019
黒の髪染を洗い落とされ、アデレイドの髪は元の白銀色に戻っていた。
用意されていたドレスは、朝採寸されたばかりとは思えない出来映えだった。
アデレイドが驚いていると、侍女が教えてくれた。
「あの仕立屋は公爵家がずっと懇意にしているお店で、歴代の公爵家の方々の型紙をずっと保存してくれているのですけど、お嬢様のお身体のサイズが丁度昔の同じ年頃のお嬢様のものと一致したのですわ。その型紙で作ってあったドレスを急遽持って来てもらったのです」
そういうことだったのか、とアデレイドは納得した。歴代の公爵家の方々はスタイルが良いため、店の見本用にその型紙を使うこともあるのだとか。
侍女が見繕ったドレスは、薄桃色で裾がふわりと広がった可愛らしいデザインのものだった。ハイウエストで切り替えしがつき、太めのリボンが巻かれている。あちこちにレースとビーズがあしらわれ、きらきらしている。
(あー…、レオノーラが好きそうなデザインかも)
レオノーラは大人っぽい外見の割に、可愛らしいデザインが好きだったのだ。
アデレイドはこのところずっと男の子の格好でいたため、ドレスというだけで「華やかだな」と思ってしまう。こんなにピンクの可愛らしいドレスは、見ただけで目がチカチカする。
(でも、まぁ…。折角用意して頂いたものだし)
大人の対応と無我の境地でドレスを纏う。すると侍女たちから歓声が上がった。
「まぁぁ、可愛らしいですわ」
「花の精のようですね」
「デビューが楽しみですわねぇ。社交界の花になるのは間違いありませんわ」
「…ありがとう」
アデレイドは曖昧に微笑む。
アデレイドはこの先成長しても、夜会などに出るつもりは全くなかった。恋をするつもりがないのだから当然だが、ずっと少年姿で過ごしたため、最早ドレスを着るのが億劫なのだ。とんだ弊害だった。既にアデレイドは枯れ枯れの残念美少女だった。
(ドレスって窮屈だわ…。靴も小さくて走り辛いし。あぁ早く屋敷に戻って寛ぎたい…)
そんな残念なことを考えながら部屋を出て、階段に向かうと下の広間に正装した兄たちがいた。
「兄さまたち、格好いい。サイラスさまにお借りしたの?」
階上からアデレイドが瞳を輝かせて言うと、兄たちは破顔した。
「それは俺たちの台詞だ。アディ、可愛いよ」
アデレイドははにかんで、ゆっくりと階段を降りた。踊り場に着くと、兄たちの後ろから現れたサイラスと目が合った。
「レオノーラ…」
声は小さすぎてよく聞こえなかった。サイラスは金縛りにあったかのように動きを止めて、アデレイドをじっと見つめている。
アデレイドはサイラスの紫苑色の瞳から透明な涙がゆっくりと流れ落ちるのを、時間が止まったようにただ、見つめた。
(サイラスさま…)
アデレイドの視線を追って、兄たちもサイラスの異変に気付いた。
ジェラルドとセドリックが振り返っても、サイラスはアデレイドを見つめたまま涙を流し続けた。
アデレイドは駆け寄ろうとして、自分が今踵の細い靴を履いていたことを思い出したが、遅かった。
(あ、しまった――)
前日、ひったくりの泥棒に足を引っかけた際、打ち身になっていたことも災いした。足に力が入らない。
カクンと階段から足を踏み外して、体が宙に舞う。
すべてがゆっくりと止まって見えた。
凍り付いていたサイラスの身体が一瞬にして動き、落ちて来たアデレイドの身体を受け止めた。
ジェラルドとセドリックはサイラスの方を向いていたため、動くのが一瞬遅れた。二人が振り返った時、どさりと音がしてサイラスがアデレイドを抱き留めたままその場に座り込むところだった。
「アディ、――サイラスさま!ご無事ですか」
「だ、いじょぶ…」
どこも痛くはない。
アデレイドがサイラスに抱きしめられたまま兄たちに笑ってみせると、ジェラルドとセドリックはほっと息を吐いた。
ジェラルドが跪いてサイラスの肩に手を置くと、サイラスは一瞬肩を震わせて、ぎゅっとアデレイドを抱きしめ、その首元に顔を埋めた。
「サイラスさま…」
サイラスはアデレイドを離さない。その身体は震えており、伏せられた瞳からは止めどなく涙が溢れているようだった。
ジェラルドは途方に暮れた。セドリックも困惑した表情で兄と顔を見合わせた。
アデレイドは迷ったが、そっと腕を伸ばしてサイラスの頭を撫でた。
「サイラスさま…私は大丈夫です。…泣かないで」
ふっとサイラスの腕から力が抜けた。サイラスは顔を上げてアデレイドを見つめた。そこにいることを確かめるように、必死に。アデレイドはなんだか彼が幼い迷い子のように見えた。彼の方がずっと年上なのに。
「サイラスさま、ありがとう、助けてくれて」
アデレイドは、ゆっくりと何度もサイラスの頭を撫でた。彼が落ち着くように。彼が落ち着くまで。
どのくらいそうしていたのか。
サイラスの瞳が確かにアデレイドを捉えた、ような気がした。
「……………アディ?」
零れ落ちた、小さな声。
「はい」
アデレイドが応えると、サイラスはじっと見つめて、ぽつりと言った。
「……あまり、驚かせないでください……。心臓が、止まるかと思いましたよ…」
「…ごめんなさい」
アデレイドが謝ると、サイラスは震える手でアデレイドの頬を包んだ。
「怪我は…?」
アデレイドが首を横に振ると、サイラスはほっとしたように頬を緩めた。
「サイラスさまは?…怪我をしませんでしたか?」
アデレイドが恐る恐る訊ねると、サイラスは微笑んだ。
「私は大丈夫ですよ」
「よかったぁ…」
アデレイドは緊張した反動で、一気にふわっと心が軽くなり、嬉しくてにっこりした。その笑顔にサイラスは瞠目した。
「レオ、ノーラ…」
掠れた小さな声。でも今度は近くにいたのではっきりと聞き取れた。アデレイドの顔が強張った。
(…え?)
