031
突然平伏してアデレイドの下僕になりたいと言い出したハロルドに、アデレイドは元より、トマスも唖然としていた。
涙目になるアデレイドに、ハロルドは平伏したまま静かに告げた。
「…アデレイドさま。お人払いを」
アデレイドはハロルドを見つめた。彼は平伏しているので顔が見えず、その心のうちは読み取れない。けれど何か大事なことを言おうとしているのだと感じた。
「…トマス、外へ出ていて」
トマスの目を見てしっかりと頷くと、トマスは戸惑いを浮かべつつも、小さく頷いて扉の外へ出て行った。
アデレイドがハロルドに視線を送ると、それを感じたのか、ハロルドが口を開いた。
「…アデレイドさま。私は貴女に償わなければなりません」
「…え?」
唐突な謝罪に、アデレイドは瞬いた。
「…お察しの通り、私はクライヴ・バラクロフの生まれ変わりです」
アデレイドは息を飲んだ。
「前世の貴女に酷いことをしました。取り返しのつかない過ちを犯しました。それは謝っても赦されることではない。…それでも、私は今この世で貴女に出会えたのならば、謝りたい。償いたい。…ですからどうか、私を貴女の下僕としてお使いください」
アデレイドは一瞬気が遠くなりかけた。
ハロルドがクライヴの生まれ変わりだということはそれ程驚かなかった。容姿がクライヴそのものだったからだ。けれどそのことをハロルドが自らさらけ出し、アデレイドがレオノーラの生まれ変わりであることを知っていることや、その上前世のことで償いをしたいと言い出したことに驚きを隠せなかった。
クライヴ・バラクロフ。ブリジットに心を奪われ、レオノーラをエルバートから遠ざけた男。――その生まれ変わり。
アデレイドは訝しむように眉根を寄せた。今更誤魔化したところでハロルドが引き下がるとは思えなかった。だからレオノーラの生まれ変わりであることを否定しなかった。
「…貴方はあの人を好きだったのでしょう。あの人の想いを守るために、あの人の盾になった。ならばそれは、貴方にとっては正義の行いだった。レオノーラにとっては妨害だとしても、立場や考え方が違えばそれは仕方のないことだと思うわ。貴方は殿下の忠実な臣下でもあったのだし。でもそれはもう過去のことよ。…前世のことで償う必要はないわ」
今更償ったところで、もう遅いのだ。
それにレオノーラはクライヴに対して憎んだり恨んだりといった感情を持ってはいなかった。彼の立場なら主の意向に忠実に従わざるを得なかっただけで、レオノーラを憎んで妨害したわけではないのだろうと分かっていた。クライヴに妨害されたといっても乱暴なことをされたり何か酷いことを言われたわけではなかったから。
ただ彼は壁のようにレオノーラの前に立ち塞がった。彼女がそれ以上進めないように。その先にいる二人の姿を見せないように。
それはある意味、レオノーラへの気遣いとも取れた。仲睦まじいエルバートとブリジットを見て、レオノーラが傷付くことのないようにと。
ハロルドは伏したまま静かにアデレイドに問うた。
「……私がお側に居ては、ご不快ですか」
アデレイドは首を横に振った。
「…そうではないわ。…ただ私は、…いえ、レオノーラはクライヴ・バラクロフが酷いことをしただなんて思っていないから、気にしなくていいのよ」
「いいえ。それでは私の気が済みません。……どうか私をお側に」
引く様子のないハロルドに、アデレイドは途方に暮れた。
アマンダが部屋に入ったとき、そこに広がっていた光景は困り顔で立ち尽くすアデレイドと、床に額を付けて平伏する御者の姿だった。
「…アデレイドさま?御者殿が何か不始末を?」
アマンダが心配そうに問うてきた。アデレイドは緩く首を横に振った。
「…ハロルド。お願いだから立って」
「お命じください。私は貴女の下僕です。私を不要だとお思いなら、そう仰ってください。貴女の御役に立てないのなら、私は生きている意味がない。今すぐこの場で命を絶ちます」
「何を言っているの!冗談でもそんなこと言ってはダメ!」
アデレイドは思わず気色ばんだ。だがハロルドは動じた様子もなく、平伏したままだ。
「…申し訳ございません。ですが冗談で言ったわけではございません。…どうか、私を下僕としてお側に置いてください」
梃子でも動かない様子のハロルドに、アデレイドは為す術もなく彼の下僕志望を受け入れざるを得なかった。
「…立ちなさい、ハロルド。償いたいというのなら、自分の命を軽んじてはダメ。私はそんなこと、望んでいない」
強めに命じると、ハロルドは従った。ハロルドは身体を起こすと片膝をついて頭を垂れた。
「…承知しました。我が身と忠誠はすでに貴女のもの。貴女の御言葉に従います」
