057
アデレイドは入寮の手続きを終え、部屋に落ち着くと寝台の端に腰かけた。部屋は一人部屋で室内の壁紙は淡いクリーム色のシンプルながらも落ち着いた雰囲気だ。
ユディネの学院は周辺諸国からの留学生を多く受け入れている。その中には王族や高位貴族の子女も多数おり、時には誘拐事件なども発生するため、学院では護衛の存在を認めている。
ハロルドは護衛として、アマンダは侍女としてアデレイドの部屋の両隣の続き部屋に待機している。
アデレイドは自分に護衛などは必要ないと思っていた。けれどヴィンセントに「彼女」の話を聞いて、少し怖くなった。
(…私を恨んで、生まれ変わっているかもしれない…?そんなの本当に逆恨みじゃない…)
理不尽だと思う。ちょっと怒りも湧いてくる。
(いや、まだ彼女が本当に生まれ変わっているかはわからない)
アデレイドは起こってもいないことに怯えても仕方ないと思い直す。けれどふとあることに思い至る。
(ハロルドは当然のように付いて来てくれた。サイラスも…留学のことを報告に行った時、ハロルドを側から離すなと言った)
彼らはアデレイドに護衛を付けることを必然と思っている節がある。過保護なだけかと思っていたが、理由があるのだとしたら。
ヴィンセントの話にハロルドは異議を唱えなかった。つまりハロルドもその可能性があると考えているということではないだろうか。
(でも、待って…。ハロルドは私がレオノーラの生き写しだからエリスティアの学院には入学しない方がいいと言った。それはレオノーラのことをよく思わない「彼女」がいるから…?)
ぞくりと肌が粟立つ。アデレイドは胸元のトパーズの首飾りを握りしめた。
(「彼女」がいるかもしれない場所にローランドがいる…?)
知らないうちに「彼女」とローランドが接触して、エルバートのようにアデレイドから奪われてしまうのではないか。
アデレイドは居ても立っても居られなくなってハロルドの部屋へ飛び込んだ。
「ハロルド!ローランドが…!」
半泣きになって駈け込んで来た少女に、ハロルドは驚いて一瞬動きを止めた。
アデレイドは不安から少し錯乱状態だったためぶつかるようにハロルドの腕に飛び込んでしまった。ハロルドに受け止められて、顔を上げて、やっと気付いた。
「……アデレイド、さま」
ハロルドが半裸で、髪から水が滴っていることに。
「!?」
「申し訳ございません。…水浴びをしておりまして」
ハロルドが少し困ったように言う。雫がぽたりとアデレイドの額に落ちた。ハロルドは腰から下にバスタオルを巻いただけの格好で引き締まった身体の滑らかな肌が露わになっていた。
アデレイドは頭の中が真っ白になった。
「あ……っ、わ、わたし、……!!!」
無意識に踵を返し全速力で続き部屋の扉を二つ開けて、突き当りの部屋に飛び込む。
「アデレイドさま?どうされ…」
驚くアマンダの胸に飛び込む。
「せ、先生……っ」
真っ蒼なのに真っ赤な顔で泣き出してしまったアデレイドにアマンダは困惑したが、よしよしと幼子をあやすように頭を撫でたのだった。
「ハロルド、アマンダ先生………ごめんなさい……」
混乱から立ち直って、アデレイドは二人に詫びた。
思考が一気に負に傾いて焦燥と不安に駆られ、エリスティアに戻りたくなってしまった。けれど今は少し落ち着いた。半裸のハロルドに衝撃を受けて、アマンダの胸で子供のように泣いて。
一人だったら不安に押し潰されてしまっただろう。アデレイドは二人の存在が有難かった。
「…見苦しい姿をお見せしてしまい申し訳ございません」
「!…ちが、私が確認もせずに飛び込んで」
生真面目に頭を下げるハロルドに、アデレイドは慌てた。先ほど目にしてしまった光景が蘇り、固まる。
「……ハロルドさん、その話はもうされない方が」
「は」
やんわりとアマンダに諭されて、ハロルドは頷いた。アマンダはアデレイドの肩を抱き寄せて優しく微笑んだ。
「アデレイドさま、ホームシックになられたのですね?無理もありません。既に王都でご家族とお別れしてから十日ですしね。無事こちらに到着したお手紙を書かれては如何ですか?」
アマンダの指摘は的外れではあったが、心が温まる言葉だった。
「…うん。ありがとう、アマンダ先生……」
アマンダが彼女の部屋に退いた後、アデレイドはハロルドの部屋の扉をノックした。
すぐに返事があり、扉が開く。
「…ハロルド、少しいい?」
アデレイドが遠慮がちに訊ねるとハロルドは当然というように頷いた。
ハロルドはアデレイドを肘掛椅子に誘い、自身は側に跪いて話を聞く体勢を整えた。
「…。ハロルドも座って…」
言いかけてアデレイドはその部屋には椅子が一つしかないことに気付き、寝台を目にすると立ち上がってそちらへ移動しようとした。だがそれはハロルドに阻まれた。
「アデレイドさま、そちらはいけません。どうぞ私のことはお構いなく。……お話はブリジットのことでしょうか」
アデレイドの瞳が大きく見開かれた。ハロルドを椅子に座らせようとしていたことなど一瞬で頭から飛んでしまった。そんなアデレイドをハロルドはやんわりと椅子に座らせる。
アデレイドは力が抜けたように椅子にくたりと腰かけた。
「……ハロルド。正直に答えて。……今エリスティア王立学院に……彼女が、いるの…?」
