051
「アディ?」
アデレイドの反応がないのを訝しんだローランドが顔を覗こうとしたので、アデレイドは慌ててローランドの胸元に顔を伏せた。今見られたら、恥ずかしすぎて死ねる。
ローランドはアデレイドの耳が真っ赤に染まっているのを見て、目元を綻ばせた。
(ああ、顔みたいな…)
アデレイドの言う「大好き」が、自分のアデレイドに対する「大好き」とは違うのだろうとローランドは思う。それでも嬉しかったし、自分の気持ちを伝えることに躊躇いはない。いつでも惜しみなく大好きだと伝えたい。アデレイドに伝わるまでいくらでも。
「僕がリボンを贈ったら、それも付けてくれる?」
本当はサイラスから貰ったものはもう付けないでと言いたい。でも、アデレイドにとってサイラスが特別な存在だということは渋々ながら、ローランドは理解していた。だからそれを禁止するつもりはないが、せめて自分の前では他の男からの贈り物は付けないで欲しい。
アデレイドがこくりと頷いたのを確認して、ローランドは嬉しくなった。
「ありがとう、アディ」
アデレイドはくすっと笑った。
「なんでローランドがお礼を言うの…」
ローランドも笑った。
「…アディ、大事な話って?」
ローランドに言われて、アデレイドはやっとこの訪問の目的を思い出した。赤くなっている場合ではない。
「う、うん。……。ローランド、手、離して」
アデレイドは先ほどからローランドに抱きしめられている。この体勢のまま話をするのはどうかと思う。だがローランドは手を離そうとしなかった。どころか、増々ぎゅっと強く抱きしめた。
「嫌だ。……手を離したら、アディが消えてしまうんじゃないかって気がする。このまま話して?」
アデレイドはドキリとした。消えてしまう、というのはあながち間違いではない。それに、ローランドの腕の中は居心地がいい。本音のところではアデレイドも、ずっとこのままでいたいと思っていた。アデレイドは慎重に頷いた。
「…うん…。あのね、私…学院には入学しない」
「……え?」
単刀直入に言うと、ローランドの身体が一瞬硬直した。
アデレイドはローランドの胸元をぎゅっと掴んだ。
「考えたの。……兄さまから、学院には私の小説の熱烈な読者がいて、その作者を暴こうとしているって聞いて。それと私自身の容姿が、小説の主人公によく似ているから、小説を好きな人の勝手な偶像にされ兼ねないって。だとしたら、私は学院に入学しても、勉学に励める環境を手に入れられないかもしれないと思ったの。それに、私は社交界に出るつもりはないから、貴族同士の人脈作りをそれ程重要視していないし」
本当はローランドに危害が及ぶかもしれないことが一番アデレイドの胸に刺さった。けれどそれをローランドに告げるつもりはなかった。
アデレイドの話を、ローランドは静かに聞いていた。アデレイドが言葉を切ると、ローランドはもう一度ぎゅっとアデレイドを抱きしめた。
「そっか…。アディが学院に来ないのは淋しいけど、……その選択は正しいと思う」
ローランドはアデレイドに異常な執着を見せていた王子のことを頭に思い浮かべていた。ジェラルドとセドリックが一晩外泊してサイラスと繋がりができて以降は全く近付かなくなっていたが、できれば王子にアデレイドを会わせたくはなかった。
ローランドは今まで通り休みになれば領地へ戻ってアデレイドに会うことが出来る。そう思ってむしろ嬉しくなった、直後。
