028
アデレイドを乗せて、馬車は木立の中から街道へと戻り、来た道を引き返した。ハロルドは置き去りだ。
しばらくすると、先ほど通り過ぎた小型の辻馬車が戻って来た。馬車は街道に横たわる倒木を前に急停車した。小太りな御者が文句を言いながら御者台を降りた。ハロルドは素早く小太りな男に近付くと、声をかけた。
「手伝おうか」
小太りな男はびっくりしたようにハロルドを見た。
「あんた、どこから…、あ、馬車に乗りたいのかい?悪いが今回は貸し切りで」
「客は何人だ?」
「一人なんだけどね」
それを聞くやいなや、ハロルドは素早く馬車の扉を開いて中に乗り込んだ。中にいた男はびっくりしたようにハロルドを凝視した。
「な、なんだよ。今日は俺の貸し切りだぞ」
男は細身の、どこにでもいるような平凡な顔立ちだった。裏の人間が持つ特有の荒んだ雰囲気もない、ごく普通の若者だった。ハロルドは少し拍子抜けした。
(…殿下の手の者ではないな)
尾行がばれるくらいだから手練れではないと思ってはいたが、それにしてもここまで相手が素人だとは思わなかった。
「…なぜ、馬車を追っていた」
ハロルドが端的に問うと、細身の男はびくっと肩を揺らした。
「…な、なんのことだ」
ハロルドは口元に笑みを浮かべた。しかしそれは獰猛な笑みだった。
「素直に言えば見逃してやるものを。…痛い目を見たいのか?」
男は震えあがった。
「ちょっとした小遣い稼ぎだったんだ!公爵家に出入りする女を見張れっていう…」
「…女?」
「ああ、どっかの令嬢が、公爵家の貴公子に惚れているらしい。で、女の影がないか、調べているみたいだった」
「…おまえが追っていた女は…」
「なんか家庭教師みたいな感じの…。完全に家庭教師だと思うから、そんな警戒する必要ないと思うんだが、全部調べろって言われて…」
男の言葉を聞いて、ハロルドは考えこんだ。
(目を付けられたのは、ノックス殿か。一先ずは安心だが、ノックス殿を調べれば現在デシレー家に雇われていることはすぐに分かる。それはまずい…。本当に依頼主はサイラス様に懸想した令嬢か…?)
ハロルドは顔を上げた。
「…おまえを雇った者がおまえに払うと言った金は幾らだ」
「…80ルクスだけど」
「倍払う。だからおまえはもうこの仕事はやめろ。…でなければ、おまえの命はここで終わる」
男は蒼褪めた。ハロルドが本気だと、本能が悟った。
「…わ、わかったよ。もうやらねえ」
ハロルドは頷くと、もう一つ男に要求を突きつけた。男は頷かざるを得なかった。
ハロルドは辻馬車の小太りな御者とともに路上を塞ぐ倒木を除けると、行き先を指示した。
王都とアデレイドたちが向かう予定だった街を繋ぐ街道の、中間よりやや街寄りの地点で、グランヴィル公爵家から遣わされたもう一人の御者が馬を駆ってハロルドと合流した。
「お嬢様たちは」
「宿に入って頂きました。貴方が戻るまでは出ないよう、言い含めてあります」
「わかった。後は頼む」
「承知しました」
二人の御者は短い言葉を交わすと、入れ替わるように逆方向へ、それぞれ向かった。
ハロルドは御者が乗って来た馬で隣町まで駈けた。アデレイドのことが心配だった。宿にいるとはいえ、尾行者の存在があったため、気が気ではなかった。
一方、アデレイドもハロルドのことが気にかかっていた。いくら腕に覚えがあるからといって、もしも尾行者が大人数だったらどうするのだ。本人の言葉を鵜呑みにして丸投げしてしまったことを後悔していた。
(大丈夫かな…。やっぱり一人で残すべきじゃなかったのかも)
そのため、数刻後に無事現れたハロルドを見て心底ほっとした。アマンダは遅くに到着したハロルドのために、宿の主に何か食べるものを分けて貰ってくると言って部屋を出て行った。トマスはほっとしたように笑みを浮かべると、瞳を輝かせて期待の籠った眼差しをハロルドに向けた。悪党を捕まえた話を聞きたくてうずうずしているようだ。
「ハロルド!…無事でよかった」
アデレイドが嬉しくてにっこりと微笑むと、ハロルドはふらりとよろめくように跪き、片手で顔を覆い、感極まったように言った。
「…勿体無いお言葉…。この身には過ぎたお心遣い、恐悦至極に存じます」
アデレイドはハロルドの大仰な物言いに苦笑した。
「心配するのは当然でしょ。顔を上げて」
アデレイドがハロルドの腕を取ると、ハロルドはびくりと身動ぎした。
「…ハロルド?」
アデレイドが名を呼ぶと、ハロルドは顔を伏せた。
「……私は、貴女に心配して頂く価値などない人間です」
アデレイドは驚いた。
「…何を言っているの?」
「…どうかお手を触れませんよう、私のことは影とお思いください」
アデレイドは愕然とした。ハロルドが何を言っているのか理解できない。
ハロルドが身を引こうとしたので、はっとしてハロルドの腕を掴んでいた手に力を込めて阻止する。
「ハロルド。顔を上げて。私を見て」
アデレイドは強く言って、ハロルドが被っていた帽子を剥ぎ取った。ハロルドの肩が強張った。
「…お願い」
アデレイドが懇願すると、ハロルドは逡巡したが、一瞬強く目を瞑ると、そろそろと顔を上げた。
短い黒髪に、榛色の瞳。精悍な顔立ち。
「―――」
アデレイドは言葉を失った。その顔に見覚えがあった。けれどそれは、今生のことではない。もっと遠い昔、レオノーラの頃。
「……クライヴ・バラクロフ……」
溜息のように唇から零れ落ちた名前は、アデレイドの記憶の中で苦い味がした。