否定してほしいと祈るように自分を見つめるアデレイドに、ハロルドは胸を痛めながらも「はい」と肯定した。アデレイドに問われて嘘を吐くことは出来なかった。
「……!」
蒼褪めるアデレイドに、ハロルドは落ち着いた声音で続ける。
「…まだその人物がブリジットの記憶を覚醒しているかは確認できていません。ですが…容貌は間違いなく彼女であると」
アデレイドは息が苦しくなった。
「どうしよう、ローランドに何かあったら…」
「アデレイドさま。ローランドさまは前世とは無縁の方です。ローランドさまがアデレイドさまの婚約者であることは知られていません。アデレイドさまがレオノーラさまの生まれ変わりだと露見しない限り、ローランドさまに危害が及ぶ心配はないかと」
「…ハロルドは、彼女のことを知っていたから私の学院入学に反対したの?」
アデレイドの問いに、ハロルドは僅かに目を伏せて肯定した。
「……はい。……直前に彼女の学院入学の情報を掴みました。どのような人物なのかはわかりませんが、無闇に近付かない方がよいと判断いたしました。…出来ればアデレイドさまにはあの女のことはお知らせしたくなかったのですが…」
アデレイドは目の前に跪くハロルドが苦痛を堪えるように顔を顰めるのを見て、胸がきゅっと引き締められた。
(…とても、守られていたのね)
アデレイドがまだブリジットのことを割り切れていないと判断して、極力彼女の存在を隠そうとしてくれたのだろう。
アデレイドの脳裏に目の前のハロルドを通してサイラスの姿が浮かぶ。優しい微笑みを湛えたサイラスが。
(サイラスが守ってくれたんだ)
何も知らずに学院に入学して彼女に遭遇していたら果たして自分は平静でいられただろうかと考えた。三日月型に吊り上がる紅唇が頭に浮かぶ。
(……怖い)
エルバートへの恋慕はもう既にアデレイドにはない。だから彼女に対して嫉妬などといった感情は見当たらない。だが漠然と怖いと感じた。それはレオノーラとして生きていた頃から直感的に彼女に対して抱いていた感覚だった。
けれどレオノーラの時は苦しさの方が大きくて、彼女から感じる異質さを見過ごしてしまった。
(…どうして怖いと感じたんだろう。彼女が私に直接何かしたわけではないのに)
それでも彼女には説明の出来ない得体の知れない怖さがあった。
(私は大丈夫…。一人じゃないし、今は遠く離れているから。…でも…)
ローランドは何も知らない。
妖艶な彼女がローランドを誘惑したら、ローランドは靡いてしまうだろうか。エルバートのように。
アデレイドは頭を振った。それは想像できない。
(ローランドは心変わりなんてしない……でも)
靡かないローランドを「彼女」がどうするか、むしろそちらの方が恐ろしかった。
アデレイドの顔に憂いが浮かぶ。ハロルドはそんな少女に柔らかく告げた。
「ローランドさまの側にはジャレッドがいます。…彼が『魔女』を近付けさせません」
アデレイドは瞬いた。
(ジャレッドが…?)
――僕は貴女に幸せになってほしい。
緊張に顔を強張らせ、けれど真っ直ぐにアデレイドを見つめて真摯に言葉を紡いだ少年の姿が脳裏に浮かぶ。
アデレイドは心が凪いでいくのを感じた。アデレイドが落ち着いたのを見て取ったのか、ハロルドは朗らかに微笑んだ。
「……あちらにはサイラスさまもおります。…あの方がアデレイドさまの大切な方を守ります」
その言葉でローランドは大丈夫だとアデレイドは確信した。
「…うん」
泣きそうだった表情が笑顔に彩られる。絶対的な信頼と安心感。サイラスがいれば大丈夫だと無条件に信じられる。
「ありがとうハロルド。…取り乱してごめんね」
「いいえ」
落ち着いたところでアデレイドはようやくハロルドに意識を向けることができた。
「……ハロルドは……」
ブリジットに会いたくはないのだろうか。
だが聞いてもいいものか迷って、アデレイドは口ごもった。逡巡して視線を彷徨わせていると、ハロルドがふわりと笑った気配がした。
「……ブリジットに会いたいとは思っていません」
アデレイドは弾かれたように顔を上げた。ハロルドの榛色の澄んだ瞳が真っ直ぐに自分を見ていた。
「……『メイナード』が言ったようにあれは『魔性』です。……詳しくはお話しできませんが私はそのことをレオノーラさまの亡き後に思い知りました。……あれは醜悪で恐ろしい存在です。私はレオノーラさまに対して取り返しのつかない過ちを犯したのだと後悔しました。ですから願ったのです。来世で巡り合えたらお守りしたいと。……私は貴女に逢いたかった。だから今とても満ち足りています」
アデレイドはハロルドの柔らかな表情にふわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。ハロルドは前世の贖罪のためだけにアデレイドの下僕になったのだと思っていた。
でも今彼が自分に仕えることを幸せに感じてくれているのなら、それが贖罪のためだけでなく彼自身の幸せだというのなら嬉しいと思った。
(私は多くの人に守られている。大切にして貰っている。……私は幸せ者だな)
不意に歌が聞こえた気がした。聖歌だ。
(……?こんな時間に聖儀?)
