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「……クライヴ・バラクロフ……」
アデレイドの口から零れ落ちた名前に、ハロルドは僅かに身体を震わせた。
アデレイドは呆然と目の前に跪く男を見つめた。ハロルドは己の腕を掴んだままだったアデレイドの手をそっと外した。
「…貴女の御目を汚すつもりはありませんでした。陰ながらお守りせよと主にも命じられていたというのに、申し訳ございません」
ハロルドが退室しようとしたことに気付いて、アデレイドは我に返った。
「待って。どういうこと?陰ながらって…」
アデレイドは混乱していた。エルバートの護衛を兼ねた側近だったバラクロフ家の御曹子、クライヴにそっくりの容貌。ハロルドは前世の記憶を持っているのだろうか。アデレイドのことをどこまで知っているのだろう。
(バラクロフ家の末裔?…でもそれなら、王家の近衛師団長を務める家柄だから、グランヴィル公爵家の使用人として仕えているのはおかしい…)
「…貴方は、バラクロフ家の人間?」
アデレイドの問いに、ハロルドは視線を下げた。
「……そうです。ですが私は個人的にサイラスさまにお仕えしています」
アデレイドは目を見開いたままハロルドを凝視していた。
ハロルドは断罪を待つ咎人のように項垂れていたが、不意に顔を上げると、意を決したように言った。
「…ですが、どうか今この瞬間から、私を貴女の下僕にしてください」
「……………………………。………え?」
アデレイドはハロルドが何を言ったのか理解するまで、数拍必要とした。
*
クライヴ・バラクロフは一人の少女に心酔していた。紅い髪に紅蓮の瞳の、美しい少女。けれど少女が見つめる相手が自分ではないことも理解していた。だから想いを秘めた。
その少女がある日言った。それは偶然が重なり、クライヴと少女が二人きりになったときだった。
エルバートの婚約者が学院に入学してくる。エルバートの想いが自分にあることはわかっているが、婚約者という立場は絶対だ。自分は婚約者に排除されかねない、危うい立場だということ、エルバートの気持ちがいつ変わるか分からない、変わったとしても文句を言えない不安定な身分であること。
少女が切々と訴える心細さを、クライヴは黙って受け止めた。少女を守ってあげたいと思った。だから婚約者の少女が王子に近付けないよう、自ら盾になろうと思った。そうすることで、紅髪の少女を守れると思った。
実際、クライヴの行動で、婚約者の少女・レオノーラは王子に近付くこともままならなくなった。そしてそれは即ち、紅髪の少女を守ることになった。紅髪の魔女――ブリジットの思惑通りに。
*
ハロルドは目の前に呆然と佇む少女――アデレイドを見上げた。
白銀の髪は短いけれど美しく、紫紺の瞳は宝石のよう。レオノーラにそっくりの少女。
サイラスの態度から、この少女はレオノーラの魂を持っているのだろうと察していた。そして先ほど少女が自分の前世の名を口にしたことで確信に至った。だとすれば、自分はこの少女に償わねばならない。
レオノーラが亡くなった後、クライヴは取り返しのつかない過ちを犯したことに気付いた。王子の悲嘆や公爵家の家族や使用人たちの沈痛な面持ちを見て、何かがおかしいと感じた。こんなはずではなかった。決定打はレオノーラの死を知ったブリジットが口の端に笑みを浮かべたことだった。
クライヴの愛する少女は、例え恋敵といえどもその死を嘲笑うような少女ではないはずだった。
霧が晴れたように、急速に視界が開けた。だが時はすでに遅し。
クライヴはレオノーラに申し訳なく思った。
記憶に浮かぶレオノーラは凛とした、真っ直ぐな心根の美しい少女だった。一途に王子を想い、誇り高く、誰にも屈さない芯の強さを持っていた。ただ一人、彼女の芯を折ったのが王子だった。
その責任の一端は自分にもあるとクライヴは思った。
思えばレオノーラは、ブリジットに嫌味なことを言ったり、王子との逢瀬を妨害したことはなかった。それをしたのはむしろブリジットだった。正当な婚約者である彼女にこそ、その権利があったのに。
何故自分はそのことに気付けなかったのか。気付けていれば、何かが変わったかもしれないのに。
ただ恐らくブリジットにとって誤算だったのは、レオノーラの死が、ブリジットに安寧をもたらすのではなく、むしろすべてを暴くきっかけになってしまったことだろう。
*
ハロルドの記憶が蘇ったのはオズワルドと対面した瞬間だった。バラクロフ家の末子としていずれオズワルドの近衛に配属されることになっていたハロルドは十二歳になった年に王宮へ上がり、幼いオズワルドと対面した。
その容姿を見た瞬間パチンと何かが弾けるように記憶が蘇った。この頃のオズワルドはまだ幼く、前世のことなど何も知らないことはすぐに理解できた。ハロルドは前世の記憶のことは誰にも告げずに自分の胸にしまった。
ハロルドは学院でサイラスに出会った。サイラスを一目見て、思わず「ジュリアン・グランヴィル」と呟いて、サイラスに転生者であることを見抜かれた。それと同時にハロルドもサイラスが転生者だと悟ったのだが。
思わず呟いてしまったのは、自分の罪をサイラスに裁いて欲しかったからかもしれない。ジュリアンにそっくりな彼にならそれが出来ると思えた。冷たく自分を断罪するあの瞳の持ち主ならば。
以来、ハロルドはグランヴィル家への償いの気持ちからサイラスに仕えてきた。そんなハロルドをサイラスは黙って側に置いてくれた。ハロルドが覚悟していた奴隷のような扱いはされなかった。そしてハロルドはそんな自分を恥じた。グランヴィル公爵家の方々は、憎い相手に対してさえ高潔に接するのだと思い知った。そしてジュリアンがどれ程レオノーラを大切に想っていたかを知った。
グランヴィル公爵家に今も残される当時のままのレオノーラの部屋。それを見るたびにハロルドは自分の罪を自覚する。ハロルドは一生をサイラスへの償いに捧げようと思った。その気持ちには罪の意識だけでなく、サイラスへの尊敬の念もあった。
けれど目の前にアデレイドがいるなら話は別だ。彼女こそ、彼が最も償わねばならない相手なのだから。
「貴女の下僕になりたい」
もう一度言われて、アデレイドは動揺した。先ほどと微妙にニュアンスが違う気がする。
(下僕って何…。というか、なんで!?)
「おそらくサイラスさまが私を貴女の護衛に付けたのは、そのためなのでしょう」
ハロルドは一途にアデレイドを見つめて言った。アデレイドはわけが分からなかった。
「いえ、バラクロフ家の方に護衛をして頂く必要は…」
代々王族を護衛してきた家柄で爵位は侯爵だ。子爵よりずっと上位だ。というか、別にアデレイドは命を狙われているわけでもないし、誘拐される恐れもない。護衛が必要な身分ではないのだ。
「護衛ではなく、下僕です。何なりとお命じください」
いつの間にかハロルドは両膝を揃えて座り、両手を床について深々と頭を下げていた。
「バラクロフさま!顔を上げてください」
アデレイドはぎょっとしてハロルドの肩に手を掛けた。ハロルドは顔を上げない。
「ハロルド、と。貴女が私を僕としてくださるまで、私はここを動きません」
(えええ!?どうしたらいいの)
アデレイドは泣きそうになった。




