エピローグ
登場人物補足
ローズ…アデレイドの母
アーサー…アデレイドの父
ヒルダ…ローランドの母
ロバート…ローランドの父
アデレイドが留学先に出発する前にきちんと婚約したいとの意向をローランドが両家の親に伝えると、手放しで歓迎された。
「そうね、留学期間中を婚約期間とすれば、帰ってきたらすぐ結婚できるわ。善は急げね」
「あぁ、ついにアディちゃんをうちの娘に出来るのね~。待ち遠しいわ」
「留学などせずとも今すぐうちに来てくれてもいいのだが…」
ただし約一名を除いて。
「ま、まだ早いのではないかな?アディは十二歳だよ!?」
「もうすぐ十三よ。いいじゃないの、生まれた時からローランド君のお嫁になることは決まっていたのだし」
アデレイドの父・アーサーは葛藤していた。
頭では理解しているが、いざ正式に婚約となると、感情が嫌だと叫ぶのだ。それはどうしようもないことだった。
「アーサー、結婚は当分先だ。婚約期間は三年もあるのだから」
「三年経ってもアディはまだ十六にもならないんだぞ!やっぱりまだ早い!」
ロバートに宥めるように言われても、当のロバートはアデレイドを嫁に貰えるのが嬉しくて仕方ないと言わんばかりに口元が緩みまくっていて余計にアーサーの癇に障る。
しかしローズに凍り付くほど冷たい微笑を向けられてアーサーは折れた。
婚約式は三月の終わり、アデレイドがヴェネトへと旅立つ前に王都にて両家の親族のみでこじんまりと執り行われることが決まった。
アデレイドの留学の準備と婚約式の準備でデシレー家は大忙しになった。
婚約式は聖堂院の聖導師長の前で婚約を誓う厳かな儀式だが、女性は白のドレスを纏う習わしがある。
アデレイドのドレス姿を一番楽しみにしているのはローランドだった。
何しろ婚約者のドレス姿を見るのは六歳以来、二回目だ。しかも一回は偶然見ただけで、久しぶり過ぎて幻かと目を疑う出来事だった。
今度こそ、間違いなくアデレイドのドレス姿を見ることが出来る。それもローランドのためだけに着飾るといっても過言ではないのだ。
ローランドがとても楽しみにしていると書いて送ってくれた手紙を読んでアデレイドは擽ったい気持ちがした。
(そんなに楽しみにしてくれてるんだ、ローランド)
これは気合を入れなければ。
アデレイドが母・ローズにローランドのために最上級に可愛くなりたいのだと告げると、ローズの瞳がきらりと光った。
「ふふ…。よく言ったわ、アディ。それでこそ我が娘。お母さまが最高に可愛くしてあげるわ」
その日から婚約式までの約一ヶ月半、ローズによる厳しい美容指導が始まったのだった。
とはいえまだ子供のアデレイドの肌はぴちぴち、髪は艶々で、特にお手入れの必要もないのだが、ローズは嬉々としてアデレイドの髪に香油を垂らし、丁寧に梳った。
肌には香りのよいクリームを塗り、マッサージする。
食事や睡眠時間にも指導が入り、夜更かししての読書や執筆はしばらくお預けとなった。
日焼けも禁止ということで外遊びも制限された。
当日は少し踵の高い靴を履くので、今から慣れておくようにと靴を渡され、ついでにドレスにも慣れるようにと少年姿も禁じられてしまった。
(うっ…地味に辛い)
男装がどれ程気楽で開放的だったかアデレイドは思い知った。
(ドレス、歩き辛いし落ち着かない)
でもローランドに可愛いと思われたい。当日、転んだりしてみっともないことにはしたくない。アデレイドはローランドの笑顔を胸に思い浮かべて頑張ろうと決意するのだった。
日毎に女の子らしくなっていくアデレイドにジェラルドもアーサーも嬉しい反面切ない気持ちになるのだった。
「あのお転婆がなあ…」
「そんなに急いで大人にならなくても…」
二人は互いを慰め合うように夜酒盛りを繰り返すのだった。
婚約式の日は素晴らしい晴天に恵まれた。
デシレー家一行はレイ家とともに五日前に領地を出発して王都までの道中は賑やかに楽しく過ぎてあっという間だった。
