032
ジェラルドとセドリックがグランヴィル公爵邸から学院に戻った頃から、第三王子オズワルドの影がすっかり見えなくなった。
あれ程纏わりついていた王子が全く近寄って来ない。どころか、姿さえ見かけない。敢えて避けられている節もある。少し拍子抜けするほどだ。
(サイラスさまが何かしたのか?)
もしそうなら、サイラスの力はやはりすごいとジェラルドは思った。
何にしろ、有難いことだった。これで穏やかな学院生活を取り戻せる。とはいえ、気は抜けない。一番の問題はアデレイドが十三歳になった時だ。セドリックは最上級生として在籍しているが、自分はもう学院を卒業している年だ。直接守ってやれない。今は大人しくなった王子も、アデレイドと会えばどんな非道な権力乱用をするかわかったものではない。セドリックやローランドだけでは荷が重いだろう。ジェラルドは協力者が必要だと感じた。
(サイラスさまは学生じゃないしな…)
いざという時に学院内で対処できる味方が欲しい。それもアデレイドと王子の在籍が重なる期間、側で守れるようにセドリックの学年以下の者。王子が卒業するまででいいので、最良は王子やローランドと同学年の者だ。欲を言うなら王子に対抗できるようになるべく高位の者だが、そんな者がいるだろうか。
ジェラルドは在籍している貴族の子女たちの名簿を手に入れる必要があるなと思った。
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その令嬢はイライラしていた。
(もう、なんですの!お父さまったら!わたくしの結婚相手を勝手に…)
腹の底から怒りが湧いてくる。令嬢は目の前に憎い相手でも見えているかのように殺気を浮かべて拳を前方に繰り出し、足を高く蹴り上げた。
(こうしてこうして、こうですわ!!)
長いドレスをたくし上げて見事に蹴りが決まった、と思った直後。
すこんと靴が飛んでいった。
(あ…)
そこは学院の敷地内にある少し丘になった高台で、学院を一望出来る見晴らしの良い憩いの場だ。令嬢は失念していたが前方は下りの階段だった。ココンと靴が落ちていく音が聞こえる。
令嬢は片足で立ちつくした。
(ぐぬぬ…どうやって取りに行けと言うの)
するとこつこつ、と靴音がして、階下から誰かが階段を上って来た。令嬢は呆然とその人物を見つめた。
淡い白銀色の髪は柔らかそうな猫毛でゆるく波打ち、切れ長の瞳は空の青を映したように明るく澄み渡っている。青年の手には令嬢の靴が恭しく載せられていた。
青年は令嬢に目を留めるとにこりと笑んだ。
「貴女の靴ですか?お嬢さん」
(ジェラルドさま――!!)
青年は令嬢の憧れの人・ジェラルド・デシレーだった。
(靴だ…)
スコンと何かが飛んできた、と思って振り返ったら思わぬ物が落ちて来た。華奢な可愛らしい靴。
ジェラルドは飛んできた靴を持って階段を上がった。そこには片足立ちの令嬢が大きく目を見開いて立ち尽くしていた。
令嬢はブルネットの髪に碧の瞳の少し勝気そうな少女だった。令嬢はジェラルドを見た途端、真っ赤になった。
(靴を他人に触られて恥ずかしいのだろうな)
ジェラルドは素早く置いて退散しようと思った、のだが。
「は、履かせてくださる?」
令嬢はつんと横を向いたまま、命令するようにジェラルドに足を突き出した。
その横顔は赤く染まり、つんとしているのにどこか可愛らしい。ジェラルドは気位の高い姫君は一人では靴を履けないものなのかもしれないなと思った。
ジェラルドは令嬢がよくずっと片足で立っていられるものだな、と変なところに感心しながらその場に跪いた。
「どうぞ、お嬢さま」
片手で軽く令嬢の足首を取り、もう片方の手に載せた靴を履かせる。ところが、ジェラルドが令嬢の足首を取った瞬間、令嬢はぐらりと揺れた。
「あっ…」
咄嗟に後ろに倒れそうになった令嬢の手を引っ張り、ジェラルドは令嬢を抱き留めた。
「…お怪我は?」
令嬢は突然のことに動揺しているのか、ジェラルドにしがみついたまま答えない。抱きしめていたので、密着した身体から令嬢の鼓動が伝わってくる。とても速い。そっと身体を離すと、令嬢の顔が真っ赤に染まり、瞳が泣きそうに潤んでいた。令嬢は力が入らないのか、その場に座り込みそうになった。先ほどは片足で立っていたのに。ジェラルドはどこか怪我をしたかなと思った。令嬢の膝裏に手をやり、ふわりと抱き上げる。
「怪我をされたようですね。寮までお連れしましょう」
令嬢は目を見開いて呆然としていた。何が起きているのか分からない、というように。
「ああ、申し遅れました。私はジェラルド・デシレー。デシレー子爵家の嫡男です」
「…クリスティーナ・ウィンストンですわ…」
名乗りには名乗りを、という脊髄反射で答えたクリスティーナに、ジェラルドはふわりと笑った。
「ウィンストン伯爵のご令嬢でしたか。では、月の寮ですね」
ジェラルドが歩きはじめ、クリスティーナははっとした。
「ジェラルド・デシレー!お、降ろしなさい、無礼者!」
ジェラルドは片眉を上げた。本当に降ろしてもいいんですか?と言いたげに。クリスティーナは顔を真っ赤に染めたまま睨むようにジェラルドを見据えている。ジェラルドはそっとクリスティーナを地に降ろした。が、クリスティーナは足に力が入らないようですとんと落ちそうになる。ジェラルドは無言でクリスティーナを再び抱き上げた。
クリスティーナは顔を真っ赤にしたまま唇を噛んでいる。屈辱だと言わんばかりに。
クリスティーナは憧れのジェラルドにお姫様抱っこされている現状に心臓がどうにかなってしまいそうだった。
(誰か助けて)
そもそも、なぜジェラルドに靴を履かせてしまったのか、自分。
クリスティーナは思っていることと口に出す言葉が一致しない、ひねくれた己の性格を恨んだ。
靴を持って来てくれたジェラルドに礼を言うつもりだったのだ。それが何故高飛車に「履かせろ」になるのか、自分でも分からない。
(何を口走っているのわたくしは――!!)
気付いた時にはジェラルドが跪き、己の足首に彼の手が触れていた。
「―――!!!」
クリスティーナは動揺した。
(あ、足、触られてる…)
くらくらして身体が傾いだ。倒れそうになったところをジェラルドに引っ張られ、あろうことか彼の胸の中に抱きしめられた。
(~~~~~~!!??)
クリスティーナは何が起きたのか本気でわからなかった。意識が飛んでいる間に、いつの間にか抱き上げられていた。
それ以来、身体に力が入らない。立てない。でも恥ずかしくて死にそう。
本当はこう言うつもりだった。
「ジェラルドさま。わたくし、怪我などしておりませんわ、歩けます!」
なのに何故か「降ろしなさい、無礼者」になってしまった。
(なんでですの!?わたくしの莫迦!!憧れのジェラルドさまになんて暴言を!!)
しかも立てずに、もう一度ジェラルドに抱き上げられてしまった。足に全然力が入らないのだ。というか、腰が抜けたといった方が正しいかもしれない。
大人しくジェラルドに寮まで運んでもらうしかないようだった。クリスティーナはジェラルドに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
(せめて、これ以上余計なことを言わないようにしましょう…)
クリスティーナは唇を噛みしめて己を律した。




