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055





 レオノーラが死んだ。それを聞いたメイナードは目の前が真っ暗になった気がした。胸の奥に虚が穿たれたような寂莫感に言葉を失う。

(死…?……そんなことは望んでいない)

 ただ、あの娘が堕ちるところを見たかっただけだ。最期までメイナードの思惑を裏切る娘にメイナードは敗北を悟った。

(レオノーラさま、貴女の勝ちだ…)

 メイナードの完敗だった。彼が口説いて靡かなかった相手はレオノーラただ一人だった。そしてレオノーラは魂を濁らせることなく最期まで白いまま亡くなった。それもメイナードにとっては驚きだった。

(人は、意志の強さで清くいられるのか)

 黒く染まってしまったメイナードは弱かったのだろうか。

 メイナードは呆然と周囲を見やった。蒼白になる王子、愕然と瞳を見開いている侍従、僅かに戸惑いを浮かべている護衛。

 魔法から解けたように、失った恐怖と哀しみを露わにする彼らからメイナードはそっと目を逸らした。

 自分には彼らとともに彼女の死を嘆く権利などないと思ったから。




 弔いの鐘が鳴り響く。少女の死を悼むように驟雨が降り注ぐ。

 聖堂院は悲しみに包まれていた。


 レオノーラの遺体を見て、メイナードは少女が苦しんだことを知った。

(こんなにやせ細って。忘れてしまえればよかったのに)

 少女が王子のことなど忘れてしまえれば、ここまで苦しむこともなかっただろうに。

 たった一人を愛するということは、幸せなことだとは限らないのだとメイナードは思った。

 それでも。

 たった一人を愛したレオノーラ。愛された王子。想いはすれ違ってしまったけれど、二人を羨ましいとどこかで感じている自分にメイナードは苦く笑った。



**


 レオノーラの死によってエルバートは覚醒したようだった。

 ブリジットのことなど、今のエルバートの心には一欠片も浮かんでいないだろう。透明な涙を流してただひたすらレオノーラの死を悼んでいた。

 そこへブリジットが乗り込んできたのだった。


「これで漸く障害はなくなったわ」

 嬉しそうに笑うブリジットは異様だった。誰もが凍り付いたように動きを止め、彼女を凝視する。

 呪いが解けたことに彼女だけが気付いていないようだった。

「殿下、やっと私を貴女の妻に…」

「…黙れ」

 低く地を這う声に初めてブリジットは異変に気付いた。

「殿下…?」

「出て行け」

 ブリジットはびくりと怯えるように震えた。

「…ここはレオノーラの死を悼む場所だ。そのつもりがないなら失せろ」

 冷たく吐き捨てられた言葉に、ブリジットの眦が吊り上がった。


 恐ろしい形相だった。元々勝気な美女という容姿だったが、真っ赤に塗られた唇は禍々しさを感じさせた。

 ブリジットはふっと力を抜くと、嘲るような笑みを浮かべた。

「……その娘を死に追いやった者が悼むなどと、滑稽なことを」

 エルバートの顔が蒼白になった。


**


 睨み合う二人から目を逸らしたメイナードはレオノーラの身体に鎖が巻き付けられていくのを見た。

(なんだこれは…)

 目で鎖を辿っていくと、ブリジットがニヤリと邪悪な微笑みを浮かべていた。

「…呪ってやる。この娘の魂、来世まで」

 不穏な言葉に王子が気色ばんだ。

「させぬ!衛兵、女を捕えよ!!」

 十数人の衛兵がブリジットを囲うようにして長槍を突きつけた。けれど彼女は不敵な笑みを浮かべたまま、勝利に酔うように言った。

「無駄よ。レオノーラの魂は捕えたわ。殿下、貴女の大切な娘は私が可愛がってあげるわ、来世でね」

「何を…」

 エルバートは蒼褪めてブリジットを凝視しているが、その手から伸びている鎖には全く注意を払っていない。

 メイナードはこの鎖こそがブリジットの言う「捕えた」ということではないのかと思った。

(鎖を切ればいいのではないか?誰も気付いていないのか?)

