025
アデレイドがあと二日グランヴィル公爵家に滞在することを了承したのは、少なからずアマンダに休暇を取らせたいという気持ちがあったためだ。
(先生は元々あと二日休みを取って王都のご家族やお友達に会う予定だったのだものね)
だから今度こそ気兼ねなく休暇をとって欲しいとアマンダに告げた。
昨夜、アマンダが公爵邸に戻った時には、アデレイドは体調不良ということで部屋に籠っており、サイラスも早々に自室に引き上げてしまったため、アマンダは従僕のトマスと二人で使用人部屋での夕食会となった。
アデレイドはそのこともアマンダに申し訳なく思っていた。
(折角サイラスさまと再会したというのに、あまりお話出来ていないみたいだし)
尤も、その点については、アマンダはグランヴィル公爵邸にお泊りさせて貰えただけでも十分だと言った。サイラスはアマンダにとって学院の憧れの王子様で、まさかこんな風に卒業後、仲良くして貰えるとは思ってもいなかったのだ。
(それはアデレイドさまのお蔭なのですけどね)
学院時代のサイラスは笑わない氷の貴公子として有名だった。そんな彼が一人の少女の前ではこんなにも優しく笑うのだと知って、アマンダは衝撃を受けていた。おそらくアデレイドはサイラスが笑うのは別に特別でもなんでもなく、当たり前のことだと思っているのだろうが、昔はとても近寄りがたい雰囲気だったのだ。アマンダは夢でも見ているのではないかと疑っているくらいだ。
夢だとしても眼福なものを見ることが出来た。
だからアマンダとしては既に休暇以上のものをアデレイドから貰っていると思っているのだが、アデレイドが気にかけてくれていることを知ったので有難く受け取ることにした。
「わかりました。ありがとうございます、アデレイドさま」
翌朝、アマンダは実家に顔を出すと言って屋敷を後にした。アデレイドは泊まってくるといいと伝え、アマンダとは明日合流して一緒に領地へ帰ることに決めた。
*
サイラスはアデレイドに、王都中どこにでも案内すると言った。けれどアデレイドは首を横に振った。
(もうここに来ることはないだろうし)
「このお屋敷で、ゆっくりしたいです」
アデレイドがそう告げると、サイラスは嬉しそうに微笑んだ。
「そうですね。ここは貴女の屋敷でしたから」
三百年前と変わらない屋敷。懐かしいけれど、今はもう自分の家ではない。目に焼き付けるようにアデレイドはゆっくりと屋敷を見つめた。
変わらないように見えて、内装は補修が施されている。同じ壁紙を張り替えているが、当然当時とは別物だ。
(私と同じだ。レオノーラと同じ容姿、同じ記憶があっても、もうレオノーラじゃない)
細かった木が立派な大樹に育ったように。何もかもが同じではない。そのことをサイラスは本当に理解しているだろうか。
でもそれはアデレイドも同じだった。
(私も、サイラスさまにジュリアンを重ねている…。本当は全然違う人のはずなのに)
どうしたって、気を許してしまう。懐かしいと感じてしまう。
「アディ?気分が優れませんか?」
サイラスが心配そうに自分を見つめていることに気付いて、アデレイドは笑顔を浮かべた。
「大丈夫です。ちょっと考え事を」
今日のアデレイドは菫色のドレスを纏っていた。仕立屋が超特急で仕上げたドレスだった。折角作って貰ったので、アデレイドはそれを着ることにしたのだった。髪にはドレスと同じ布で作ったリボンを編みこんであり、可愛らしく整えられている。侍女たちの技術と労力と執念の賜物だ。
サイラスはアデレイドが微笑んだことに安心したようにふっと目元を和ませた。
「アディ。屋敷の中は三百年前とほとんど変わっていませんが、増えた物もあるのですよ」
サイラスはアデレイドを書室へと誘った。
そこには圧倒的な量の本が並んでいた。
「わぁ…」
アデレイドの瞳がきらきらと輝いたのを見て、サイラスは頬笑んだ。アデレイドは振り返って、サイラスが愛し気に自分を見つめていることに気付いて赤くなった。思わず顔を伏せてしまう。
(サイラスさまは時々、どうしていいかわからない目で私を見る…)
サイラスはそんなアデレイドの戸惑いすら可愛いとでもいうように柔らかく微笑んでいた。
「アディ。何か読みますか?古い文献などもたくさんありますから、貴女の執筆の参考になると思いますよ」
それは魅惑的な申し出だった。
さらに、いくらでも好きなだけこの屋敷に滞在して構わないというサイラスに、アデレイドはくらくらした。
