ったらローランドにもあげたいな)

 勿論、両親や兄たち、ローランドの両親やサイラス、屋敷の使用人たちにも。

 エリスティアにはない風習だけれど、素敵だし、楽しいと思ったから。




 学院へは朝から精霊の扮装で通うことが許されていた。

 寮の前でセレスティアと待ち合わせたアデレイドは息を飲んだ。

「セレス、大人っぽい……」

 アデレイドが延々試着をさせられた日は結局セレスティアのドレス姿は拝めなかった。それでも当日はドレスを着ると渋々約束してくれたので密かに楽しみにしていたのは、ドレス姿に照れる彼女の姿だったのだが。

「ふふ、ありがとう」

 散々渋ったのが嘘のようにセレスティアは堂々としていた。

「開き直るしかないからね」

 胸を張って颯爽と歩く姿は凛として魅力的だった。

「セレス、格好いい」

 アデレイドも彼女を見習って今日限りの精霊姿を愉しむことにした。



 登校したアデレイドとセレスティアの姿に周囲から感嘆の吐息が零れた。

 普段男装の二人の少女がドレス姿だというだけでも驚きなのに、翅付ということで人目を惹かないはずがなかった。

二人はそれぞれゴールドの艶やかなドレスと、薄桃色から紫苑色へのグラデーションが美しいドレスを纏っていた。

 背の高いセレスティアは身体の線に沿った細身のゴールドのドレスを難なく着こなしていた。アデレイドより二つ年上のセレスティアは子供から大人へと移ろう危うさとみずみずしさを醸し出しており、さらに短い髪にほっそりとした項と華奢な骨格は少女でありながら少年のようでもあり、妖しい色香を漂わせていた。背中に纏う翅は蜻蛉のような細長い二枚。

 アデレイドはバルトレッティ家の侍女やアマンダに激しく推奨された、春の精霊の可愛らしいドレスに身を包んでいた。ドレスの胸元は薄桃色だが腰から裾へは次第に淡い紫苑色へと変化しており、袖は丸く膨らんだパフスリーブで大人っぽさと可愛らしさを併せ持ったデザインだった。

 いつもは纏めている髪もこの日は梳き下ろしており、さらさらの白銀の髪が陽光に煌めいて人々の視線を攫っていた。背中には蝶のような翅を纏っている。本当に精霊が舞い降りたかのようだった。


 アデレイドは久しぶりのドレス姿で落ち着かなかったが、学院中翅を生やした精霊だらけなのでどことなく気分も高揚し、それ程気にならなくなった。むしろ通常通りの男装をしていた方が変に落ち着かなかったかもしれない。

(楽しむって決めたしね)



 授業は半日で終わりで、学院では昼食に立食パーティーが企画されている。

 その後は各自街中へ出たり、そこら中で開かれているパーティーに出席したりと自由だ。精霊節は異文化交流の祭なので学院も学生たちに様々な催しに参加することを奨励していた。


「アデレイド、覚悟はいい?」

 立食パーティーの会場前でセレスティアはにやりと人の悪い笑みを浮かべた。

「蜜蜂の群れに飛び込む花の気分を味わえるよ」


 セレスティアの予言通り、立食パーティーの会場でアデレイドとセレスティアは大勢の学生たちに囲まれた。

 今までなかなか声をかけることが出来なかった者たちがここぞとばかりに押し寄せたのだった。

「ドレス、素敵です」

「留学生だよね。ヴェネトは慣れた?」

「前から一度話してみたかったんだ」

「どうして男装を?」

「この後うちのパーティーに来ない?」

 沢山の人に同時に話しかけられてアデレイドは内心狼狽えたが、なんとかひとりひとりに返事をしていった。

 パーティーの誘いは、あまり目立ちたくないが、かといって折角の交流の機会を潰すのも淋しいと感じたので貴族や大きな商家のものは断り、小ぢんまりとした集まりにのみ参加することにした。

