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もう、恋なんてしない  作者: 桐島ヒスイ
第一部

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31/98

029


 学院に入学したレオノーラを待っていたのは、悪夢のような日々だった。


 エルバートとブリジットは仲良く腕を組み、微笑み合っていた。それは日常の光景で、学院内では既に知らぬ者はいないようだった。


「エルバートさま」

 声が震えるのを意志の力で抑えてなんとか呼びかけると、王子はレオノーラを一瞥し、苦々しそうに表情を歪めた。

「すまないが、私はこの学院に在学している間は彼女と過ごしたい。君とはいずれ婚約を解消する予定だ。君に落ち度はない。ただ、私が彼女を愛しただけだ」

 それだけ言うと、エルバートはブリジットを連れて並木道の向こうへと消えて行った。立ち去る間際、ブリジットの唇が微かに弧を描いたことにレオノーラは気付いた。けれど、王子の言葉が胸に深く突き刺さって、それどころではなかった。



***



 エルバートは誕生日の夜会の時にブリジットをエスコートしようとしたが、流石にそれは周りの者に止められた。レオノーラとの婚約解消も発表したかったのだが、父王に許してもらえなかった。

 その代わりに、夜会でレオノーラと踊るはずだったダンスをすっぽかした。

 レオノーラも体調不良だったため、それはむしろ好都合だった。胸はナイフで抉られたように痛んだけれど。


 夜会の始まる前、こっそりとエルバートの部屋を訪れたレオノーラは見てはいけないものを見てしまった。

 蒼白な顔でふらふらと控室に戻って来たレオノーラに、侍女は表情を強張らせた。慌てて公爵夫妻を呼び、レオノーラを屋敷に帰せないか訊ねてみる。

 公爵夫妻はレオノーラの顔色に驚いたが、王子に挨拶もせずに帰すわけにはいかなかった。

「レオノーラ、殿下にご挨拶だけ出来るね?ダンスは無理にしなくてもいい」

 父親に言われて、レオノーラは頷いた。


 結局、王子は控室には現れず、レオノーラは会場で王子と対面することになった。

 レオノーラの胸は鉛を詰めたように重かった。息がうまく出来ない。王子の声が頭の中に木霊する。

『婚約は解消する』

(あれは…どういう意味?あの人は誰…?)

 何かの間違いであってほしい。だが王子は控室に来てくれなかった。それが既に答だと分かっているのに、手違いがあったのだと思い込もうとしている自分に、レオノーラは苦く笑った。

 会場に入ると、公爵一家の登場に場が華やいだ。

 まだ滅多に公の前に姿を現さない公爵家の一人娘・レオノーラの姿を見ようと人々が押し寄せる。

 可憐な容姿のレオノーラに、人々はうっとりと目を細めた。そんな中、射るような視線を感じてレオノーラは背筋を震わせた。

 壁際から睨むような視線を送っていたのは、真紅の髪に紅蓮の瞳の美しい令嬢だった。

(あの方…)

 王子と一緒にいた女性だと、すぐに分かった。


 公爵家は真っ先に王家の元へ案内された。

「殿下、御成人のお祝いを申し上げます」

 公爵である父がエルバートに丁寧に挨拶するのを、レオノーラはぼんやりと見ていた。エルバートは、公爵の後ろに立つレオノーラの顔色の悪さに目を見開いた。

「レオノーラ…?酷い顔色だ。こちらへ」

 エルバートは立ち上がってレオノーラの手を取ると、自ら座っていた椅子を勧めた。

 レオノーラはエルバートが自分を心配してくれていることに、泣きそうになった。

(エルバートさま…)

「申し訳ございません、殿下のお祝いの日なのに…」

「いや、気にしなくていい」

 エルバートはレオノーラから目を逸らして眉根を寄せた。レオノーラの気のせいかもしれなかったが、その瞳には罪悪感が滲んでいるように見えた。

(やはりあれは何かの間違い…)

 レオノーラがそう思ったとき、王子の侍従がすっと近付いて来た。

「殿下、これを」

 手には一輪の紅い薔薇。エルバートはそれを見た途端、ふらりと立ち上がり、歩き出した。

「殿下…?」

 レオノーラの声にも振り返らず、会場内を見渡して、何かに気付くと笑顔を浮かべた。そして真っ直ぐ壁際へと進む。

 エルバートの視線の先には先ほどレオノーラを睨み付けてきた真紅の令嬢がいた。薔薇のように、華やかな女性。女性というにはまだ若いかもしれない。だが少女というには既に彼女は大人びた色気を帯びている。