(でも、そういうわけには。いくら前世でグランヴィル家の娘だったとはいえ、今は赤の他人だし。甘えてはダメ。…それに帰らないと父さまと母さまが心配する)
アデレイドは意を決して顔を上げ、サイラスを見つめた。
「……サイラス。サイラスが私に優しくしてくださるのは嬉しいです。でも私はもうレオノーラじゃない。…だから、グランヴィル家にこれ以上お世話になるわけにはいきません」
サイラスは少し驚いたように目を見開いた。そして真摯にアデレイドを見つめた。
「…勿論、貴女はレオノーラじゃない。でもレオノーラの生まれ変わりだ。…私は、貴女に幸せになってほしい。幸せにしてあげたい。だから、グランヴィル家が援助を申し出ることは仕方のないことだと諦めて受け入れてください。貴女が気兼ねする必要は全くありません。これは私の我儘だと分かっています。ですがジュリアンの願いだったのです。ジュリアンのためだと思って、許してください」
サイラスの表情はどこまでも優しかった。
ジュリアンのことを持ち出されるとアデレイドは弱い。それでサイラスの気が済むのなら、と頷くしかなかった。
「…ありがとうございます、サイラス」
サイラスはもどかしそうに眉根を寄せた。
「アディ。もっと普通に話してください。私に敬語を使う必要はありません。兄君たちと話すときのように。私は貴女ともっと親しくなりたいのです」
「兄と同じように、ですか?でも」
アデレイドは戸惑った。サイラスは麗しく微笑んだ。
「あるいはジュリアンに対するレオノーラのように。…ですが、私は貴女の兄や弟になりたいわけではありませんよ?」
サイラスは悪戯っぽく微笑むと、跪いてアデレイドの片手を取り、指先にそっと口付けを落とした。
「!」
その時、ごほごほん、と咳払いが響いた。
「トマス、大丈夫?」
アデレイドは後ろを振り返って従僕に声をかけた。それと同時にその場に漂っていたどこか甘い空気が霧散した。
トマスはアデレイドの背後に立つサイラスから放たれる冷たい空気に慄いたが、己の責務は果たした、と満足だった。
(やっぱり、サイラスさまは危険です、ジェラルドさま…!!)
サイラスはトマスを睨み付けながらも、そっとアデレイドの様子を窺った。彼女の心が知りたかった。
トマスは二人から少し離れた位置にいるので話の内容は聞こえていないはずだが、サイラスは先ほどよりも声をひそめて、逡巡しながらもゆっくりと、慎重に言葉を紡いだ。
「アディ。………もしも、……エルバート王子ともう一度会えるとしたら…会いたいですか…?」
エルバートの名に、アデレイドの胸がドキリと震えた。
(会いたい?……わからない)
けれど、思考は凍り付いたようにそれ以上考えられない。
レオノーラは最期までエルバートのことが好きだった。幼い頃に出会い、お互いに淡いながらも好意を寄せていたはずだ。エルバートがブリジットに出会うまでは。
人の気持ちは変わるのだと、アデレイドは学んだ。
アデレイドにはもう、エルバートに対してレオノーラと同じ気持ちはない。けれど冷たい仕打ちをされた記憶がアデレイドの心を凍り付かせている。
「今は…まだ、会いたいとは……思わないです」
もう少し大人になったら、笑って許せるようになるのだろうか。そんなことを思って、ふと我に返り、苦笑する。
どちらにしろ既に終わった話だ。エルバートはいない。
そこでアデレイドは一つの可能性に思い至った。
(…本当に?)
アデレイドはサイラスを見つめた。…ジュリアンの記憶を持ち、そっくりの容姿で生まれ変わったサイラス。そしてそれは自分も同じ。
(では、エルバート王子も…生まれ変わっている可能性がある…?)
アデレイドの強張った表情を見て、サイラスは柔らかく微笑んだ。
「……あくまで『もしも』の話ですよ。勿論、『エルバート王子』はこの世にいません。…貴女が会うことはあり得ませんし、会いたくないと思うのは当然ですね」
心なしか嬉しそうに言うサイラスに、アデレイドはほっとした。エルバートがこの世にいないことになのか、会いたくないことを否定されなかったことになのか、その両方なのかは自分でも分からなかった。
「アディ、変なことを聞いてすみませんでした。…お茶にしませんか?居間に行きましょう」
サイラスは気分を変えようとするように朗らかに微笑むと、アデレイドを促した。




