048
ジャレッドが正式に学生として学院に入学して三か月が過ぎた。
髪色は元の水色に戻してある。
ローランドとは学年が違うため、いつも一緒というわけにはいかない。けれどジャレッドは出来る限り従者としての務めも果たしたかったので、授業を終えると素早くローランドの授業が行われている教室へと走った。
オズワルドとは接触しないよう細心の注意を払っていた。
ジャレッドは半年前、まだ従者としてローランドと一緒に学院へ入ってすぐ、オズワルドの姿を遠目に見かけた。
オズワルドはエルバートそのものだったのですぐに分かった。
心臓がどくりと大きく跳ねた。
(殿下…)
会いたいのか会いたくないのか、自分でもよくわからない。
ただ、まだ会いに行く勇気はなかった。
だが同じ学院に在籍していればいつまでも避けられないのはわかっていた。
だからその時が来たら静かに受け入れようと決めていた。
その日、朝からローランドの具合が悪く、ジャレッドは看病のため授業を休んで付きっきりでローランドの世話をしていた。
「…ジャレッド、授業」
「そんなことよりローランドさまの方が大事です」
学費を出して貰っているため授業も蔑ろにしたくはないがジャレッドの優先順位は確定していた。きっぱりと告げてローランドの額の布を冷たい水で冷やして絞り、置き直すとローランドの息が少し和らいだ。
「…ごめん…ありがとう」
ジャレッドは微笑んだ。
「…何か食べたいものはないですか?」
「……桃」
「わかりました。少し出かけてきます」
滅多に我儘を言わないローランドが甘えたように桃を所望したのでジャレッドは張り切って調達に出かけることにした。やっと自分が役に立てると思えてむしろ嬉しかった。
お粥などなら寮の食堂に頼めば作って貰えるが、果物などはあるかどうかわからない。なので従者や、従者がいなければ学生本人が外出許可を取って街に買い出しに行くのだ。
いつもとは違う行動にジャレッドの勘はすっかり狂っていたとしかいいようがない。
寮を出たところでオズワルドに遭遇したのだった。
「おまえは…」
オズワルドは驚愕を顔に張り付けてジャレッドを凝視した。
ジャレッドは動けなかった。
その時が来たら静かに受け入れようと決めていたが、頭の中は真っ白で何も考えられない。
二人は何も言わずにただ見つめ合った。それはほんの数分のことだったのだろうが、数時間にも思えた。
「あ……」
ジャレッドが何かを言おうとするのと同時にオズワルドが動いた。
大きな歩幅で一気に距離を詰めてジャレッドの目の前に立つオズワルドを呆けたように見ていることしか出来ない。
オズワルドの腕が伸びた。ジャレッドは反射的に殴られると思ったが、目を閉じることも動くことも出来なかった。
「…アール…」
オズワルドはゆっくりと伸ばした腕の中にジャレッドの身体を抱きしめた。その腕は微かに震えていた。
「………っ」
ジャレッドは喉元にせり上がってくるものを必死に堪えた。
(殿下)
覚えていてくれた。再会を喜んでくれている。
ジャレッドは静かに涙を流した。言葉を発することは出来ない。ただ呆然と立ち尽くした。
「もう一度出逢えると思わなかった」
暫くしてオズワルドが腕をほどき、ジャレッドの顔を見つめた。
ジャレッドもオズワルドを見つめた。漆黒に銀を散りばめた美しい瞳。二度と会えないと思っていた。
オズワルドが表情を改めた。
「…赦せ、アール」
ぴくりとジャレッドの肩が揺れた。
「…おまえはレオノーラを死なせてしまった私を憎んでいるのだろう…。済まなかった…」
ジャレッドの瞳から新たに涙が溢れ出た。
憎みたくなかった。けれど赦せなかった。だから側を離れた。
魔女のせいだと分かっていても、割り切れなかったのだ。
ジャレッドは気付いた。
今凪いだ気持ちでオズワルドに対面出来るのは、アデレイドに出会えたからだと。
(アデレイドさまに出会わなければ…俺は今も殿下を赦せなかっただろう…)
生まれ変わって幸せに生きているアデレイドを見ることが出来たから、オズワルドに出会っても憎しみが湧かないのだ。
けれどもう一度アデレイドを傷付けるなら、今度こそジャレッドはオズワルドを殺すだろうと思った。
そんなことはしたくない。だから絶対にアデレイドのことは秘密にしようと決めた。
(…殿下はご自分の幸せよりもアデレイドさまの幸せを優先するべきなんだ)
今生を穏やかに過ごしているアデレイドの前に現れて、彼女の心を揺さぶって欲しくはなかった。
「…アール…いや、今の名はなんという?」
「…ジャレッドです」
「そうか。…ジャレッド、私の元に来ないか」
ジャレッドは一瞬錯覚した。オズワルドの姿はエルバートそのものだ。おそらく自分もアールそのままで。何事もなかったかのように、王子の従者として側にいることが当たり前だと。
けれどその時ジャレッドの脳裏に浮かんだのは桃を食べたいと言ったローランドの顔だった。
もう昔とは違うのだ。
「…勿体無いお言葉です。…ですが殿下、今の私はある方に仕えている身。私はその方に忠誠を誓っております。…殿下のお側には参れません」
