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もう、恋なんてしない  作者: 桐島ヒスイ
第一部

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50/100

046

 サイラスの贈ってくれたドレスはどれも淡い色合いで可愛らしいデザインの昼用ドレスだったが、一着だけ夜会用といっても過言ではない、大人びたドレスがあった。

 そのドレスは光沢のある紫紺色で、裾は踝まで隠れる長さである。すっきりとした形だがたっぷりの布地を使っており、くるりと回ると思った以上にドレスが広がり華やかな印象になる。

 首から鎖骨にかけて開いたデザインで、胸の部分には真珠が縫い付けられており、紫紺色の海に浮かぶ月のようだ。

(綺麗……)

 布の手触りは滑らかで心地よく、ドレスを見ているだけで自然と心が浮き立ってくる。

(あー…何か久しぶり、この気持ち)

 久しく忘れていた乙女心を思い出した。サイラスがいると前世の日常が鮮やかに蘇る。今のアデレイドにとっては華やかな非日常が。不思議な感覚だった。

 遠い昔の絵巻物を懐かしむような郷愁と懐古の気持ち。けれど決して昔に戻りたいとは思わなかった。今が愛おしい。でもたまには素敵なドレスを纏って姫君のように夜会に出るのも悪くはない。

 その夜だけは魔法にかけられた乙女のように夢のような時間を楽しむのだ。翌日には何もかも元に戻ってしまうと知っていても。

 アデレイドはサイラスが帰る日の前の晩にこれを着ることに決めた。

 その日はサイラスのために小さな夜会を開く予定になっている。

 夜会と言ってもサイラスはお忍びでデシレー領を訪れているため大規模なものではなく、近しい友人のみを招待するこじんまりとした晩餐会だ。




***


 ドレスを纏ったアデレイドに、侍女から感嘆の吐息が零れる。

「月の女神のようです……」

 髪は梳き流し、真珠をあしらった紫紺色のリボンで飾っている。

 両親も着飾ったアデレイドを見て涙ぐんでいる。

「……アディもドレスを着ればちゃんと女の子に見えるわ……」

「いつの間にこんなに大人っぽく…。いやだ、まだお嫁にやりたくない…」

 理由はそれぞれだったが。



 アデレイドがまだ未成年のため、夜会は通常よりもやや早い時間に始まった。

 アデレイドが階段ホールへ行くとサイラスが待っていた。彼はアデレイドを見て一瞬目を見開き、次いで蕩けるような笑顔を浮かべた。

「アディ、よく似合っています。綺麗だ」

「…………!」

 アデレイドの顔が赤くなる。どうしてサイラスは臆面もなくストレートな言葉を言えるのだろうとアデレイドは苦悶した。

「アディ、手を。階段から落ちると大変ですから」

 サイラスは本気で心配そうな表情をしている。以前アデレイドがサイラスの屋敷で階段から落ちたことが相当トラウマになっているのだろう。アデレイドとしても華奢な靴を履いている今の自分ではあり得ると思ってしまう。

 アデレイドはありがたくサイラスの手につかまった。サイラスはにっこりと嬉しそうに微笑んだ。


 晩餐の席で客の関心はサイラスに注がれたが、サイラスは彼らの好奇心を綺麗に躱して食事を楽しむことに専念した。

 食事が済むと客は大広間でダンスをしたり、遊戯室でビリヤードやカードゲームなどそれぞれ思い思いに愉しむことになっている。


 アデレイドは未成年のため、ダンスを一、二曲踊ったら退室することになっている。そのため、サイラスは最初にアデレイドと踊ってくれることになっていた。

「よろしいのですか、サイラスさま。まだ子供のアデレイドのお相手をして頂くなど…」

 恐縮する父親に、サイラスは優美に微笑む。

「可愛らしい姫君のお相手を務められるのは光栄です」

 サイラスはアデレイドの両親やメイドたちから紳士の鑑だと絶賛された。勿論トマスを除いて。


**


 遠い昔、レオノーラとジュリアンは姉弟となって以降、毎週数時間は欠かさず互いをパートナーとしてダンスの練習を積んでいた。

 だからレオノーラが最も踊った相手はジュリアンだ。


 アデレイドはサイラスとのダンスがしっくりと身体に馴染むのを感じた。

 あの頃はまだジュリアンの背はレオノーラと同じくらいしかなく、逆に今の自分たちは大人と子供という不釣り合いなペアだというのに、違和感がない。

(楽しい)

