041
レオノーラに会わなくなって三年が過ぎた。アールは小姓から侍従に昇格して、仕事に励む日々を送っていた。
エルバートがレオノーラに会う時は別の侍従が付き従う。そのことに忸怩たる思いはあるが、考えてはいけないと自分を諭す。けれどいつかは苦手意識を克服しなければならないと思ってはいた。いずれレオノーラはエルバートの妃となる。そうなればいつまでも避けてはいられないからだ。
ある朝、唐突にエルバートに今日は休みにしていいと言われた。
アールはポカンとした。しかしエルバートはこのところ休みなしだったからとしか言わない。腑に落ちなかったが、特に何か失敗したための謹慎とかそういうわけではなさそうだったので仕方なく引き下がった。
アールはエルバートの側にいることが唯一の望みなのだ。だから休みなんて要らないのだが、他の侍従の手前、殿下を独占し過ぎるのも良くないのかなと思って自重したのだった。
宿舎に戻るため回廊を歩いていたアールは正方形の回廊の、中庭を挟んだ反対側の通路を通り過ぎる一行に気付いた。
銀色の光がきらきらと輝き、ふわりと舞う。
二人の衛兵と侍女を連れた白銀の髪の少女。レオノーラだった。
アールは思わず足を止めてレオノーラを見つめた。三年振りに目にする彼女は以前より大人びて女神のように美しかった。
どくんと一つ心臓が大きく鳴った。
アールは咄嗟に胸を押さえた。
(そうか…レオノーラさまが来るから、休みになったのか)
胸が痛いのは何故なのだろう。
アールはなんとなくそのままレオノーラたちの後をそっと追った。レオノーラはエルバートの居室の前にいた侍従と楽しそうに何かを話し、室内へと消えた。
アールは何故か頭をがつんと殴られたような衝撃を覚えていた。
レオノーラは他の侍従たちの間で人気が高い。アール以外の者はエルバートがレオノーラと会う日に随行したがる。それは知っていたが、レオノーラが彼らと仲良く談笑しているのを見て、漸く自分は大切なものを失ってしまったことに気が付いた。
レオノーラと接することが出来る権利を、他の者に譲ってしまったのだと。
それと同時に自分はレオノーラが好きだったのだと思い知った。
けれどそれは抱いてはいけない想いだった。だから本能的に会うのを避けたのだ。主の想い人をこれ以上好きにならないように。
それなのに、レオノーラが他の侍従と楽しそうに話しているのを見ただけでこんなにも胸が痛い。
ぼんやりしていたらいつの間にか相当時間が経っていたらしい。
「……アール?」
可愛らしい声に、ぼうっと顔を上げると目の前にレオノーラがいた。
「…………!!」
アールは大恐慌に陥った。
(な、な…!?)
「……久しぶりね」
ふわりと花が開くように、レオノーラが微笑んだ。
アールは魅入られたようにその笑顔から目を離せなくなった。
「エルバートさまから、アールはお仕事を頑張っていると聞いたわ」
アールはレオノーラが目の前で自分に話しかけていることが信じられなかった。最後に会ったのは三年前。酷い言葉でレオノーラを傷付けた。だから憎まれてもおかしくないのに。
「……どうして、何事もなかったように話せるんです。…僕は貴女に酷い言葉を言ったのに」
思わずぽつりと零れ落ちた言葉に、レオノーラの顔が一瞬哀しそうに歪んだ。それを見てアールは察した。レオノーラは傷付いたことを水に流して、アールとやり直そうとしてくれたのだと。なのに自分はその傷を抉ってしまった。またレオノーラに哀しい顔をさせてしまった。
くるりと踵を返して駆け出す。やはり自分はレオノーラの側にいる資格はない。
けれど予想外だったのは、レオノーラが追ってきたことだった。
「アール!待って!」
アールはぎょっとして回廊から庭へと走り出した。レオノーラは踵の高い華奢な靴を履いている。きっとすぐに諦める。そう思ったのだが。
「待ちなさいと言っているでしょう!!アール・ラングリッジ!!」
レオノーラは靴を脱いでなんとそれを投げつけて来た。靴は当たらなかったけれどアールの足を止めた。アールがびっくりしている間に追いつき、がばりと抱き付いてきた。
「うわ!?」
レオノーラの勢いにアールは仰向けに倒れた。顔を上げると目の前にレオノーラがいた。
(ちょ――!!)
