039
「お嬢さま、こちらのドレスは如何ですか」
「え?今日は特に予定もないしドレスは着ないわ」
突然侍女がドレスを着ろと言い出したことにアデレイドは怪訝そうに首を傾げた。
「折角ローランドさまがいらっしゃるのですから、お見せしてはいかがかと…」
「な…ローランドの前でドレスなんて着ないわ!」
アデレイドは真っ赤になって拒否した。その反応に侍女は唖然とした。そこまで拒絶されるとは予想外だった。
(なんでですか、他の方の前では平気なのにローランドさまの前では恥ずかしいのですか。それはローランドさまが特別ということですか)
聞きたいことは山ほどあるが侍女の立場ではそこまで踏み込むことは憚られる。
「そうでしたか、それは失礼いたしました。では、こちらを…」
ぐっと堪えて次善の策として、レースとフリルをあしらった薄桃色の可愛らしい上衣を提示する。シンプルなシャツに侍女が改造を施した逸品だ。
「女の子っぽくならない?」
心配そうに言うアデレイドに侍女は生真面目な表情で首を振った。
「いいえ、全く。このくらいはお洒落紳士の嗜みです。アデレイドさまも紳士の中の紳士を目指すのならば、これに挑むべきです」
侍女の力説にアデレイドはそういうものなのかと思った。なんにしろドレスよりは抵抗がない。
アデレイドに改造上衣を着せることに成功して、侍女は内心ぐっと拳を握りしめた。
薄桃色の絹のシャツにレースとフリルをあしらった上着は大変華やかで可愛らしく、それを着たアデレイドはどこからどう見ても女の子にしか見えない。それなのに下衣はズボンという不可思議さ。けれどその不可思議さが得も言われぬ魅力を引き出していた。
(うーむ、男の子か女の子か分からない神秘性、というか……これは悪くない…どころか、むしろいい)
短い髪には耳元に小花を挿してみてはどうだろう。侍女は脳内で完璧にアデレイドのコーディネートをシミュレーションしていた。
「アディ、その服似合ってる」
「あ、ありがと」
ローランドに開口一番褒められてアデレイドははにかんだ。
ローランドは事前に侍女からメモを渡されていた。
『ローランドさま、本日のお嬢さまのお召し物がお気に召されたのなら「可愛い」は禁句です』
可愛いと言ってしまったら二度と着てくれなくなる。ローランドはその忠告に従うことにした。
侍女は心の中でローランドに詫びた。
(今回もお嬢さまにドレスを着せることに失敗して申し訳ありませんローランドさま…。次回は必ずや…!!)
多分ローランドが来ると知っていればアデレイドはドレスを着てくれないので、今後は予告なしにアデレイドにだけ秘密でサプライズ来訪してもらうしかないなと侍女一同は思った。
***
ローランドのデシレー邸滞在二日目は二人で遠乗りに出かけることにした。
護衛としてハロルドも随行する。
「ハロルドさん、これも持って行ってね」
屋敷の者たちは誰もハロルドがバラクロフ家の者だとは知らないため、気軽に用事を頼んでいた。ハロルドも下僕に徹しているので言われるがままに侍女から昼食の詰まったバスケットを受け取り馬の背に括り付けている。
アデレイドは複雑な気分だった。
(いいのかしら…。ハロルドはバラクロフの御曹子なのに…)
アデレイドの視線に気付いたハロルドは素早く近寄ると片膝をついた。
「何かご用でしょうか」
「…ううん、何もないわ」
アデレイドは曖昧に微笑むとひらりと馬に跨った。幼い頃から乗馬を嗜んでいるので慣れたものだ。
ローランドも素早く馬上に上がると手綱を取った。
「行こうか」
アデレイドは頷き、迷いを振り切るように元気よく飛び出した。
屋敷の広大な敷地を囲む森を抜けてその先の湖まで草原を駆け抜ける。風を切って走るのは気持ちがいい。
アデレイドとローランドは並んで、時折視線を交わしながら競争するように早駆けした。
アデレイドは気分が高揚してくるのを感じた。
湖に着くころにはくたくただった。でも身体の奥底から笑いがこみ上げてくる。
ローランドとアデレイドは瞳を見交わすと、どちらからともなく笑い出した。
「ローランド早すぎ」
「アディだって」
ぜいぜいと荒い息を吐く二人の後から余裕の表情で到着したハロルドが黙々と昼食の準備をしてくれている。
差し出されたお茶を受け取ると一気に飲み干した。
「ありがと、ハロルド…」
彼に下僕をさせていいのかなどと考える余裕など今はなかった。ただ有難くお茶を受け取ると、ハロルドはにこりと嬉しそうに微笑んだ。