 二人の顔に自然な笑顔が浮かび、それは周りの者の目を惹きつけた。




**


 時は僅かに遡る。

 アデレイドたちが晩餐を楽しんでいる頃、一台の馬車がデシレー邸へと向かっていた。

「晩餐には間に合わないな、こりゃ」

「侍女には昨日のうちに手紙を出してあるから何か食事は作っておいてくれると思う」

「……アディ驚くよね……」

 馬車に乗っているのはジェラルド、セドリック、そしてローランドだった。

 三人は学院の学期が終わったその日のうちに馬で王都を出発し、夜通し飛ばして次の町へ着くと朝一番の馬車に乗ることに成功し、通常より二日早くデシレー領内に入ることが出来たのだった。ただしこのことはアデレイドには秘密である。突然帰って驚かせるためだ。それと、ローランドにアデレイドのドレス姿を見せるためでもあった。

(アディはローランドにだけは見せないんだよな…流石に不憫だ)

 ジェラルドは以前侍女に、ローランドにアデレイドのドレス姿を見せるためには予告なしに来訪して貰うしかないと言われたのだ。

(今夜は確かサイラスさまの送別会が開かれているはずだからアディがドレスを着ている可能性は高い)

 だから少々の無茶を押して、予定を早めての帰郷なのだった。


**


 屋敷の少し手前で降ろして貰い、裏口から入ると侍女がこっそり教えてくれた。

「ちょうどこれからダンスが始まるところですよ。お嬢さまは大広間にいらっしゃいます」

 三人は頷くと大広間へ向かった。


 大広間に近付くにつれて華やかな音楽が聞こえてくる。夏なので窓を開け放っているためだろう。

 三人は隣の控室から庭へと降り、大広間の窓からそっと中の様子を窺った。


 何組かのペアがくるくると円を描いて踊っていた。その中央で花が咲くように紫紺色のドレスが広がった。


 その少女はまだ幼く相手の青年とは身長差があったが、青年は少女を大切そうに見つめ、優雅な足取りで少女をリードしており、また少女も軽やかに舞って、二人のダンスは一幅の絵のように美しかった。