 会場中が騒めいた。王子が笑顔で話しかける令嬢に、視線が集中する。


 エルバートはそのままブリジットと踊った。夜会の始まりを告げる、ファーストダンスを。



***



 学院の並木道をぼんやりと見つめたまま立ち尽くすレオノーラに近付いて来る者がいた。水色の髪と、水色の瞳の少しつり目の青年、アール・ラングリッジ。エルバートの侍従だ。少し苛立たしそうに目を細めている。

「いつまで待っても、殿下は戻りませんよ」

 青年はそれだけ言うと、踵を返した。





「殿下のことは、諦めたほうがいい」

 短い黒髪と切れ長の榛色の瞳の長身の青年がレオノーラの前に立ちはだかった。クライヴ・バラクロフ。エルバートの護衛を兼ねた側近だ。代々近衛師団長を排出する武門の名家、バラクロフ家の青年に睨まれれば、その迫力に、並の者ならば逃げ出すか、その場で腰を抜かすかのどちらかだ。クライヴは忠告というよりは威圧するようにレオノーラを見下ろしていた。

 レオノーラの顔は蒼褪め、僅かに震えていたけれど、毅然と顎を上げてクライヴを見据えて言った。

「ご忠告ありがとうございます。…ですが、わたくしの気持ちはわたくしのものです。誰に何を言われようと。…失礼します」

 そうして引き攣りそうになりながらも精一杯笑顔を浮かべると、踵を返した。





「やぁ、レオノーラ姫。ご機嫌は如何かな」

 このところ毎日のように出くわす男に、レオノーラは内心溜息を零した。

 男は長い深緑の髪を結わえもせず、無造作に遊ばせ、制服の上には黒いマントを羽織っている。黒いマントは聖堂院の聖職者、それも上位の者にだけ許された装束だ。

 男の名前はメイナード・ビショップ。神が造形したのではないかというほど完璧に整った美貌はともすれば冷たく見えがちだが、メイナードの口元には常に甘い微笑が浮かび、人懐っこい雰囲気を醸し出していた。だが油断をすると一目で魅入られてしまいそうな危うさもある。エメラルドグリーンの瞳には艶やかな色気があった。上級生とはいえ、まだ十七、八歳のはずだが、レオノーラにはそれより十歳は上に見える。

 メイナードは主に四年生以上のお姉様方から絶大な人気を誇る。聖職者という禁欲的な存在でありながら、彼には女性の影が絶えない。歩くだけで色気を振りまき、見つめられればそれだけで恋に落ちる、との専らの噂である。

 学院が創設されたのはエルバート王子が十三歳になる直前で、それより年上の者も十八歳以下ならば学院に入学する資格を与えられた。彼らは王子とお近付きになるために在籍期間は短いと知りつつもこぞって入学したのだった。メイナードもそんな一人である。

 彼は十五歳で入学した当初から凄絶な色気を放ち、同級生よりも年上に人気の高い存在だった。それは基本的には上級生になった今も変わらず、むしろ卒業したお姉さま方や既婚のご婦人からの人気が高く、メイナード自身も同年や年下にはあまり興味を示さなかった。今までは。

 何かの冗談なのか嫌がらせなのか、彼は現在レオノーラにご執心のようだった。それは瞬く間に学院中に知れ渡り、レオノーラは嫉妬と好奇の目に晒されている。

「ビショップさま。わたくしには婚約者がおりますので、他の殿方とは婚約者のいないところでお話をするつもりはありません」

 メイナードは口の端に笑みを刷いた。彼に夢中なら舞い上がってしまいそうな場面だったが、レオノーラには皮肉気に見えた。婚約者に捨てられたレオノーラを嘲る冷たい微笑。

「貴女の婚約者は他の女性に夢中のようですよ。貴女だけが義理立てする必要もないのでは?」

 レオノーラの顔が一瞬泣きそうに歪んだ。けれど、ぐっと奥歯を噛みしめて、堪える。

「…わたくしは義務でそうしているわけではございません。…失礼します」

 レオノーラが通り過ぎようとすると、メイナードは進路を阻むように立ち塞がった。身体を屈めて、レオノーラの耳元で内緒話のように囁く。

「つれないですね。でも一途で誇り高い。そんな貴女だからこそ、私は貴女に惹かれるのです。貴女を振り向かせたい。覚悟してくださいね、姫。私は本気ですよ」

 そう言って身体を離すと、色っぽく微笑んだ。

(…嘘つき)

レオノーラは眉を顰めて、無言でメイナードの脇を足早に通り抜けた。





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