011
御者に荷物だけ先に宿へ運んでもらって、二人は従僕のトマスと共に通りに降り立った。トマスはデシレー子爵家が治める村の青年で、力持ちの気のいい性格だ。彼も王都は初めてなので、どきどきしながらも、アデレイドを守るように油断なく辺りに気を配っている。
アデレイドは勝手知ったる場所ながらも、三百年というブランクのため、あるべきはずの場所に違う店が建っていたり、通りが整備されて華やかになっているのを見て驚いたり楽しんだりした。
アマンダの打ち合わせの時間が近付いたため、一行は一旦宿へと向かうことにした。その時、歩き疲れて少し意識が散漫になっていたのか、アマンダはどん、と横の通りから出てきた男にぶつかり、転んでしまった。
「先生!」
アデレイドが駆け寄り、アマンダに手を差し伸べようとした時、ぶつかった男は素早くアマンダの手提げ袋を奪って走り出した。
「え…」
アデレイドは何が起こったのかよくわからなかった。男が間違えてアマンダの手提げ袋を持って行ってしまったのかと思った。アマンダが叫んだ。
「泥棒――!!」
(泥棒!!)
アデレイドは我に返った。咄嗟にトマスが男を追って走り出していたため、アデレイドは迷ったが、その場に留まりアマンダに手を差し伸べた。
「先生、大丈夫!?」
アマンダは頷いたが、転んだ拍子にドレスの裾が破けてしまったようだった。
「ど、どうしましょう…ドレスが」
「一旦宿に入って着替えたほうがいいね」
アデレイドはそこが丁度茶店の前だったので、店の従業員にトマスが戻ってきたら宿に行くように言伝を頼むと、アマンダと一緒に歩き出した。
アデレイドとアマンダが宿に入り、着替えを済ませた頃、トマスが戻ってきた。
「申し訳ありません、お嬢さま。泥棒を見失ってしまいました…」
しょんぼりと肩を落とすトマスに、アデレイドは首を横に振った。
「あの人混みじゃしょうがないわ。諦めましょう」
出版社へはアマンダだけが行く予定だったが、泥棒にあったショックで気落ちしている様子だったので、アデレイドも出版社の前まで一緒に行くことにした。
出版社の建物の前まで来ると、流石に気力を取り戻したのか、アマンダは微笑んでアデレイドに礼を言った。
「ありがとうございます、アデレイドさま。気を取り直して打ち合わせ、頑張って来ます」
アデレイドはほっとした。その時、通りの向かい側で女性の悲鳴が響いた。
「泥棒よ――!!」
アデレイドは振り返り、人混みを器用に駆け抜ける男を見た。
(さっきの男!!)
考えるより先に足が前に出ていた。
「アデレイドさま!!」
アデレイドは男の進行方向前方にいた。アデレイドのすぐ脇には細い横道があった。
(トマスは男を見失った。先生にぶつかった時、男は横道から現れた)
だからごく自然にアデレイドは男がこの横道に逃げ込むと思った。
その読みは当たった。男は人混みから逃れるように横道に飛び込んだ。アデレイドは小さく屈んで足を前に出した。男は突然突き出されたアデレイドの足を避けきれず、派手に転んだ。盗んだ鞄や手提げ袋が辺りに散らばる。
(やった!)
アデレイドはアマンダの手提げ袋を拾おうと、男に近付いた。
男は転んだ拍子にすりむいたのか、顔から血を流していた。憤怒の形相で起き上がり、アデレイドを睨む。
(怖!!)