表情の硬くなったアデレイドに、サイラスは己の失態を悟った。
サイラスは取り繕うように笑顔を浮かべた。
「…アディ、すみません。貴女のドレスを台無しにしてしまいましたね。着替えましょうか」
そう言って素早くアデレイドを抱き上げ、侍女を呼ぶ。そのまま階段を上がり、アデレイドの部屋へと連れていく。
アデレイドはされるがままだった。先ほどのサイラスの言葉が頭の中に木霊して、うまく考えられない。
(レオノーラ、と言った…?)
そっと寝台に降ろされて、気付いた時には既にサイラスはおらず、侍女たちが心配そうにアデレイドの顔を覗きこんでいた。
「お嬢様、ご気分が優れないようでしたら、お休みになられますか?」
アデレイドは途方に暮れたような、泣きそうな表情だった。幼子のようにこくりと頷くと、侍女たちは優しく頭を撫でてくれた。
「大丈夫ですよ、すぐお兄様方が来てくださいますから」
テキパキとドレスを脱がせ、肌触りのよい夜着を着せてくれる。
程なくして侍女たちは退室し、すぐに兄たちが駈け込んで来た。
「アディ、具合が悪いのか?」
「やっぱりどこか怪我を?」
先ほどは大丈夫だと笑っていたが、サイラスの手前、無理をしたのかと心配する兄たちに、アデレイドは緩く首を振った。
「怪我はしてない…。でも、疲れた…。兄さま、ぎゅってして」
アデレイドがあまりにも心細そうな表情だったため、ジェラルドは眉根を寄せたが、無言で両腕を広げた。
アデレイドは兄の胸に抱き付いて背中に手を回した。ジェラルドはぎゅうっとアデレイドを抱きしめた。
「…どうしたんだ?さっきのアディはちょっとお姉さんみたいだったのに」
ジェラルドはちょっとからかうように言った。
「今は赤ちゃんに戻っちゃったみたいだな」
セドリックも寝台に腰かけて、アデレイドの頭を撫でてくれた。
アデレイドは全身の強張りが抜けていくのを感じた。
やっぱり兄の腕の中は安心する。
「心細いとき、兄さまにぎゅってされて、頭を撫でてもらうと、落ち着くの」
だからサイラスにもそうした。
「…心細いのか?」
「…わかんない」
(今は何も考えたくない)
言いながらしがみついてくる妹に、ジェラルドは微笑んだ。
「いいよ、今夜は一緒に寝てやる」
だから安心してお休み、と言ってジェラルドは、アデレイドのつむじにキスを落とした。
「兄さん」
深夜、アデレイドが眠りについたあと。
アデレイドを真ん中に挟んで両側からそれぞれ手を握り、空いた片手であやすようにアデレイドの頭を撫でていたセドリックは兄に声をかけた。
「ん?」
ジェラルドは片肘をついて手を頭に当てると、横に向き直った。
「サイラスさまのことだけど…」
「…あぁ」
ジェラルドは数刻前のサイラスの様子を脳裏に思い浮かべた。アデレイドが階段から落ちた時、サイラスは蒼白になっていた。
ジェラルドだって一瞬心臓が止まるかと思った。だがサイラスの様子は尋常じゃなかった。彼はアデレイドを失うことを心底恐れているようだった。
「どうもまだ何かありそうな気がするな…」
「でも、信用できると思う」
セドリックの言葉に、ジェラルドは渋々ながらも頷いた。
「まぁな…」
アデレイドへの執着が異常な気はするが、アデレイドの気持ちを踏みにじるようなことはしないだろうと思えた。
「…僕は、アディを預けても、…いいと思う」
「……………………」
ジェラルドは答えなかった。セドリックもそれ以上は口を開かなかった。