 訝しんだが、誰もメイナードに注目していない今なら気付かれぬうちに鎖を切ることが出来るだろうと思った。

 素早くレオノーラに近付いてその身体に巻き付いた鎖を外そうとした。だが。

「……!?」

 確かにそこに存在するのに、触れることが出来ない。それなのに鎖はじわじわとレオノーラの身体を締め付けているように見える。レオノーラが苦痛に顔を歪めた気がした。

(まさか。もう亡くなっているのだから、そんなはずは)

 鎖がさらにぐっと輪を狭めようとしたのを悟ってメイナードは怒りを覚えた。それは死者を甚振る行為だったからだ。

「ふざけるな!もう十分だろう!彼女は死んだ。これ以上何を奪おうというんだ!」

 強い怒りが閃光のように迸り、真っ直ぐにブリジットに向けられた。その瞬間、彼女の手から鎖が落ちた。稲妻のような光が彼女の手を刺したのだ。

「な……!?」

 ブリジットは驚愕に目を見開いた。メイナードは鎖を引っ張ってブリジットから遠ざけた。それは無意識の行動で、今度は鎖に触れられたことに気付いていなかった。

 レオノーラの身体から鎖を引き千切るように外すと、レオノーラの顔が穏やかになった気がした。

(よかった…。今はただ、安らかに眠れ)

 メイナードはそっとレオノーラの頬を撫でた。

「メイナード…あんた……」

 ブリジットの掠れた声には驚愕が込められていた。振り返ったメイナードが見たのは、愕然としたまま衛兵に連行されていく女の姿だった。

 メイナードは一瞥しただけですぐに興味を失ったように視線をレオノーラに戻した。

 今更何を思っても少女は既に旅立ってしまった。けれど、女が来世までレオノーラを甚振ると言うのならそれは看過出来ない事態だ。

 メイナードはこれでも一応聖堂院育ちだ。祝詞や聖句は子守唄代わりに嫌というほど聞いて頭に刷り込まれている。


「――汝の魂に光の恩寵を。汝は俗世を旅立ち精霊となった。清き風よこの娘の魂を護り給え。来世まで、何者の悪意にも捕まらぬように」


 効果があるとは思えなかったが、言わずにはいられなかった。せめて来世では幸せになって欲しい。メイナードの瞳から一筋の涙が流れ落ちた。


 零れ落ちた涙はレオノーラの額に散った。その瞬間、ぱっと辺りが光に包まれた気がした。

(…なんだ、今のは…)

 メイナードは気のせいかと思った。だが、直後にどこかで絶叫が轟いた。


 悲鳴は連行されていたブリジットが放ったものだった。

 女はゼイゼイとか細い息を辛うじて維持しているといった態だった。荒んだ目でメイナードを睨み付けてくる。

「…寄るな…」

 メイナードは眉根を寄せた。ブリジットは自分を押さえつけている衛兵ではなくはっきりとメイナードを敵視していた。

「…おまえは何者なのだ、ブリジット」

「おまえこそ、なんなのよ、メイナード・ビショップ!」

 ブリジットの声は掠れて辛そうだったが、メイナードは片眉を跳ね上げただけで彼女を労わることはしなかった。

「見苦しい。去れ」

 メイナードが強めに言った瞬間、ブリジットは衝撃を受けたように身体を震わせた。

「かっ…は…っ」

 ブリジットは血を吐いた。メイナードは驚きに目を見開いた。そしてもしかして、とある仮説を導き出した。

「……おまえは、『魔』なのか」

 そして自分にはそれを祓う力があるとでもいうのだろうか。

 傍らに黙って立っていたエルバートも目を見開いてブリジットを凝視していた。


「…聖なる光よ、邪悪なる魔を祓え。この地に祝福を、清き風の加護のあらんことを」


 ただの言葉の羅列だと思っていた。だが、唱えるごとにメイナードの中に温かい力が湧いてくるのがわかった。

 ブリジットを睨み付けて聖句を唱え終わると、ブリジットが悲鳴をあげた。

 凄絶な悲鳴だった。断末魔の叫びというべきか。

 メイナードはただ聖句を唱えただけだ。ブリジットに指一本触れていない。それなのに彼女は最大級の苦痛を受けたと言わんばかりに喘鳴している。

(これが魔…)


