012
グランヴィル公爵邸は王城から馬車で約十五分という立地にありながら閑静な地区で、周りは森のような木々に囲まれ、街中の喧騒とは無縁だった。
アマンダは出版社との打ち合わせがあるため街中で別れ、後から来ることになっている。従僕のトマスは宿に預けた荷物を回収しに行ってくれている。
トマスは泥棒に奪われたアマンダの手提げ袋を回収しておいてくれた。泥棒はサイラスの従者が警吏に引き渡し、他の人からひったくった手荷物も、それぞれ本人に返却されたのだった。
そういうわけで現在、公爵家の立派な馬車にはサイラスとアデレイドの二人きりだった。
アデレイドは先ほどきちんと名乗らなかったことを思い出し、自分の格好を見つめて躊躇った。
(今更、子爵令嬢ですと言っていいものか…)
こんな風に、高位の貴族と知り合うつもりは少しもなかったのだ。貴族同士となれば名を偽るわけにもいかない。そんな葛藤を見透かすように、サイラスは助け舟を出してくれた。
「…そのお姿は、お忍びで来られた、ということですか?まさか家出ではないですよね?」
悪戯っぽく笑うサイラスに、アデレイドは赤面しつつも話に乗ることにした。
「ええと、家出ではないです。お忍び、です。王都とついでに学院の取材に」
「学院?」
サイラスの眉がぴくりと動いた、ように見えた。
「…誰かに会いに?」
「違います、別にローランドに会いに来たわけじゃ…」
「ローランド?」
サイラスは予想していなかった名前を聞いた、というように目を瞠った。
アデレイドは、はっとして真っ赤になった。余計なことを言った気がする。語るに落ちるとはこのことだ。だがもう遅い。
アデレイドは言葉が足りなかったことに気付いて、慌てて付け加える。
「…はい、幼馴染みの親友です。学院に入学してしまったので、暫く会っていなくて――」
「…ローランド・レイ。レイ子爵家の跡取りか…」
アデレイドは驚いた。サイラスがローランドのことを知っているとは。アデレイドが驚いたことに気付いたのか、サイラスはくすりと笑った。
「…貴族の名前はすべて、頭に入れているのです。アデレイド・デシレー嬢」
「…!!」
とっくにバレていた。赤面するアデレイドに、サイラスは優しい微笑を向けた。
「そのお姿でも、貴女はとても可愛らしい。今回のような長旅では、少年姿のほうが身の安全を守れるでしょう。恥ずかしがる必要はありませんよ」
サイラスの眼差しは柔らかく、どこか懐かしむように細められていた。アデレイドは戸惑った。まるで本当にジュリアンのよう。
(ジュリアンによく似ている。ジュリアンが大人になったら、こんな風になっただろうな)
レオノーラよりも年下だったジュリアンはまだ十二歳だった。だがきっと、彼が立派に公爵家を継いだのだろう。
(あ、さっき助けてくれたのに、まだお礼言っていなかった)
アデレイドはやっとそのことに気付いた。サイラスの容姿に心が騒いで何も考えられなかったのだ。
「サイラスさま。先ほどはありがとうございました」
そう言うと、サイラスはちょっと表情を陰らせた。
「…もうあんな無茶はいけませんよ。いくら少年の格好をしていても、貴女は可愛い女の子なのですから」
アデレイドは神妙に謝った。確かに無茶をしてしまった自覚がある。サイラスがいなければ、確実に殴られていた。アデレイドが心底反省している様子だったので、サイラスは少しほっとしたように微笑んだ。
「着きましたよ、アデレイドさま」
馬車が止まり、扉が開く。サイラスは先に降りて、アデレイドに手を差し伸べた。その動作は優雅で滑らかだった。
束の間、アデレイドの思考はレオノーラの記憶に塗り替えられた。ジュリアンに手を取られるレオノーラのように、アデレイドは何の躊躇もなくサイラスの手を取っていた。
馬車を降り立ってから、はっと我に返る。
「あ、ありがとう、ございます」
ぎこちなく礼を言うと、サイラスは花が綻ぶようにふわりと微笑んだ。その笑顔に、出迎えていた使用人たちは驚いた。サイラスが笑うことは滅多にない。ましてや、少年相手になど。
だが、使用人たちは少年の容姿に気付くと、さらに驚いた。公爵家の家族が過ごす居間に、その顔にそっくりの少女の肖像画が飾られているのだ。客人を通さないその部屋に入ることが出来るのは、公爵一家と使用人のみ。
肖像画の少女は代々公爵家の当主が大切にしてきた、秘められし令嬢だった。少女の悲恋の話は代々当主に受け継がれている。
使用人たちはこの肖像画の少女が何者なのかはよく分からなかったが、公爵家が大切に想っていることは知っていたため、馬車から降りて来た少年に対して居住まいを正した。
サイラスはその様子に満足したように頷く。
アデレイドは懐かしい屋敷を見上げて泣きそうになっていた。そのため使用人たちの様子には気付かなかった。
(ああ、変わっていない…)
「こちらへ、アデレイドさま」
サイラスに促されて、アデレイドは後に続く。
「あの、サイラスさま。私のことはアデレイドでいいです」
「それなら、私のこともサイラスとお呼びください」
にこやかに返されて、アデレイドは困った。サイラスは公爵令息だ。年齢も自分より上だ。呼び捨ては出来ない。
「それは。サイラスさまは目上の方ですし」
アデレイドがそう言うと、サイラスは少し残念そうにしながらも、引き下がった。
「どうかご自分の屋敷と思って自由にお過ごしください」
サイラスは微笑んでアデレイドを応接室に誘導した。出迎えた執事に「彼女のことは私と同様に扱うように」と、念を押していた。執事はそこで初めてアデレイドが少年ではなく少女だったことに気付いたが、驚くよりむしろ納得したように頷いていた。
出会ったばかりでよく知らない相手に破格の厚遇だ。アデレイドは戸惑った。友好的にされる覚えがない。アマンダの主人ということで気を遣ってくれているのだとしたら、アマンダとは相当な仲良しなのだろうか。
アデレイドの戸惑いに気付いたのか、サイラスは微笑んだ。
「…昔、貴女によく似た従姉妹がいたのですよ。だからとても他人とは思えなくて」
「……」
アデレイドは胸を衝かれた。従姉妹。過去形。まるで本当にレオノーラとジュリアンのよう。そんなはずはないけれど。ドキドキする心臓を押さえ、落ち着けと自分に言い聞かせる。
「アデレイド、貴女の部屋へ案内しましょう」
サイラスはそっとアデレイドの背に手を回して、エスコートする。
左右どちらからでも上れる階段は真ん中の踊り場で折り返して上階へと続いている。天井からは優美な貴婦人のドレスのように幾重にも水晶を連ねたシャンデリアが垂れ下がっている。
アデレイドは眩暈がした。屋敷内は、三百年前のままだった。
「…歴代の当主が古い物を大切にする主義でね。この屋敷の調度品はほぼ三百年間、変わっていないのですよ」
サイラスが苦笑しながら説明してくれる。けれどその瞳は温かく、彼もこの調度品を気に入っているようだった。
「そうですか…」
アデレイドは掠れる声で、なんとか返事をした。