「私、留学しようと思う」
アデレイドの爆弾発言に、ローランドは息を止めた。
「もっと色々な国を見て、広い世界を知りたいの。だからヴェネトへ行こうと思う」
アデレイドが小説を書く上で広い世界を知ることはプラスになると、アマンダには強く勧められた。両親にも一応そのように説明してある。実際にこの先もアデレイドが小説を書き続けるかどうかは分からないが、前世では見ることのできなかった世界を見てみたいと思ったことは本当だ。
ヴェネトはアデレイドたちの住むエリスティア王国の東隣に位置する国で、多くの大国と隣接し緩衝帯の役割を持つ国である。その分他国からの留学生や商人などが活発に行き来し、異国情緒溢れる国だという。問題はその首都ユディネまではこの王都から往復で二十日はかかるということだった。
「だから…三年は帰って来られないと思う…」
ローランドは腕をほどいてアデレイドの顔を見つめた。もうアデレイドの頬の赤味は消えて、凛とした表情で真っ直ぐにローランドを見返していた。それはすでに決意を固めた瞳だった。
「三年…?」
掠れた声で呟くローランドにアデレイドは頷いた。
「その熱烈な読者が三年したら卒業するんだって。だからそれまで」
三年も、異国の地にアデレイドを一人で行かせるなど、とてもではないが容認できそうになかった。
「一人じゃないわ。アマンダ先生と、護衛にハロルドもついてきてくれるって」
治安はそんなに悪くないはずなんだけど、と的外れなことを言うアデレイドを、ローランドは縛りつけて閉じ込めたいと思った。
「そうじゃなくて。婚約者が側に居なければ、学院行事でパートナーを必要とするとき、他の男が君のパートナーをすることになるだろ」
すぐ側に居ない分、こちらの学院に入学するよりもある意味厄介ではないかと思えた。アデレイドは微笑んだ。
「その心配はないわ。…アマンダ先生に調べて貰ったの。ヴェネトの学院では貴族的な社交行事はないんだって。教養とかよりも勉強に重きを置いているみたいで、服装の規定も特にないらしいの。留学生が多いから、色々な文化を受け入れているみたい。だから女の子が男の子の格好をしても大丈夫なんだって」
ローランドは目を見開いた。
「男の子の格好をしても大丈夫?」
「そう。だから私は男の子の格好で通学しようと思っているの」
それでもローランドは心配だった。それにアデレイドと三年も、一度も会わずに離れているなんて、気が狂いそうだ。
「僕も留学する」
だから思わずそう言っていた。アデレイドは驚いてローランドを見上げた。
「でも、ローランドは国内の貴族との人脈作りをしないと…」
地方の、小さいとはいえ村を治める領主となるローランドが、国外に留学してもあまり益はないだろう。それはローランドも分かっていた。それでもアデレイドを三年も一人にしておくくらいなら、人脈作りを犠牲にする方がマシだった。とはいえ、やはり三年も行くことはできない。
「……せめて、一年。来年、一年だけなら、留学しても大丈夫だと思う」
アデレイドが留学中の三年間の、真ん中の一年を一緒に過ごすことが出来れば、残りの二年はなんとか我慢できそうに思えた。ローランドは真っ直ぐにアデレイドの瞳を見つめて言った。アデレイドはローランドの金色の瞳が強い決意を湛えているのを見て、言葉を飲み込んだ。
(ローランドも一緒に…?)