静かに頭を下げると、オズワルドが僅かに驚いたように身動いだのが分かった。
「………そうか。……残念だが、無理にとは言わない。…まだ、赦してはくれぬのだな……当然か」
切なげに自嘲の笑みを浮かべるオズワルドに、ジャレッドは胸の奥が締め付けられた。
王子の身分であるオズワルドが平民のジャレッドに赦しを乞う必要はない。側に置きたいと望めば命じればいいだけだ。だがオズワルドはジャレッドの気持ちを汲んでジャレッドの望みを尊重してくれた。魔女と出会う前までのエルバート本来の姿を見た気がした。
(そうだ…。殿下は人の気持ちを蔑ろにしたり、踏みにじるような方ではなかった。…それは分かっている…。でも)
一人の少女の死は大き過ぎたのだ。
ジャレッドは丁寧に膝を折った。
「…殿下。アール・ラングリッジが役目を最期まで全うすることなく殿下の御前を許可なく離れたことをお詫びいたします。……それは許されることではございません。ましてや赦して頂こうとも思いません。……ですがアールは既に亡くなりました。ですからどうか殿下、もうアールのことはお忘れください。…殿下がこれ以上アールのことで思い煩う必要はございません」
一介の従者が王子を赦さないなど、あってはならないことだ。だからジャレッドが王子に「赦します」とは言えなかった。それは「赦していない」ことが前提の言葉だからだ。
だからジャレッドはアールのことは忘れてくださいと言うしかなかった。
忘れられるのは辛いとジャレッドは思っていた。出来れば自分のことを覚えていてほしいとも。けれど実際にオズワルドに会って、彼が自分を覚えていてくれたことを知った時、十分だと思った。
もうレオノーラのことではオズワルドを憎む理由などなかったから。それは既に終わったことだから。
エルバートが一番苦しんだことを、知っていたから。
これ以上はエルバートを責めるつもりはない。だからオズワルドにはアールのことで心を痛めて欲しくはなかった。
ただ、アデレイドのことは別だった。
ジャレッドはオズワルドに、アールと同様にレオノーラのことも忘れてくださいと伝えたかった。
でもそれをジャレッドが言ったところでオズワルドが頷くはずがない。それに流石に不遜に過ぎるだろうと思う。
(俺に出来るのは遠くから殿下の幸せを願うことくらいだ)
オズワルドは哀しそうに目を細めていたが、静かに頷くとジャレッドの前から離れた。
「わかった…。アールのことはもう忘れる。…アールには何の咎もない。だからおまえももう過去のことは気にするな」
ジャレッドは深く頭を下げた。これでもう前世のことで言葉を交わすことはないのだろう。そうなれば今生では王子とただの平民だ。すれ違っても声をかけることすら出来ないだろう。
惜別の涙が頬を流れる。それでもジャレッドは引き返して王子の手を取りたいとは思わなかった。ジャレッドはオズワルドが立ち去るまで頭を下げ続けた。
ジャレッドはオズワルドと別れたあと、街へ出て桃を調達した。
ローランドの元へ戻ると、彼はすうすうと穏やかに眠っていた。
ジャレッドは思わずほっこりした。とさりと寝台横の椅子に腰を下ろすと、身体から力が抜けた。
思いがけずオズワルドと出会ったことで、思った以上に神経を使っていたらしい。
(殿下…)
別れた時よりもお互い若返っているので、別離が待ち受けているとは考えもしなかった頃の、レオノーラもいて幸せだった時期を嫌でも思い出す。
「…ジャレッド…」
ふと名を呼ばれてジャレッドは我に返った。
物思いに耽っていたらいつの間にか時間が経っていたらしい。ローランドが薄っすらと目を開けてジャレッドを見ていた。
「ローランドさま。気分はどうですか?」
「…うん、だいぶいい」
「桃を召し上がりますか?」
「うん」
ジャレッドは張り切って桃を剥いた。
「ありがとうジャレッド」
ローランドの笑顔にジャレッドは心に空いた穴が埋まるのを感じた。
「…ありがとうございます、ローランドさま…」
礼を言うジャレッドにローランドは戸惑った。ジャレッドはなんでもないと首を振って笑った。
「ローランドさま、もう少し眠ってください。着替えをご用意しますね」
ジャレッドは穏やかな気持ちでてきぱきとローランドの世話を焼くのだった。
***
オズワルドはかつての従者が、今は違う主に仕えており、自分の元には戻らないと明言したことに地味に傷付いていた。
(アールはもう戻らないのだな…)
同じ姿で生まれ変わって再会しても、以前と同じではない。
それは考えてみれば当たり前であるはずなのに、自分は以前と同じ世界を当たり前に手に入れられるとどこかで思っていたことに気付く。
だがふと周りを見れば、クライヴもいない。今の彼は自分より六歳も年上のため、学院にいないことは当然であったから特に気にしていなかったが、オズワルドの学院卒業後に彼が側にいてくれる保証はどこにもないことに漸く気付く。
レオノーラの死が皆をバラバラにしてしまった。それを招いたのは自分だ。
(やはりレオノーラを取り戻すしかない)
もう一度やり直すのだ。レオノーラが赦してくれるなら、皆も帰って来てくれる気がした。