「…アデレイドさま?」
「…今、何か聴こえた?」
「いえ何も…」
歌は春の息吹のようにふわりとアデレイドを包んで聴こえなくなった。
(気のせい?)
そうとは思えない。その証拠に先ほどまで不安と恐れからか、冷たくなっていた指先が温かい。何かに守られているかのよう。
(……ヴィンセントさま…?)
穏やかに微笑む美貌の聖導師の姿が思い浮かぶ。
アデレイドが連想した人物にハロルドも気付いたのだろう、渋い表情を浮かべる。アデレイドはくすっと笑った。
「ハロルドはヴィンセントさまが苦手?」
あまり感情を表わさない彼にしては珍しい。
「…あれは前世で色々と問題の多い男だったのです」
「…今は違うわ」
「…………」
ハロルドは不本意そうに眉根を寄せたが否定はしなかった。頭で理解はしても感情が納得出来ないのだろう。
「……油断は出来ません」
言ってからハロルドはまるで子供のようだと己を恥じた。だがアデレイドはむしろ楽しそうに笑った。
「ふふ、ハロルドがそんな風に言う相手はヴィンセントさまくらいね。遠慮せず言いたいことが言えるのはいいことだわ」
「………………」
ハロルドの眉間に益々皺が寄ったけれど、特に反論はしなかった。
深夜、寝台に潜り込んだアデレイドは静まり返った室内でそっと遠い昔に想いを馳せた。
ブリジット――紅い女性が寄り添う相手、エルバート王子。彼はレオノーラの死後、ブリジットとは縁を切ったという。レオノーラの死を切っ掛けにして。
(……レオノーラの死を殿下は悼んで下さった………?……思い出してくれた…?)
涙が溢れた。複雑な感情が胸を満たす。愛しくて大切だった人。けれどそれをすべて粉々に打ち砕かれた。それでも「レオノーラ」は死ぬまでその欠片を胸に抱えた。棘のようなその欠片を。
レオノーラの記憶が蘇ったアデレイドはその棘を抜くことに専念してきた。七年が経ちようやく棘は抜け、傷は塞がった。ローランドが塞いでくれたのだ。
棘が抜けた今だからこそレオノーラのことを惜しんでもらえたことを穏やかに受け止められるのだろう。
(ありがとうございます…殿下……ごめんなさい…)
当てつけとか、恨みから死んだわけではない。ただ純粋に生きていくことが出来なかっただけだ。だから哀しませたかったわけではない。エルバートの不幸を願ったわけではない。
エルバートは心に傷を負ってしまっただろうか。レオノーラの死という重荷を自分のせいだと感じさせてしまっただろうか。
そこまで考えてアデレイドはエルバートが今この時代に甦っている可能性に気が付いた。
(…なんとなくだけど…後悔ややり残したことがある人ほど生まれ変わりたいと願うものじゃないかな…)
だから今まではエルバートが生まれ変わっている可能性を考えなかった。例え生まれ変わっていたとしても、きっとブリジットを追い続けるだろう彼を見たいとは思わなかった。
けれどもし、エルバートがレオノーラの死を乗り越えられていなかったとしたら――。
(……私は)
いつか、出会う時が来るのだろうか。エルバートの生まれ変わりと、ブリジットの生まれ変わりに。
きっとその時は来る。嫌でも避けられない気がした。前世の記憶という因縁を持って生まれてきたのはやり残したこと、成し遂げられなかったことを清算するためだと思うから。
ならば向き合うしかないのだろう。いつまでも逃げ続けることは出来ない。この生を生き抜くために、今の幸せを守るためにも。
しゃらりとアデレイドの首元の鎖が音を立てた。肌身離さず身に付けているローランドから贈られたトパーズの首飾り。
手の中に握りしめると石が熱を持った気がした。
ローランドの瞳と同じ色のそれを見つめると、心がふわりと温かくなる。
アデレイドはゆっくりと目を閉じた。
ヴィンセントに会えて良かったと思えた。ハロルドやジャレッド、サイラスにも。だからエルバートやブリジットとも、そう思えたらいい。
でもやはり今はまだ少し怖い。もう少しだけ猶予が欲しい。
(十四歳を過ぎるまで……)
レオノーラが乗り越えられなかった年齢を過ぎれば、この不安も消えてなくなるだろうと思えた。




