045
サイラスはのんびりとデシレー領を散策していた。彼はお忍びでアデレイドに会いに来たのだ。
アデレイドの両親が、王都でアデレイドが世話になったことのお礼にと招待したのだ。
とはいえデシレー夫妻にとってはサイラスの身分の高さは貧血を起こしそうなレベルだったのでかなり緊張していたのだが、アデレイドやハロルドに気さくな方だからいつも通りでいいと散々説明されて、出迎えの際はなんとか自然な笑顔を浮かべることが出来た。
アデレイドは一年で大分伸びた髪をハーフアップにしてサイラスから贈られた紫紺色のリボンで結び、リボンに合わせて作った薄い紫紺色のレース生地を何層にも重ねたドレスを纏っていた。
十一歳になったアデレイドは以前より背も髪も伸び、まだあどけなさは残るものの時折はっとするほど大人っぽく、美しさが匂い立つような可憐な少女に育っていた。
サイラスはアデレイドに見惚れてしばし言葉を失った。
「お久しぶりです、サイラスさま。昨年はお世話になりました」
両親の手前、さま付けで呼ぶと、サイラスはにこりと微笑んだ。
「アディ、思わず見惚れていました。一年で貴女は随分美しくなられた」
そうしてアデレイドの手を取るとそっと口元へ近づけて指先に軽く口付けた。
「……!」
「可愛いレディ、お屋敷の案内をお願いしてもいいですか?」
きらきらと美しい笑顔で乞われて、断れる者などいない。アデレイドははにかんだ。元よりそのつもりでもあった。
「はい。喜んで」
アデレイドの両親はまだ幼い娘をサイラスがレディ扱いすることを微笑ましく見守っていた。屋敷の使用人たちもサイラスを紳士の鑑だというように温かい眼差しを向けている。ただ一人、トマスを除いて。
(いやいやいや、サイラスさまは本気ですよ。本気でお嬢様を狙っている狼ですよ。紳士なんかじゃない、騙されてるよみんな)
自分がアデレイドを守るしかない、と悲壮な決意を固めるトマスだった。
サイラスがデシレー領に滞在するのは一週間。入れ違うようにして学院の夏休みを迎えるジェラルドとセドリックが帰省することになっている。その際、友人も連れて来るという。数日遅れてローランドも遊びに来ることになっていた。賑やかな夏になりそうだった。
アデレイドは夏が楽しみで仕方がなかった。
*
「アディ。そのリボンを使って下さっているのですね。よく似合っています」
サイラスに嬉しそうに言われて、アデレイドも微笑んだ。サイラスが喜んでくれることが嬉しかった。
(ジュリアンには哀しい顔ばかりさせてしまったものね。サイラスには笑ってほしい)
サイラスはアデレイドの生まれ育った屋敷を感慨深げに見つめた。彼女を育んだものすべてに感謝を捧げたい気分だった。
アデレイドの両親と対面し、アデレイドが大切に慈しまれて育てられていることが伝わってきて嬉しかった。彼女の兄たちの妹への溺愛ぶりも大概だったが、両親も負けず劣らずだ。けれどサイラスにはそれが嬉しくて仕方がなかった。アデレイドのことをこれ以上ないくらい甘やかしてあげて欲しいと思った。
サイラスはアデレイドへ極上のドレスや宝石をお土産に持参していた。
「こんなに高価な贈り物は頂けません…!」
アデレイドや両親が悲鳴をあげると、サイラスは困ったように微笑んだ。
「アディ。うちには姫がいないので返されても捨てるしかなくなります。これは私の我儘です。可愛い貴女にドレスを着て欲しい。どうか私の我儘を叶えてください」
お願いしますとにっこり、それはそれは麗しく微笑まれて、アデレイドは降参した。
(サイラスは結構強引だわ…)
今更返したところで誰も着る者がいないのは事実だ。それではあまりにもドレスが不憫だ。ならば着るしかない。
アデレイドは毎日サイラスの贈ってくれたドレスを着た。本日は出かけるので動きやすい簡素なデザインながら随所に小花の刺繍が施された可愛らしいクリーム色のドレスだ。
王都から馬車で五日の距離にあるデシレー領は長閑な田舎町である。
