050
コンコンと窓を叩く音に、進級試験の勉強のために机に向かっていたローランドは握っていたペンを置いた。
「………?」
窓辺に寄り、そっとカーテンを引くと、そこにあり得ない人物がいた。
「な……!?」
素早く窓を開け、抱き寄せるようにしてその人物を自室に引っ張り込む。
高速でカーテンを隙間なく閉じ、窓に鍵をかける。
「ローランド、苦しい」
その声にはっとして腕を開いた。目の前にはアデレイドがいた。
「アディ……。なんでここに」
幻じゃないかと自分の目を疑わずにはいられない。アデレイドはにこりと笑った。
「幻じゃないよ。本物だよ。……ローランドに大事な話があって来たの」
深夜、男子寮にこっそりと忍び込んで来た婚約者に、ローランドは眩暈がした。誰かに見つかったらどうするのだ。
「どうやってここまで?夜は門が閉じられているはずだ」
「ハロルドに協力してもらったの。塀を乗り越えたわ」
「……………」
塀を乗り越えたって。ローランドは絶句した。
「…じゃあ、ハロルドも近くに?」
アデレイドは頷いた。ローランドは後でハロルドにお説教だと思った。
「なんて無茶を。一歩間違えたら大怪我する」
アデレイドは大したことではないというように笑った。
「大丈夫よ。私が木登り得意なの、知っているでしょ?」
ローランドは首を横に振った。ローランドはアデレイドの両腕を掴んで目線を合わせた。
「でも夜だし暗いし、番犬もいるし。危ないよ。アディ、お願いだから無茶しないで」
金色の瞳にじっと見つめられ、真剣な表情で懇願されて、アデレイドは気圧された。小さく頷く。
「…うん、気を付ける…。…心配かけてごめんなさい」
アデレイドが約束すると、ローランドはほっとしたように肩の力を抜いた。
「……アディ、話って?」
ローランドはアデレイドを長椅子へと誘った。アデレイドは気を取り直して頷いた。
ふわりとアデレイドの首の後ろで結わえられたリボンが舞った。アデレイドの髪はいつの間にか背の中ほどまでの長さになっている。それを紫紺色のリボンで一つに纏めているのだ。ローランドの目が自然とそのリボンに惹きつけられた。
「髪、伸びたね。そのリボン、アディの瞳の色だね、似合ってる」
そう言うと、アデレイドははにかんだ。
「これはサイラスさまに頂いたの」
「…え?」
「サイラスさまに髪を切らないでほしいとお願いされて」
「――」
「サイラス…さまは、特別だから…」
アデレイドはちょっと照れたように微笑んだ。
(ジュリアンだし、なんていうか…特別。泣き顔も見てしまったし…)
サイラスへの思いは複雑だ。幼いジュリアンを残して死んでしまったという負い目もある。彼に髪を伸ばしてと乞われれば、断れない。
その時アデレイドは照れ隠しに横を向いていたので、ローランドがどんな表情をしていたのか、知らない。
不意に手首を掴まれ、引き寄せられた。
「え?」
反対側の手で、するりとリボンが解かれる。ぱさりと髪が落ちるのと同時に強く抱きしめられた。
「ロ、ランド…?」
「……特別って、どういう意味?」
耳元で低く囁かれた。
アデレイドは焦った。ローランドの声は低く、今までと違う。ぎゅっと抱きしめる腕も胸も、固くて広い。この一年で大分背も伸びた。アデレイドより頭二つ分近く高い。まだほっそりとしているけれど、今までもぎゅっと抱きしめられたことはあるけれど、もう子供ではないと、伝えてくるようで。
「あ、あのね、ローランド」
「……僕の特別は、アディだよ」
「…!」
アデレイドは息を飲んだ。心臓がドキリと跳ねた。
アデレイドの髪をくしゃりとかき混ぜて、ローランドはさらに強くアデレイドを抱きすくめた。心臓が痛いほどドキドキと脈打ち非常事態を告げる。
「髪を伸ばしたのは、…サイラスさまのため?リボンを飾るのも…?」
(ローランド…?)
声が低い。まるで怒っているみたいに。心臓があり得ない速度でばくばくと鼓動を刻んでいる。
「アディはサイラスさまの前でなら、ドレスを着るの?」
(ドレス…?)