当日、アデレイドは早朝から準備に追われていた。
といってもアデレイドは立っているだけで主に侍女たちが奮闘してアデレイドを飾りたててくれているのだが。
ドレスはウエストまではすっきりと絞られ腰から下はふわりと広がるシンプルなデザインだが袖が丸く膨らんだパフスリーブで可愛らしい。
一ヶ月半、丁寧に梳ってきた髪は艶やかで光沢があった。
侍女たちはサイドを緩く編み、後頭部で纏めて生花を飾った。花は黄色のラナンキュラスだ。庭師がこの日のために栽培してくれた逸品だ。
規則正しい食事と睡眠のおかげで頬は薔薇色、肌は艶々で化粧の必要もほとんどなさそうだった。
目元と唇に少しだけ色を付け、完成だ。
支度の整ったアデレイドを見て、ローズは満足そうに頷いた。
「最高よ。後は転ばないように気を付けるだけね」
二人の兄たちもアデレイドの正装を見て破顔した。
「アディもいつの間にか立派なレディになっていたんだな」
「綺麗だよ、アディ」
父親は無言で涙を流している。
アデレイドはくすっと笑った。
「ありがとう、兄さま。父さま泣かないで」
「…何もこんなに早く婚約しなくても…。セドリックもまだなのに」
ちなみにジェラルドは半年前、無事クリスティーナと婚約した。そのためクリスティーナも家族の一員として式に参列してくれることになっている。
「…アーサー」
遠い目で現実逃避しようとしているアーサーにローズが絶対零度の笑顔を向け黙らせる。いつもの両親のやり取りにアデレイドは微笑んだ。
聖堂院に着くと既にレイ一家が待っていた。
馬車から降りたところでヒルダの歓声があがる。
「まあ、アディちゃん!可愛いわ~」
「ありがとうございます、おばさま」
アデレイドははにかんでヒルダとロバートに挨拶した。
ローランドは陶然とアデレイドを見つめていた。後ろにはジャレッドも控えている。
アデレイドはどきどきしながらローランドの側に寄った。
「ローランド」
ローランドは口元に片手をあて、僅かに視線を逸らせた。吐息と共に感嘆の言葉が零れる。
「…すごく、可愛い」
アデレイドの頬が瞬時に朱く染まる。
伏せられていた瞳がゆっくりとアデレイドを見つめる。愛しそうに、どこまでも甘く。アデレイドは落ち着かない気持ちになったけれど、目を逸らせなかった。
ローランドも特別な衣裳を着ている。白の燕尾服に金糸で刺繍の施されたベスト、白のパンツ姿で眩しいくらいきらきらして見える。胸元にはアデレイドの髪に飾られているのと同じラナンキュラス。
「ローランド、格好いい」
アデレイドがポツリと呟くと、ローランドの目元が紅く色付いた。
「…アディ、ローランド。惚気るのはそのくらいにしてそろそろ聖堂内に入るぞ」
ジェラルドの呆れを含んだ苦笑に二人ははっとして周囲を見回した。
それぞれの両親が生暖かい微笑を浮かべている。勿論アーサーを除いて。
セドリックが乱暴にローランドの手を取って聖堂内に引き摺って行った。その後をジャレッドが素早く追う。
ジェラルドはアデレイドに腕を差し出した。
「さあ。行こうか。…本当は父上の役目なんだろうけど…今はそっとしておこう」
むすっとしている父親に仕方ないなというように苦笑する。その時、馬車が到着してクリスティーナが現れた。
「アディちゃん…可愛いですわ…!!」
「クリスティーナお姉さま」
アデレイドは笑顔でクリスティーナを迎えた。そしてするりとジェラルドの腕を解くと、クリスティーナの腕を取ってジェラルドに預ける。
「兄さまはクリスティーナさまをお願い。私はやっぱり父さまにお願いするから」
「!」
軽やかに父親の元へと駆け寄り、その腕にアデレイドが手を置くと、父親は嬉しそうに破顔した。その様子を見ていたジェラルドは思わず声を出して笑った。
「…俺も娘が出来たら、あんな風になるのかな」
「!!」