豊かな牧草地と穀倉地帯が広がり、湖や森に囲まれた美しい土地だ。
アデレイドはこの美しい風景をサイラスに見せたくてうずうずしていた。馬車でゆったりと領内を巡る。御者はトマスでその横にはハロルドが座っている。
サイラスは嬉しそうに領地の自慢をするアデレイドを微笑ましく見つめていた。
馬車が町に着いた。蜂蜜色の土壁の建物が並ぶ可愛らしい町だ。
「この町にはとっても美味しいティーハウスがあるの。サイラスに食べてほしいものがあるわ」
アデレイドは馬車を降り、サイラスの手を引っ張ってお気に入りのティーハウスへと誘った。
「これはお嬢様。ようこそおいでくださいました」
品の良い中年の女性店主が出迎えてくれた。
こじんまりとした一軒家の店内は落ち着いた調度品で整えられ、居心地が良さそうだった。しかしアデレイドは迷うことなく奥の出口へと向かった。
「今日は天気がいいから外の方が気持ちがいいと思うの」
店の裏には庭が広がっており、いくつかテーブルがセットされていた。所々花も植えられており、訪れる人の目を楽しませてくれている。
アデレイドとサイラスが席に着くと、程なくして店主が注文した品を運んできた。トマスとハロルドも近くの席に座っている。
「これは…?」
陶器の器に入ったそれは黄金色に輝くムースのようなものだった。不思議そうに器を見つめるサイラスに、アデレイドはにこにこしながらスプーンに掬ったそれを差し出した。
「食べてみて。はい」
口元に寄せられたスプーンをしばし凝視して、サイラスが躊躇ったのは一瞬だった。そっとスプーンを口に入れると、アデレイドに期待の籠った瞳を向けられた。
アデレイドはよく兄たちにそうやって食べさせて貰って育ったので、特に何も考えずにそうしたのだった。だからサイラスの目尻がほんのりと紅く染まっている意味には全く気付かなかった。トマスが後ろで「お嬢さま~~~~!!!」と蒼白になっていることにも。
滑らかなカスタードの味が口内に広がる。
「…美味しいです」
サイラスがそう言うと、アデレイドが破顔した。そうして自分も一口食べる。
「…幸せ」
アデレイドはうっとりと目を閉じて味わうようにゆっくりと食べた。目を開けると、サイラスが優しく微笑んでいた。
「アディ。私の分も食べませんか」
そうして一匙すくってアデレイドに差し出してくる。
「えっ、それはサイラスの分だからサイラスが食べて」
「でも先ほど貴女の分を一口分けて頂いたのでお返しです」
にっこりと微笑むサイラスに押されてアデレイドがぱくりと口にすると、サイラスがふっと微笑んだ。
「……これは癖になりそうだな…」
アデレイドは嬉しそうに頷いた。
「美味しいでしょう?私も大好きなの」
サイラスが言ったのはカスタードのことではなかったが、微笑んで頷いた。
「もう一口どうぞ」
「だ、だめだめ。サイラスの分がなくなっちゃう」
サイラスに食べて欲しくてここへ来たのに、アデレイドが食べてしまっては意味がない。サイラスから匙を奪って差し出すと、サイラスは苦笑して大人しく食べた。けれどすぐに匙を奪い返され、今度はアデレイドが食べさせられる側になった。
「アディ。口を開けて」
優しく囁かれてアデレイドは抵抗出来なかった。甘い誘惑に抗えない。
(最後の一口。これで終わり)
そう自分に言い聞かせてそっと匙を口内に含む。溶けるようになくなっていく柔らかな感触を堪能する。
(ん~おいし)
アデレイドを見つめるサイラスの眼差しは極甘だった。トマスは茶を濃い目に淹れた。
結局二人は交互に一口ずつ食べ合って店を出たのだった。密かに他の客たちから生暖かい眼差しで見守られながら。
*
夜、ハロルドは密かにサイラスに宛がわれた客室に赴いた。
サイラスはハロルドを一瞥すると、軽く頷いて報告を促した。ハロルドは今のところアデレイドの周辺に異常はないことを告げた。
「……引き続き頼む。例の尾行者の件はまだ片付いていない。油断するな」
サイラスの言葉に、ハロルドは静かに頭を下げた。