「何、言ってるの…は、離して」
「いやだ」
(!?なんで…)
アデレイドはローランドが何で意地悪を言うのかよく分からなかった。もう限界なのに。
「ローランド、お願い。…心臓、こわれちゃう…」
弱々しい声に、ローランドのどこかピリピリとした気配が緩んだ。そっと腕を緩めてアデレイドの顔を見ると、真っ赤になって、瞳を潤ませていた。胸元をぎゅっと押さえて、上目遣いでローランドを睨み付ける。
「意地悪しないで」
ローランドは咄嗟に横を向いた。ローランドの目元が赤く染まる。
「…ずるいよ、アディ」
「?」
アデレイドは何故ローランドが困ったような、拗ねたような表情をしているのかわからなかった。ともかく、拘束を解かれて自由になったのをいいことに、なるべくローランドから離れることにする。まだ心臓が飛び跳ねているようだ。
ささっと奥の寝台に飛び乗り、毛布を被る幼馴染みに、ローランドは頭を抱えた。
(だから、なんでそこで寝台に潜り込むんだ…)
毛布の隙間から、警戒するようにちらちらとこちらを窺っている。ローランドは悩んだ。これは進歩なのだろうか。
「アディ。……大事な話があるんでしょ?こっちにおいでよ」
長椅子に座って、隣を示す。アデレイドは逡巡した。
「…。……意地悪、しない?」
「してないよ、意地悪なんて」
「した!…ローランド、いつもと違う…」
言いながらアデレイドは瞳を伏せた。なんでこんなことになったのだろう。
(あ…リボン。サイラスから貰ったって言ったら、ローランドが取ったんだ…)
アデレイドは頭から毛布を外した。
「ローランドは…私が髪伸ばすの…嫌い?」
ローランドは言葉を失った。アデレイドの顔色は少し蒼褪めて、今にも泣きそうな表情だ。
ローランドは首を横に振った。
「違う、そうじゃない」
「――ローランドのばか!」
アデレイドは叫んで、がばりと毛布を被ってしまった。ローランドは途方に暮れたような顔をした。アデレイドは小さく丸まっている。
ローランドはそっとアデレイドに声をかけた。
「…アディ。側に行ってもいい?」
「………」
返事はないが、ダメとは言われなかったので、ローランドは寝台の端にそっと腰かけた。丸い塊に手を置くと、塊がびくりと震えた。ローランドは怯える獣を宥めるように優しく撫でた。
「…ごめん、アディ。ちょっと意地悪したかも。……悔しかったんだ。アディがサイラスさまのために髪を伸ばしたなんて。…それに、特別だって聞いて、我慢出来なかった」
「…………」
アデレイドはローランドに「特別」だと言われたことを思い出し、また胸がどきどきしてきた。でもアデレイドのサイラスに対する「特別」と、ローランドのアデレイドに対する「特別」は、なんとなくだけど違う、と思う。
「……サイラス…さまのことは、家族みたいに思ってるの。弟みたいっていうか…」
「弟…?いや、サイラスさまは十歳以上年上でしょ」
ローランドは怪訝そうに言ったが、アデレイドとしてもサイラスに対しては複雑な感情なので、それ以上は説明できない。
「…アディは、僕が他の女の子を『特別』だと言ったら、どういう気持ちがする?」
「…!やだ…」
言ってしまってから、しまったとアデレイドは己の口を塞いだ。
(何、言ってるの。ローランドに好きな人が出来たら、潔く身を引くって決めていたのに)
戒めようと思うのに、何故か目尻に涙が滲む。
アデレイドの背中を毛布越しに撫でていた手が止まった。
「――よかった」
(え?)
「アディが、いいよって言ったらどうしようかと思った」
「…我儘だと思わないの?」
「そういうのは可愛い我儘って言うんだよ。というか、気にしないと言われた方が傷付くよ。それはアディにどうでもいいと思われているということだから」
「……っ」
ローランドが嬉しそうに微笑む気配がして、アデレイドは無性にローランドの顔が見たくなった。でも自分の顔を見られるのが恥ずかしかったので、毛布を被ったままローランドの背後へもぞもぞと移動し、背中に抱き付いた。
「――ローランド、大好き」
「――!」
ごめんなさいとか、誤解だとか、言おうと思ったこととは全然違う、胸の奥の深い部分に無意識に巣食っていた気持ちが溢れ出た。
腹部に回した手に、ローランドの手が重なる。いつの間にかアデレイドの手を包み込むほど大きい。
「アディ。顔、見たいな」
ローランドの声が甘く響いた。アデレイドは全身の体温が上がった気がした。顔だけでなく、体中赤くなっていそうだ。
アデレイドはローランドの背中に顔を押し付けたまま首を横に振った。
「…ダメ」
「じゃあ、せめて抱きしめさせて」
毛布被ったままでいいから、というローランドの懇願に、アデレイドは逆らえなかった。そっと手を離すと、向き直ったローランドにぎゅっと抱きしめられた。
「僕も、アディが大好きだよ」
「……!」
胸の鼓動がこれ以上ないくらい早くなった。本当に心臓、壊れそう。大好きと言われるのは、初めてではないのに。
「アディが一番好きで、特別で、大事だよ」
「!」
アデレイドの身体が震えた。するりと毛布が剥ぎ取られ、ローランドの指が直接アデレイドの髪に触れた。長い指がくしゃくしゃになったアデレイドの柔らかい髪を丁寧に梳る。
「髪の長いアディも、短いアディもどちらも可愛いと思う。…でも、伸ばすのが、サイラスさまのためだというのは、……やっぱり、面白くない」
ああ、とアデレイドは嘆息した。もしも逆の立場で、ローランドが他の女の子のために髪を伸ばしていると知ったら、きっと心穏やかではいられない。
(私、馬鹿だ…)
ローランドが少し意地悪になるのだって当たり前だ。
「…私、髪、切る」
アデレイドが言うと、ローランドは微笑んだ。
「違うよ、アディ。そうじゃなくて、…アディが髪を伸ばすのは僕も嬉しい。だから、サイラスさまのためじゃなくて、…僕のために伸ばして」
耳元で囁くように言われて、アデレイドは気絶寸前だった。心臓は限界を超えているし、顔はびっくりするくらい赤いに違いない。
(な、なにかもう息の仕方も、思い出せない…)