それは思い付きもしなかった選択肢だった。でも実現したらとても楽しい一年になりそうだと思った。アデレイドの頬に笑みが広がった。
「一緒に行けたら、素敵ね」
ローランドはアデレイドの笑顔に見惚れた。
「アディ。今すぐ婚約しよう」
アデレイドは瞬いた。
「婚約は…してるよ?」
子供の頃、一度解消しようとしたが、双方の母親に猛反対されて継続に落ち着いたはずだ。
ローランドは首を横に振った。
「ちゃんと、正式に。聖堂院に届け出をしたい」
ローランドの気持ちとしてはむしろ今すぐ結婚したいくらいだったが、アデレイドはもうすぐ十三歳とはいえ今はまだ十二歳だし、婚約期間もなしにそれは出来ないと分かっていた。だからせめて正式に婚約して、アデレイドには婚約者がいることを強調したかったのだ。余計な虫がつかないように。
アデレイドはローランドの金色の瞳を見つめた。
(綺麗だな…)
ローランドは真剣な眼差しで、少し緊張した様子でアデレイドを見つめていた。アデレイドもなんだか緊張してきた。
「…アディ。……返事をきかせて」
ローランドの声は少し震えていた。アデレイドは胸がどきどきした。
「ローランド…、聖堂院に届け出をしたら、もう解消は出来ないんだよ?」
正確には解消は出来るが手続きが面倒なので大変になるのだ。それに婚約解消は醜聞だ。ないに越したことはない。
ローランドはもどかしそうに目を細めた。
「僕は解消する気なんて全然ないよ。……アディは違うの?」
アデレイドは首を横に振った。そして言いにくそうに小さな声で告げた。
「そうじゃないけど…!…あの、私…本当は女の子なの…」
アデレイドの言葉にローランドは目を見開いた。何を言い出すのだ、この子は。
「アディを男の子だと思ったことはないよ」
「え!?…でも私、男の子になるって言ったよ?」
「なると言ったって、男の子にはなれないよ。…でも本当は女の子なら、別に問題はないよね?」
「…ローランドは…男の子が好きなんじゃないの…?」
ローランドが固まった。そんな誤解をされていたとは。
「……アディ。もしも僕が男の子を好きだとしたら、男の子のアディとは親友になれないと思わない?」
「!」
アデレイドは今気付いた、という風に目を瞠った。ローランドはアデレイドの両手を掴んだ。
「…僕はアディが好きなんだ。アディが男の子でも女の子でもどちらでも構わない。もう一度言うから、よくきいて。アディが一番大好きで、特別で、大事で、大切で、可愛くて、…愛している」
もう一度と言いながら先ほどよりもっと熱烈になっている気がしたが、アデレイドはよく考えられなかった。心臓の音が大きくて、うるさい。息ができなくて苦しい。顔に熱が集中しすぎて、くらくらする。
何か言いたいのに、全然言葉が浮かばない。
ローランドの金色の瞳が一途にアデレイドを見つめていた。その瞳がほんの少しだけ不安そうに揺れた。
「…アディ。……ダメ?」
アデレイドは首を激しく横に振った。ローランドは少しだけほっとしたような表情を浮かべた。その瞳には僅かだけれど隠し切れない甘やかさがあった。ローランドは慎重に言葉を紡いだ。
「…じゃあ、僕の婚約者になってくれる?」
アデレイドはローランドから目を逸らせなかった。金色の瞳に囚われる。子供の頃からずっと、変わらずにアデレイドを見つめる瞳。アデレイドはやっと気付いた。
(…私、ずっとローランドのことが好きだったんだ…)
多分本当は気付いていた。どうしてもローランドの前でだけはドレスを着られなかった理由。…女の子として見て欲しいと言ってしまいそうだったから。好きになって欲しいと思ってしまいそうだったから。でも気付かない振りをしていたのだ。好きになってはいけないと。いつか裏切られるかもしれないから。それくらいならいっそ、最初から友人でいたい。――誰よりも失いたくない人だから。
前世の記憶がアデレイドを臆病にしてしまった。ローランドとあの人は違うのに。
ぽろぽろと涙が零れた。
(どうしよう…気付いちゃった……)
「え、アディ…!?」
突然泣き出したアデレイドにローランドが慌てた。アデレイドを抱き寄せて背中に手を置きとんとんとあやすようにゆっくりと動かす。優しい動作にアデレイドの動揺が少しずつ収まる。
「怖かったの…。いつかローランドが他の人を好きになったから婚約を解消したいって思う時が来るんじゃないかって…」
「アディ…?」
ローランドは心底不思議そうに首を傾げた。
「どうしてそんなことを…。……。ごめん…もっと毎日好きだって言うべきだったね」
「……!!」
「僕はアディしか目に入らない。いつもアディのことを考えてる。…どうにかなりそうなくらい…好きだよ。…いや、足りないかな。…愛している」
(な、何言っているの――!!)