仰向けに倒れたアールの上にレオノーラが馬乗りになっている。
「レ、レオノーラさま」
焦ったアールはレオノーラをどかそうと手を伸ばしたが、途中で止めた。レオノーラの目から頬を伝ってぽろぽろと零れた涙がアールの頬に落ちたからだ。
「…どうして?アール。わたくしを嫌わないで。逃げないで。わたくしを好きになって…」
「……っ」
流れる涙を拭いもせず、真っ直ぐにアールを見つめる紫紺色の瞳に、アールの心臓は鼓動を止めた。
(もうダメだ……逃げられない)
あと一秒遅かったら、アールはレオノーラを抱きしめていただろう。
「レオノーラ。アールを困らせてはいけないよ」
ひょいっとレオノーラを抱き上げたのはエルバートだった。
途端にレオノーラの顔が赤く染まった。
「こ、困らせてなど」
レオノーラはエルバートが片手に自分の靴をぶら下げているのを見て口を噤んだ。
「意外とお転婆だね?」
くすっと笑われてレオノーラは真っ赤になった。
それを見て、アールはああ、と思った。急速に高揚感が萎んでいく。
(そうだ。レオノーラさまは殿下の)
アールは危なかったと思った。
(殿下が来てくださらなければ僕は過ちを犯すところだった…)
まだ心臓がばくばくしている。
起き上がったアールの頭に草がくっついていることに気付いてレオノーラは手を伸ばそうとした。けれどアールはびくっと身動ぎしてレオノーラから距離を取った。
「アール…」
「殿下、失礼します。自分は休暇を頂いていますので」
エルバートは鷹揚に頷いた。
「いいよ。悪かったね、アール」
アールは一礼すると素早く走り去った。胸が痛くて仕方がない。一秒でも早くレオノーラの姿が見えない所へ行きたかった。
**
「辛いのね。忘れさせてあげるわ」
にっこりと真っ赤な唇を三日月型に吊り上げるその笑顔は魔性の邪悪さを備えていた。アールが冷静だったなら、そのことに気付けただろう。いや、本当は気付いていたのかもしれない。けれど気付かないふりをしたのだ。そんなものでも縋り付きたいほどに心が不安定になっていたから。その心の隙間に付け込まれた。
アールは魔女に願った。忘れたいと。こんな想いは要らないと。主の想い人に懸想するなどあってはならないし、辛いだけだ。忘れたほうが自分のためだと思えた。
魔女はアールの想いを取り上げた。
そして魔女はアールに彼の主の想い人はブリジットだと思い込ませた。
*
エルバートの誕生日の夜会で、具合の悪そうなレオノーラに心配そうな顔をするエルバートを見て、アールは胸の奥に焼かれるような痛みを感じた。痛みの理由はわからない。けれど二人を引き離さなくてはと思った。
(ダメです、殿下。その女に気を許しては。…貴方の大事な女性が哀しむ)
その時給仕から赤いバラを手渡された。アールは眩暈のようなものを感じた。彼女が王子に「来て欲しい」と告げている。
そしてアールはエルバートにバラを差し出した。真紅の女性を彷彿とさせる華やかな花を。
*
ジュリアンに乞われ、レオノーラの見舞いに行こうとしたエルバートを止めたのはアールだ。
(行かせてはいけない)
何故か焦燥感に駆られ、ブリジットにすぐに来るよう連絡を取った。
馬車に乗ろうとしたエルバートの前に現れたブリジットは、蒼白な顔でその場に倒れた。驚いたエルバートは一先ずブリジットを医務室に運ぶよう指示し、付き添った。ブリジットはエルバートに「側に居て欲しい」と涙ながらに縋った。エルバートは動けなかった。
その後一週間、ブリジットは体調を崩して寝込んだ。エルバートは彼女の側を離れることが出来なかった。
そしてレオノーラの見舞いに行く機会を失ったのだった。
*
アールはレオノーラの遺体と対面した途端、閉じ込めていた感情が堰を切ったように溢れだし狂ったように泣き叫んだ。
やせ細って蒼褪めた肌。けれどその表情は安らかで美しく静謐だった。彼女の苦しみは終わったのだろうか。死が彼女を苦しみから解放したのだろうか。
魔女の呪いが解け、自分が忘れていた大切な想いが蘇る。それは胸を掻き毟りたくなるような激痛を齎した。
アールの慟哭に誰もが驚愕に目を見開いて振り返った。
「殿下、俺は…」
取り返しのつかない過ちを犯した。それは自分のせいだと分かっていた。けれど救いようがないことに、半分はエルバートのせいだと思わずにはいられなかった。
(なんて愚かで醜い…)
自分のことを心底軽蔑する。それと同時にどうしてもエルバートを赦せない身勝手な自分も無視できない。
「…もう、殿下のお側にはいられません…」
苦しくて苦しくて仕方がない。エルバートはアールにとって救世主であり、尊敬すべき主で、とても大切な人だった。それなのに憎くて仕方がない。いつかこの手でエルバートを殺してしまいかねない。
泣きながらそう言うアールに、エルバートは言葉を返せなかった。
アールはその日の夜を境にふっつりと姿を消した。その後の消息を知る者は誰もいない。