そう言って立ち上がると、ハロルドは爽やかに笑んだ。命じられて嬉しいとでもいうように。
アデレイドは複雑な気持ちになった。
ハロルドに、償う必要などないと言っても聞き入れなかった。これは本人の罪悪感の問題で、例えアデレイドが赦すと言っても本人が納得しなければ罪悪感は消えないのだろう。だからといって立派な騎士であるハロルドを自分の下僕にするのは抵抗があった。だが、本人が満足そうに笑うのを見て、アデレイドはまあいいかと受け入れることにした。
(ハロルドの気が済むまで、主のフリをすればいい)
彼の主は本来ならば王族だ。彼は償いを終えたらきっと真の主の元へ行くだろう。それでいい。
斯くしてアデレイドは最強騎士を下僕に従えてデシレー領へ帰郷するのだった。
*
ハロルドはアマンダを尾行していた男を雇っていた者のことが気にかかっていた。
後の処理はもう一人の御者に託してあるので自分は結果を待つことしか出来ない。
男の雇い主はグランヴィル公爵家を張っていたようだった。
(本当にただの令嬢の暴走なら、別にかまわないが)
サイラスに憧れている令嬢は山ほどいる。本人の魅力もさることながら、王族に次ぐ身分の高さに惹かれないはずがない。
ただし彼女らにアデレイドのことが露見することは避けたかった。要らぬ嫉妬や理不尽な逆恨みをされかねない。無論自分がアデレイドの側に居るのはそういった輩から彼女を守るためなので、盾になることは当然だが、彼女の心を徒に哀しませたくはなかった。
ハロルドはレオノーラの死後にエルバート王子が後悔したこと、ブリジットが魔女で彼女への想いがまやかしによるものだったことをアデレイドに告げるつもりはなかった。今生にエルバートがオズワルドとして生まれ変わっていることも。
それを告げるのはオズワルド自身であるべきだったし、それ以上にアデレイドには自由に生きて欲しいと思っていたからだ。
選ぶのは彼女だ。
何も知らずに亡くなったレオノーラは苦しんだことだろう。苦しめてしまった事実は消せない。エルバートがオズワルドとして蘇り、レオノーラを探していることを告げればレオノーラの苦しみは消えるかもしれない。けれど同時に、アデレイドはエルバートを赦してしまうのではないかと思えた。そしてオズワルドに見つかれば、アデレイドは間違いなく囚われる。
それをアデレイドが望むのならば構わないが、そうでなければ見つかるわけにはいかない。
アデレイドはまだ幼い。そのため今はレオノーラの記憶が大きく、彼女の意志よりもレオノーラの想いに振り回されてしまうこともあるだろう。もう少し彼女が大人になって自分の意志で未来を掴みとれるようになるまで、ハロルドは猶予を与えてやりたいと思っている。
ハロルドはサイラスからアデレイドが今はまだ『エルバート』に会いたくないと言ったことを聞いていた。ならばハロルドはその意向に従うまでだ。オズワルドがどんなに望んでもアデレイドが望まない限り二人を会わせない。だがアデレイドが望むなら、サイラスがどれ程妨害しようともオズワルドと会わせようと思っている。
アデレイドの気持ちを最優先すること。
レオノーラの気持ちを顧みず、盲目的にブリジットに従ったために死なせてしまった少女への、それがハロルドの償いだった。
手紙で知らせていたとはいえ、予定より二日遅れで帰郷したアデレイドを両親は嬉しそうに出迎えた。ぎゅっと抱きしめて心配したと言った。アデレイドは泣きそうになりながらも笑顔でただいまと言った。
ハロルドはサイラスより預かった伝言と手土産をデシレー夫妻に手渡した。
「我が主がアデレイド嬢を引き留めてしまい、ご両親殿にはご心配をおかけし申し訳なく思うとのことでございました」
両親は恐縮した。グランヴィル公爵家の次期当主に謝られるなど畏れ多い。そもそもアデレイドがグランヴィル公爵家の次期当主に気に入られたことや、お屋敷にお世話になっていたことも驚天動地の出来事だった。
しかし両親はさらに驚愕した。ハロルドがアデレイドの下僕として側に付くと宣言したからだ。
「これは我が主たっての希望です。無論私の給金や生活費などはグランヴィル公爵家が負担しますのでご心配なく。アデレイドさまの執筆活動の補助をするようにとの仰せでございます」
ハロルドは、サイラスがアデレイドの小説に惚れ込み、その後援者として密かに応援したいのだと説明した。両親は唖然としたが、アデレイドが苦笑いを浮かべつつも頷き、ハロルドに帰る気がないことを知ると、受け入れざるを得なかった。
(うちの娘は台風の目かもしれない…)
自分たちがしっかりとこの子を守ってやらなければ、と改めて気合いを入れる両親だった。