羞恥と狼狽と動悸で涙が止まった。
ローランドは真っ直ぐにアデレイドを見つめている。でも優しい眼差しにはいつもとは違う色があるように思う。それがアデレイドを落ち着かない気持ちにさせる。でも。
(…ローランドならきっと、裏切らない)
すとんと胸の底に落ちたのは、難しい計算式が解けて導き出されたたった一つの正解のように疑いのない答えだった。
生まれた時からずっと、側に居てくれた人。家族と同じようにアデレイドを愛して慈しんでくれた。けれどやはり家族とは違う。三人目の兄ではない。ローランドはたった一人の男の子だ。
レオノーラの記憶が蘇って苦しい夢に魘されるアデレイドを、詳しいことは知らないまま優しく甘やかしてくれた。その期間があったからこそ、アデレイドは心を癒すことができたのだ。
未来は誰にも分からない。絶対とは言い切れない。ローランドだって、もっと大人になれば別の人を好きになるかもしれない。アデレイドが不在になる三年間に、心が変わってしまうことだって有りうるだろう。それでも今、この瞬間だけでも、アデレイドはローランドを信じたかった。信じても悔いはないと思った。
(そっか、ローランドは不安なんだ。私が三年も帰らないと言ったから)
だからこそアデレイドは今、ローランドに伝えたかった。とびきりの笑顔で。アデレイドは頬に残る涙を拭った。
「私、ローランドが一番好き。ローランド以外、好きにならない」
直後、アデレイドはローランドに思い切り抱きしめられていた。
「アディ。もう取り消しは受け付けないから。僕はアディを手放す気は全然ないからね」
「…うん」
ローランドならアデレイドを裏切らない。そう思う一方で、もしもそんな日がきたとしても。
(ローランドが他の人を好きになってしまったら、…それでもいい。ローランドが幸せになるなら、私は祝福する。…してみせる)
決意とは裏腹に、想像しただけで泣きそうになった。アデレイドがぎゅっとローランドに抱き付くと、ローランドは少しだけ腕を緩めてアデレイドの顔を覗きこんだ。
「アディ?…なんで泣きそうなの」
アデレイドは緩く首を横に振った。
「…ローランド、他の人を好きにならないで」
思わず弱々しい声が零れてしまった。
ローランドは何故か嬉しそうに笑った。
「ならないよ。あり得ないよ。僕は今までずっとアディが好きで、これからもずっと好きだよ」
揺るぎない瞳でローランドはアデレイドを見つめた。優しくて甘いだけでなく、どこか頼もしいその表情に、アデレイドは一気に気持ちが軽くなった。アデレイドが微笑むと、ローランドはこつんと額をアデレイドの額にくっつけた。
「アディ、口付けをしてもいい?誓いの口付けを」
「!」
アデレイドの顔が真っ赤になった。
(く、口付け!?って、唇に…?)
レオノーラのときだって、したことがない。アデレイドはどうしていいかわからず、目を泳がせた。
「えっ…と」
おろおろしだした婚約者に、ローランドは悪戯っぽく笑うと、アデレイドの頬に両手を添え、ゆっくりと顔を傾けた。アデレイドに逃げる時間を与えてくれている。けれどアデレイドは金縛りにあったように身動きできなかった。ローランドの金の瞳が甘く細められ、優しくふわりとアデレイドの唇にローランドの唇が押し当てられた。
「!!」
アデレイドの顔が更に赤くなった。くたりと身体の力が抜ける。ローランドはそんなアデレイドを愛おしそうに抱きしめた。
「…可愛い」
「…!!!」
耳元で囁かれて、アデレイドはぎゅっと目を瞑った。もうダメだ。死ぬかも。
――それはまだ春の浅い頃、アデレイドが十三歳になるほんの少し前のことだった。