 皆出席を無理強いすることはなく、気軽に誘うが断られても気にしない大らかな国民性であるらしい。

 セレスティアは家の繋がりから断れない貴族のパーティーがあるということで敢え無く別行動だ。



 小さなパーティーは料理や飾りつけなどは素朴ながらも手作りで、家族や親しい友人のみが集う温かい雰囲気のものが多く、とても楽しかった。

 初めて喋る人ばかりだったが、皆とても気さくで朗らかな人たちだった。招待されたお礼にとメレンゲクッキーを配る。

 いくつかのパーティーを梯子すれば時間はあっという間に過ぎ、気付けば既に日も沈みかけていた。付き従っていたアマンダがそろそろ寮に帰りましょうかと水を向けるも、アデレイドはもう一カ所だけ寄り道したいと言った。



 町の中心部にある荘厳な建物。

 アデレイドの目的地が聖堂院と知り、ハロルドは眉間に皺を寄せた。

「ハロルド…すぐ済むから」

「……はい……、いえ」

 ハロルドは主の行動に文句を言うつもりはないと言いかけたが、本音はこの場所に近付いて欲しくないので、下僕に有るまじき返答になってしまった。アデレイドは苦笑してごめんねと謝った。


 アデレイドは聖堂の中に足を踏み入れた。

 街中ではそこかしこで精霊に扮した人々が楽しそうに笑ったり踊ったりしていたが、聖堂内は静謐に包まれていた。

 少なくない人々が礼拝や観光で聖堂院を訪れていたが、皆自然と厳かな心持ちになるようで、騒ぐ者はおらず、とても静かだ。

 聖堂院は青い花で溢れていた。

「綺麗……」

 青いステンドグラスと相まって、聖堂内は青で満たされ、不思議で神秘的な異世界のような雰囲気を醸し出していた。


「精霊は青い花を好むのだそうですよ」


 低く艶やかな声に振り向けば、そこには穏やかな笑みを湛えた聖導師長が佇んでいた。

「貴女も青い花に惹かれてこちらを訪れてくださったのですか?可愛らしい精霊殿」

 ヴィンセントはからかいを浮かべながらも楽しそうに笑った。

「こんばんは、ヴィンセントさま」

 アデレイドは聖堂の美しさに魅せられて感嘆した。

「本当に精霊も誘われて来そうですね」

 ヴィンセントはいつも通りの聖職者の聖衣を纏っていた。顔も髪と眼鏡で隠したままだが、彼がその美貌を露わにし、精霊の格好をしたら本物の精霊にしか見えないだろう。

「精霊節を楽しんでおられるようですね」

「はい。満喫しました」

「それはよかった。そのドレス、とても似合っています。攫いたくなりますね」

 柔らかく微笑んでアデレイドを見つめるその眼差しは甘く、色っぽい。

 悪戯っぽく片目を瞑る青年にアデレイドはくすりと笑った。ヴィンセントの言葉や態度に悪意や邪さはなく、軽口で戯れているに過ぎないのだが、そうは思わない者もいるようだった。

 ちらりと後ろを振り返るとハロルドがしかめっ面をしており、それに気付いたヴィンセントも僅かに苦笑した。

 アデレイドは早目に用件を済ませることにした。 

「ヴィンセントさま、受け取ってください」

 アデレイドにメレンゲクッキーを手渡されたヴィンセントの顔は見ものだった。

「これを私に……?」

 妖艶な色香を纏う美貌が驚きに呆然とし、狼狽している様はどこかあどけなく見えて、新鮮だった。ヴィンセントがそんな顔をしたことにアデレイドも驚いた。

「……もしかして貴女の手作りですか」

「はい。お口に合うか分かりませんが……」

「………ぁりがとう、ございます」

 ヴィンセントの声は掠れていた。けれど戸惑いを浮かべながらもふわりと、初々しくも花が色付くように艶やかに笑んだ顔は今まで見た彼の表情の中で一番美しかった。

 アデレイドは目を瞠った。

(なんか…こそばゆい、というか)

 知らず、はにかむ。

 メレンゲクッキーのような甘い菓子をヴィンセントが好きかどうかはともかく、これは贈ることに意味のあるものなので、アデレイドは受け取って貰えて嬉しかった。

「貴方に精霊の加護を」

 この日出会った人に必ず言う決まり文句だが、心を込めて言うと、ヴィンセントはさらに笑みを深くした。とても幸せそうに。

「ありがとう、貴女にも」

 アデレイドの今生での幸せを願ってくれている人。その彼にも幸せになって欲しい。それを伝えたくてここを訪れたのだ。

 精霊節のこの日、精霊に扮した者は精霊と同格と見做される。故に、今のアデレイドは今日に限り、正しく「精霊」だ。精霊に加護を貰うことは祝福を与えられるということ。

 迷信だとしても、気持ちは本物だ。

(自己満足だけどね)