 ローランドがその少女をアデレイドだと理解したのは一曲が終わって鳴りやまない拍手の中、二人が会釈して大広間を出て行った後だった。

「ローランド」

 ジェラルドに名を呼ばれてはっとして振り仰ぐ。

「………」

 どこか愕然とした様子のローランドに、ジェラルドは無言でその手を取ると、踵を返して先ほどの控室の窓から屋敷内へと戻り、アデレイドの部屋へと階段を駆け上がった。


 ローランドはアデレイドに会うのを、急に現れて驚かせることを楽しみにしていた。

 けれどこれは全くの想定外だった。アデレイドがドレスを着ていることも、サイラスと踊っていたことも。

 全然知らない女の子みたいだった。

「ジェル兄」

 急に足を止めたローランドに、ジェラルドは訝しげに振り返った。

「…今日はアディには会わない」

「ローランド?」

 ローランドはジェラルドの腕を振りほどくと、いつも自分が使わせてもらっている客室へと走り去った。


 残されたジェラルドは乱暴に髪をかき混ぜた。

 そこへセドリックが現れた。

「兄さん、父上と母上に帰郷の挨拶をしてきたよ。…ローランドは?」

「…とりあえずアディに会おう」

 不思議そうに首を傾げるセドリックを引っ張って、ジェラルドはアデレイドの部屋へ向かった。



「兄さま!?」

 まだドレスを着ていたアデレイドは月の精霊かと見紛うほど美しかった。

「到着は明後日って聞いてた。早く会えて嬉しい!」

「アディ、すごく綺麗だ」

 嬉しそうに駆け寄って来たアデレイドをぎゅっと抱きしめると、ジェラルドは膝を付いてアデレイドと視線を合わせた。

「…実はな、ローランドも一緒に連れて来たんだ。けど、具合を悪くしたみたいで今部屋に」

「え!?」

 ジェラルドが言い終わる前にアデレイドは走り出していた。途中で靴を脱ぎ捨て、いつもローランドが使っている部屋の扉をノックもせずに開け放つ。

「ローランド、具合悪いの!?」

「……!?」

 寝台にうつ伏せに寝ていたローランドは驚いて身体を起こした。

 目の前に先ほど踊っていた妖精のような女の子がいる。けれど心配そうに自分を見つめるその少女は紛れもなくアデレイドだった。自分がよく知っている大好きな女の子。

「アディ…」

「馬車に酔ったの?お薬いる?お水飲む?」

 アデレイドは心配そうに眉根を寄せてローランドの額に手を当てた。心なしか顔色が悪い気がする。

「お薬貰ってくるね」

 アデレイドが踵を返そうとすると、ローランドがぽつりと言った。

「アディ…ドレス着てる…」

「!!」

 その言葉にアデレイドの頬は瞬時に朱く染まった。

(いやぁ――――――!!)

「見ちゃダメ―――――――――!!」

 アデレイドは叫ぶと部屋を飛び出した。


(どうしよう、ローランドに見られちゃった!!)

 恥ずかしくて死にそうだ。

 アデレイドが自室に戻るとまだ兄たちがいた。

 顔の赤いアデレイドに、ジェラルドは少しからかうように笑った。

「ローランド、どうだった?」

「あっ」

 アデレイドは恥ずかしすぎてローランドをほっぽり出して来てしまったが、ローランドは具合が悪いのだった。

「兄さま、お薬とお水持って行ってあげて。私も着替えてすぐ行くから」

「着替えちゃうのか?その姿の方が喜ぶと思うぞ」

「!?喜ぶわけないでしょ!…ああ、見られちゃった……」

 本気で落ち込むアデレイドにジェラルドもセドリックも困惑を隠せない。

「アディ、なんでローランドだけダメなの。僕たちにはいつも可愛い姿を見せてくれるのに」

「……だって親友に女装してるところ見られたくない……」

 涙目で言うアデレイドに二人の兄は顔を見合わせた。

「いや、女装って…」

「ローランドは私のこと男の子だと思ってるの」

「「それはない」」

 二人の兄たちはアデレイドの誤解を解こうとしたが、アデレイドはそれよりもローランドのことが心配だった。

「兄さまお願い。ローランドにお薬」

「…わかったから泣くな」

 ジェラルドは宥めるようにぽんぽんとアデレイドの頭を撫でると、部屋を出た。恐らくローランドは大丈夫だろうと思ったが、念のために様子を見ようとローランドの部屋へ向かう。アデレイドが着替えるため、部屋を追い出されたセドリックも後に続く。


「ローランド、入るぞ」

 扉を開け部屋に入ると、ローランドがうつ伏せに寝台に倒れていた。服もまだ着替えていない。

「…大丈夫か?」

「……ジェル兄…?」

 ジェラルドがそっとローランドの肩に触れると、ローランドが振り向いた。

 その顔は真っ赤だった。

「……。大丈夫か……?」

「……アディがドレス着てた……」

「あぁ」

「………可愛かった……」

「…………………………」

 大広間で踊っているアデレイドを見た時は別人のように感じて動揺してしまった。サイラスと楽しそうに踊っていたことも心にチクリと刺さった。けれど、先ほど自分を心配して駆けつけてくれたアデレイドはローランドのよく知るアデレイドだったため、じわじわとドレス姿が目に入ってきたのだ。そして今はそれ以外のことは考えられないくらい頭の中はアデレイドでいっぱいだった。