 そしてブリジットは斃れた。

 エルバートを始め、クライヴもアールも呆然とブリジットを見下ろしていた。

 斃れたブリジットの身体は端からじわじわと黒く染まり、砂のようにさらさらと崩れていった。

「……!」

 黒い灰。

 誰もが言葉を失う中、メイナードは聖堂内にいた聖導師に聖櫃の用意を命じた。

 魔を封じるのだ。それを自分が出来るのかは分からないが、やるしかなかった。


**


 ブリジットは斃れる直前、憎しみの籠った目でレオノーラを睨み付け、呪詛を残した。

「赦さない…、来世の平穏など、赦すものか」

 メイナードはゾッとした。

 負け犬の遠吠えと一笑に付すには見過ごせない何かを感じた。相手は「魔」だ。

 鎖は断ち切った。だからレオノーラの魂は逃げ延びたはずだ。だが得体の知れない不安が胸に蟠る。

魔女に見つからないように、メイナードはレオノーラの遺体に聖布を巻き、聖水をかけ、ジュリアンに王都から離れた場所へ埋葬するように忠告した。少しでも魔女の痕跡のない地へ隠すべきだと思ったのだ。



「魔」を祓ったメイナードは聖者として祀り上げられた。

 けれどメイナードはあれは自分だけの力ではなかったと分かっていた。

(恐らくレオノーラの清らかな魂が力を与えてくれた)

 レオノーラの死によってブリジットが「魔」であることが判明した。

「魔」が王子の妃となる寸前でそれは阻止された。けれどそれは極めて危うい偶然が重なって起こった奇跡だった。

 王子を中心に魔女による呪いが張り巡らされ、場が歪められていた。それを破るには強い「想い」が必要だった。レオノーラが死ぬまで王子を愛したことは呪いを破る鍵となった。


 後から分かったことだが、メイナードに「色」が見えていたのは特別なことだった。

 今まで聖堂院から逃げることしか考えず、碌に聖導師として学んでこなかったために、それが特別なことだとは気付かなかったのだ。


 レオノーラはその死をもって「魔」の侵入を阻んだ聖女として聖堂院内で密かに崇められた。「魔」の侵入については緘口令が敷かれ、一般の人々にまでは広がらなかったためだ。だが聖導師にとっては、レオノーラの存在は奇跡といってよかった。メイナードとともに崇めずにはいられなかった。


 メイナードはレオノーラの来世での幸せを願った。

(魔女はレオノーラから愛する人を奪って死に至らしめた。その上まだ来世での平穏を奪うと言うのか)

 そんなこと、到底許容出来るはずがなかった。

 ありとあらゆる文献を掘り返して、魂の行く末を辿れないか調べた。

 魔女とレオノーラが同時代に甦ることの無いように。

 もしも最悪の結果、二人が同時代に甦ってしまっても、レオノーラが孤立無援になってしまわぬように、打てる手はないのか、メイナードは残りの生涯を尽くして研究に没頭した。


 そして辿り着いた。

 それは古い文献だった。遠い昔、今よりももっと「魔」の脅威が身近にあった頃のこと。

「魔」を封じた聖人が、その数百年後、前世の記憶を持ったまま生まれ変わったという。聖人の元には当時の記憶を持つ数名の仲間が集り、再び蘇った「魔」を退けたという。

 亡き人への執着が強いと、その魂を追いかけて同時代に生まれ変わることが可能であるという。

 例え同時代に生まれ変わることが出来たとしても、普通は前世の記憶を持ってはいない。けれど「魔」に関わった者はなんらかの副作用を受けることになるのではないか。それが前世の記憶ということだろう。

 まるでお伽噺や物語の出来事のようだと思えるが、その文献は恐らく体験者の一人が記した手記だった。

 聖人に封じられた「魔」は聖人に恨みを抱き、憎んだという。そうしていつか再び蘇り、聖人を八つ裂きにすると呪詛を残して消えた。「魔」を封じた直後、聖人は力尽きて倒れた。聖人を慕っていた仲間たちはいつか聖人が再び生まれ変わってもまた守りたいと強く願ったという。そしてそれは叶ったのだった。


 メイナードはならば魔女は必ずレオノーラと同時代に生まれ変わってくるだろうと結論付けざるを得なかった。それは避けられない未来なのだ。けれど同時に、「魔」に関わってしまった者たちも記憶を携えて生まれるはずだ。自分も含めて。

 それは唯一の希望とも言えた。

 メイナードは強く念じた。レオノーラにもう一度会いたいと。

 彼女を今度こそ守るために、いつしか聖堂院の総本山の聖王となっていたメイナードは聖堂院の役割を強化することを掲げた。もう二度と魔の侵入を招かぬために。

 いつかレオノーラが生まれ変わっても平穏に過ごせる世界であるように。

 それがメイナードに出来るせめてもの弔いだった。










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