 それでもアデレイドは満足して微笑むと、踵を返した。

「アデレイドさま。これを」

 ヴィンセントが飾られていた青い花を一輪花瓶から引き抜き、アデレイドに差し出した。

「精霊へのお返しは青い花を贈る決まりなのです」

「そうなのですか」

 学院内では精霊に扮した人ばかりだったため、精霊同士、メレンゲクッキーの交換をしたが、人間と精霊の間では少々贈り物が異なるらしい。

「でも、いいんですか?」

 聖堂内を飾っていた花を抜いてしまっていいのだろうか。ヴィンセントは勿論、と頷いた。

「あと数時間で精霊節は終わります。明日には一般の市民に配る予定なのです」

 それなら少し早いが自分が貰っても大丈夫だろうとアデレイドは微笑んだ。

「綺麗。ありがとうございます」

「すみません、剥き出しのままで」

 ヴィンセントは決まり悪そうに少し眉根を寄せた。

 メイナードならば突然の贈り物への返礼にも慌てることなくリボンを巻いた花束を卒なく用意していただろう。

 けれどヴィンセントは聖堂内に飾られていた花をそのまま手渡した。ヴィンセントは自分の不手際を恥じるように眉根を寄せて前髪をかき上げた。情けなさそうに目元が下がっているが、ほんのりと紅く色付いたその表情は色香を纏い、悩まし気だ。

 アデレイドはそんな朴訥青年のヴィンセントを好ましいと思った。

「ヴィンセントさま、ありがとうございます」

 白い花がふわりと花開くような笑顔に、その場にいた誰もが薄青い聖堂内が明るくなったかのような錯覚を覚えた。

 くるりと軽やかにドレスと銀の髪が舞って、精霊の少女は聖堂内を後にする。

 ヴィンセントは呆然と目を瞠ったまま、少女が遠ざかるのを瞬きも忘れて魅入った。

 銀の煌めきをまき散らしているのではないかと錯覚しそうなほど、彼女が進む道はきらきらと輝いて見えた。

(貴女は…罪作りな人だ)

 アデレイドの姿が完全に扉の外へ出て見えなくなったあと、ヴィンセントは漸く呪縛から解かれたように瞬きをした。そして掌に残された菓子の包みに目を向ける。

 綺麗な包装紙に包まれ、丁寧にリボンが巻かれた可愛らしいそれに口元が綻ぶ。

 彼は大切そうにその包みを持って自室へ戻った。



 聖導師長と精霊の少女を近くで目撃した聖導師見習いの少年は、普段は穏やかで慈悲深いものの、滅多に笑わない聖導師長が嬉しそうに微笑み、愛おしそうに少女を見つめていることに衝撃を受けた。

 さらに驚いたことに、自室へ戻った聖導師長のために紅茶を淹れて訪った際、あまり甘いものを好まない聖導師長が、美味しそうにメレンゲクッキーを食べていたのだ。いつもならば参拝者から頂いた菓子などは聖導師たちや見習いに振る舞ってくれるのだが、精霊の少女から受け取ったそれは誰にも振る舞われなかったようだ。

 珍しい、そして誰にでも分け隔てなく優しいが誰にも執着していないように見えた聖導師長にも独占欲のようなものがあるのだ、と少年は驚きと共に何故か嬉しくなった。

(あぁ、そう言えば)

 少年はあることを思い出して納得して一人頷いた。

 精霊節の日に青い花を贈る意味。

聖導師長はクッキーのお礼にと言っていたが、本来青い花は好きな相手にしか贈らない、特別なものだ。

(あの少女はその意味を知らないようだったが)

 とても大切な相手なのだろうと少年は感じた。少女の容貌は聖堂院が密かに崇拝している「聖女」を彷彿とさせた。

(可憐な少女だったな)

 清廉潔白な聖導師長さまとお似合いだ。

 少女が花の意味に早く気付けばいい。少年は市民に配るため、聖堂内の青い花を集めながら、微笑んだ。









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