アデレイドとローランドは一緒に走ってみてハロルドの手綱捌きの素晴らしさに感服していた。
「ハロルド、今度は前を走って。お手本にしたいの。帰りはゆっくり走らせましょう」
「景色を楽しむ余裕なかったからね」
ローランドも苦笑交じりに言った。
昼食を食べ終えた後、二人は軽い午睡を取った。アデレイドが目覚めるといつの間にか草花で作られた花冠を被っていた。起き上がると側に座っていたローランドが眩しそうに目を細めてアデレイドを見つめた。アデレイドはなんとなく気恥ずかしくなってローランドの背中に背中を合わせて座った。
「アディ」
ローランドが、つんとアデレイドの髪を引っ張る。
アデレイドがそっと振り返ると、ローランドもこちらを見ていた。思わず笑声が零れた。
「ローランド!湖行こう」
立ち上がってローランドの手を取ると、ローランドも笑って立ち上がり、二人は仲良く手を繋いで湖へと歩いた。
靴を脱いで湖に足を浸すと冷たくて気持ちがいい。
アデレイドはパシャパシャと水を跳ね上げた。水滴が陽光に反射してきらきらと光る。
「アディ、落ちるよ」
「落ちないよ」
心配性のローランドにアデレイドは笑った。こどもじゃあるまいし。
でも過保護なローランドは納得しなかったようだ。アデレイドの後ろに座ると腹部に腕を回してしっかりと固定されてしまった。
「これで安心」
「……ローランド、暑い」
アデレイドが文句を言ってもローランドの腕が緩む気配はない。
「…もう、心配し過ぎ」
抗議しつつも、その口調は柔らかく声には笑いが含まれている。伊達に超過保護な兄たちに囲まれて育っていない。このくらいの過保護っぷりは通常仕様の範囲内なのだ。
帰りはゆっくりと馬を走らせ、景色を楽しみながら屋敷へと戻った。夏草の香りを胸いっぱいに吸って、青い空と緑の草原を目に焼き付ける。遠くに野兎が見えた。ローランドに目配せして指をさすと、ローランドは頷いて微笑んだ。
翌日はチェスをした。ローランドは強い。だがアデレイドが劣勢になると、眉根を寄せて懇願するようにじっとローランドを見つめて来るので、思わず手加減してしまうのが常だ。だから勝敗は今のところ五分。そんな二人の様子を見守っていたハロルドは吹き出しそうだった。ローランドはとことんアデレイドに甘い。けれどそれがなんとも微笑ましかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。
ローランドがレイ領に帰る日が来てしまった。その後は学院に戻るので、また会えるのは半年後の新年の休暇のときだ。
アデレイドは淋しくなってしまった。朝からぴったりとローランドの側に張り付いて離れない。三日間たっぷりと二人で遊んだが、全然足りない。ローランドの顔を見上げると困ったように微笑まれた。
ローランドは張り付いてくるアデレイドが可愛くて堪らなかった。出来ることならこのまま側に居たい。ままならない現実に溜息を飲み込んで大きな紫紺色の瞳を見つめて約束する。
「手紙、書くよ」
アデレイドも頷いてなんとか笑みを浮かべた。
「…楽しみにしてる。…私もいっぱい書くね」
*
昼過ぎ、ローランドの迎えが到着した。
馬車から小柄な少年が降りてきた。
「紹介するよ。彼が僕の従者のジャレッド」
アデレイドは少年を見つめて愕然とした。少しつり目の水色の瞳と髪、白い肌に華奢な体躯。アデレイドはこの少年を知っていた。
後ろにいたハロルドも息を飲んだ。
アデレイドはジャレッドの水色の瞳から目を逸らせなかった。ジャレッドも息が止まってしまったかのように微動だにしない。
「…アディ?」
均衡を破ったのはローランドだった。怪訝そうな声にアデレイドはパッと振り向いた。
アデレイドの瞳から視線が逸れた瞬間、ジャレッドはズキッと頭痛がして、目が霞んだ。
「……?」
そして糸が切れたようにその場に頽れた。
「ジャレッド!」
ローランドが叫んで、アデレイドはもう一度ジャレッドに向き直った。倒れたジャレッドを呆然と見下ろす。
すぐにハロルドが動いてジャレッドを抱き上げていた。
「アデレイドさま、一先ずこの者を寝台へ運びます」
アデレイドは我に返って頷いた。
「そうね…、医師を呼んで診察を」
ハロルドは小さく頷いて足早に屋敷の奥へと姿を消した。
ローランドも後を追う。アデレイドは動けなかった。