「…眠れない…」

「……。刺激が強すぎたか…。まぁ、いろいろ吹っ飛んだみたいで安心した」

 ひとまずローランドのことはほっといても大丈夫そうだと判断して、ジェラルドとセドリックは部屋を出た。

 着替えを終えてローランドの部屋に行こうとしていたアデレイドは兄たちに「今はそっとしておいてやれ」と言われ、ローランドの体調が気懸かりではではあったがドレス姿を見られたことが少し気まずくもあったため、その言葉に従うことにしたのだった。



 翌日。サイラスが帰る日だというのにアデレイドは少年姿だった。

 両親からはお客さまのいる時にその恰好はダメだと懇々と諭されたが、頑として聞き入れなかった。



(サイラスは私が男装していることを知っているから大丈夫だもん…多分)

 でもやはり失礼に当たるだろうかと心配になったので謝っておくことにした。

「サイラス…さま。ごめんなさい。今日はドレスを着られないの」

 朝食のため食堂へ向かう途中の廊下でサイラスと一緒になった時にアデレイドがそう言うとサイラスはくすりと笑った。

「謝る必要はありませんよ。その姿の貴女も私は好きですから。それにこの一週間ずっと可愛いドレス姿を見せて頂きましたから」

 アデレイドは何故かサイラスの前では少年姿でいる方が気恥ずかしい気がしてきた。

 でももう魔法は解けたのだ。

「それよりも今日で暫く貴女とお別れということのほうが辛い」

 切なそうに微笑むサイラスにアデレイドもしゅんとなった。

 サイラスの手を取りぎゅっと握ると、サイラスは一瞬驚いたように目を瞠ったが、ふわりと微笑んでアデレイドの手を握り返してくれた。

 二人は仲良く手を繋いで食堂へ向かった。


 ローランドは昨夜中々寝付けなかったせいで、その日は珍しく朝寝坊をしたため、幸いなことにその光景を見ずに済んだ。

 ローランドが起きたのは昼過ぎで、サイラスは既にデシレー邸を発ったあとだった。

「ローランド、やっと起きたの。おはよう」

「おはようアディ」

 アデレイドが階段ホールに行くと丁度ローランドが通りかかった。

 アデレイドはいつものように男装姿だ。昨日見た姿は幻だったのだろうかとローランドはぼんやり考えた。これ以上ないくらい脳裏に鮮やかに焼き付いているけれど。

「アディ…。昨日はドレス」

「なんのこと!?見間違いよ!それより具合はどう?…徹夜で馬を飛ばして来たと兄さまたちから聞いたわ。…無茶し過ぎよ」

 アデレイドはローランドの顔色を確かめるために両手をローランドの頬に当てて顔を覗きこんだ。

「アディに早く会いたくて」

 ローランドがふんわりとはにかんだ。

「…!……うん」

 アデレイドは不意を突かれて言葉を失った。頬が赤く染まる。

 ローランドはドレスが似合っていたと伝えたかったけれど、アデレイドが必死に誤魔化そうとしているので告げることを諦めた。

 代わりにアデレイドのこめかみに口付けを落とす。

「!?ローランド?」

 突然のキスにアデレイドは驚いてローランドを見上げた。ローランドは楽しそうに笑った。

「アディ。大好きだよ」

「!!…う、うん」

(なに!?ローランド、朝からご機嫌!?)

 動揺のあまりアデレイドは目を逸らしてしまった。そのため、ローランドの瞳が微かに切なげに伏せられたことには気付かなかった。





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