ぽつりと零した言葉に、隣でクリスティーナが「き、気が早いですわよ!」とかなんとか言いながら真っ赤になっているのを見て、ジェラルドはまた笑うのだった。
聖堂院は白い花で埋め尽くされていた。
聖堂の中央の天井には円形の天窓があり、ステンドグラスの白と黄色の花模様が床に美しい影を落としていた。
その影の中心にローランドとアデレイドは向かい合って立つ。
聖導師長の厳かな声が響く。
「今この時より二人の縁を結ぶ。互いに誠実に向き合い、手を取り合い、慈しみ、縁を深めよ。互いの想いが満ちた時、絆は結ばれる」
向き合った二人はそれぞれ右掌を上に向け左掌で相手の手を覆う。
聖なる誓いの口付けは互いの額に落とす。
その瞬間、天井から白い花びらが舞い落ちた。聖導師たちが天井に吊るされた籠に括り付けられた紐を引き、籠に詰められていた花びらが落ちたのだ。
幻想的な光景に誰もが笑みを浮かべる。
婚約の証として、二人は互いの瞳の色の宝石を嵌めこんだ首飾りを交換する。
ローランドは美しい黄色のトパーズを、アデレイドは深い紫紺色のサファイアを相手の首にかける。
これで儀式は終了だ。
アデレイドはトパーズの首飾りに触れた。自然に笑みが浮かぶ。ローランドが守ってくれるようだと感じる。
ローランドを見ると、目が合った。
「ローランド、大好き」
自然と言葉が零れ落ちた。
直後、攫うように抱きしめられた。
「アディ。世界で一番好きだよ」
きゅうとアデレイドの胸が締め付けられる。間違いなく今自分は世界で一番幸せだと思う。
…この後すぐ、二人はアーサーとセドリックに引き剥がされ、ローランドはがっくりとするのだが。
ジャレッドとハロルドは少し離れたところで静かに二人を見守っていた。
幸せそうな笑顔を浮かべるアデレイドに、自身も幸福な気持ちになる。
ハロルドは少し離れた柱の陰に隠れている人物に声をかけた。
「…お声をかけられないのですか」
「……家族水入らずの邪魔をするつもりはないよ。……それに今出たら、彼女を攫ってしまいそうで怖い」
真顔で言うサイラスにジャレッドは笑えない、と思った。
サイラスは聖導師の格好をしていた。お忍びでアデレイドや兄たちにも知らせずにこっそりと潜り込んだのだった。
素顔では公の場で子爵令嬢であるアデレイドと親しげに言葉を交わすことは出来ない。もどかしくはあったが、それだけ自分が強い力を持つことに誇りと責任を感じている。いざというときにアデレイドを守れればそれでいい。
怜悧な紫苑色の瞳がジャレッドを射抜くように見つめる。
「…本当にエルバートの侍従だった男を信用できるのか?」
瞳はジャレッドを見ているが、言葉はハロルドに向けてだ。
ジャレッドは内心冷や汗をかいた。
「ジャレッドなら大丈夫です」
ハロルドは穏やかに言った。その言葉にジャレッドは思わず感動してしまった。
(バラクロフ――)
「…おまえがそう言うならいい」
サイラスは一瞬柔らかい表情を浮かべてハロルドを見ると、すっと視線を聖堂の中央に向ける。
サイラスの言葉に今度はハロルドが感極まったようだった。目を瞑って嬉しそうに震えている。
(この方がバラクロフの新しい主なのだな…)
ジャレッドは今この場にいないかの人のことを思った。その人は愛しい少女がたった今他の男と婚約したことを知らない。少女が生まれ変わった人生で着実に前に進んでいることも。
(殿下も早く前を向いて進んでくださるといい…)
ジャレッドは舞い落ちた花びらを手に取ると、祈りを込めてそっと口付けた。
サイラスの瞳は聖堂の中央で祝福に包まれた少女に向けられていた。
望んだものは彼女の幸せ。だからそれを見ることができるだけで十分幸せなのだ。…そのはずだ。
サイラスの紫苑色の瞳に僅かに滲んだ切なさはひらひらと舞い落ちる花びらに隠されて誰にも気付かれなかった。
これで第1部完結です。
ここまで読んでくださった皆様に感謝!
引き続き第2部もよろしくお願いします。