男はアデレイドに殴り掛かってきた。アデレイドは恐怖で動けず、ぎゅっと目を瞑った、その時。ぐいっと腕を引っ張られ、ごすっと鈍い音が響いた。
「!?」
アデレイドが目を開けると、目の前に背の高い人が立ち、アデレイドに殴り掛かってきた男の腹に長い足を蹴り込んでいるところだった。
男は声も出さずに気絶した。
(え)
アデレイドが呆然としていると、目の前の人が振り返った。
「――」
お互い、言葉もなく目を見開いた。
「――サイラスさま!?」
それは一瞬だったのだろう。だが永遠のようにも感じた。動けない二人の呪縛を解いたのはアマンダの声だった。その声に反応した青年ははっとしたように辺りに目をやると、素早くアデレイドの腕を取り、「こちらへ」と言って近くの茶店に引っ張り込んだ。
店の中は通りの喧騒が嘘のように静まりかえっていた。
従業員はサイラスと呼ばれた青年の顔を見ると微笑んだ。
「中庭にお席をご用意しております」
従業員の案内に従って奥に向かうと、建物の真ん中を四角く切り取ったように、中庭が現われた。そこにはガーデン用のテーブルがセットされていた。他に客はいないようだった。
「あの…、手を」
アデレイドが声をかけると、サイラスはアデレイドの腕を掴んだままだったことに気付き、手を離した。
青年が戸惑ったようにアデレイドを見下ろした。青年と目が合った。
アデレイドは青年から目が離せなかった。青年のほうも、驚愕に目を見開いたまま息をするのも忘れたように、食い入るようにアデレイドを見つめている。
青年は白に近い金髪に、澄んだ紫苑色の瞳の、恐ろしく美しい男性だった。二十代前半くらいだろうか。長い髪は背の中程で、瞳と同色のリボンで緩く結わえられている。怜悧な美貌は近寄りがたい雰囲気を漂わせている。
「あの、サイラスさま…?」
緊迫した空気を破ったのはアマンダだった。アマンダは無言で見つめ合う二人を戸惑ったように交互に見つめた。
「どこか、怪我は…?」
サイラスが心配そうにアデレイドを見つめた。アデレイドは先ほどから胸が騒いで、言葉を紡げない。何とか小さく首を横に振ると、青年がほっとしたように目を細めた。
「…この子が、例の?」
サイラスが掠れた声で、アマンダに訊ねた。
アデレイドは僅かに眉根を寄せた。アマンダはこの青年に自分のことを話していたのだろうか?
「アデ…、ええと、サイラスさまにはあなたの小説を出版する出版社を探していただいて、」
アマンダはアデレイドの名を言おうとして、躊躇った。小説の作者としてアデレイドの顔と名前を出すことは禁止だ。なのに、ここでサイラスに会ってしまい、アデレイドの顔を見られてしまった。勿論アマンダはサイラスがこのことを誰かに言いふらすとは思わないが、アデレイドが許可していないのに、顔合わせをしてしまったことに罪悪感を覚えた。
そのことを知ってか知らずか、サイラスはふっと微笑むと、すっと跪いてアデレイドと視線を合わせた。
「初めまして、可愛いお嬢さん。私はサイラス・グランヴィル。グランヴィル公爵家の次期当主です」
アデレイドは息を飲んだ。グランヴィル公爵家の跡継ぎ――。
(彼は、ジュリアンの生まれ変わりかも…)
アデレイドは、サイラスに「お嬢さん」と言われたことにも気付かぬまま、目の前の青年を通して、遠い昔のことを思い返した。
レオノーラには二つ年下の従兄弟がいた。ジュリアン・グランヴィル。白金髪に紫苑色の瞳の美しい少年だった。レオノーラはジュリアンを実の弟のように可愛がっていた。ジュリアンも、レオノーラのことを慕っていた。レオノーラが王子の婚約者に決まってからは、ジュリアンが公爵家の跡取りとして養子に入ることが決まり、よく公爵家へ来ていた。
「…さま、アデレイドさま!」
耳元で、誰かが名前を呼んでいる。
アデレイドははっとして、夢から覚めた心地で横を向くと、アマンダが心配そうに自分を覗き込んでいるのが目に入った。
「あ…、何?」
アデレイドがぼんやりと言うと、アマンダは少し表情を陰らせた。
「具合が悪いのでしたら、一旦宿へ戻りましょうか」
「宿?」
そこへ、第三者の声が割り込み、アデレイドは反射的にその声の主へと視線を向けた。
サイラスがアマンダに綺麗な顔を向けて話している。
「水臭いな、ノックス。宿などと言わずに家に泊まればいいだろう」
「えっ!?」
アマンダは狼狽していた。アデレイドはぼんやりと二人のやり取りを見守っていた。二人は友人なのだろうか。それとも恋人?その瞬間、ふっとサイラスがこちらを振り向いた。サイラスはにこりと微笑んで、アデレイドをじっと見つめた。
「ノックスとは大学院で同期だったのです。大切な仲間ですよ。その仲間に再会したのに宿に泊まらせるなど、できません。勿論彼女の大切な主である、貴女も」
「ええと…」
アデレイドは思わぬ展開に瞬いた。
グランヴィル公爵家の末裔と出会い、その屋敷に招かれた。そこはレオノーラの生まれ育った屋敷だ。懐かしく、行きたい気持ちもあるが、あまりにもレオノーラの思い出が濃い場所だ。
とはいえ、今の自分は子爵令嬢。公爵令息の申し出を断るのも気が引けるが、初めて出会う公爵令息の屋敷にいきなり泊めてもらうのも、どうかと思う。
迷うアデレイドに、サイラスは哀しそうに眉根を寄せた。
「ご迷惑ですか?」
アデレイドはうっと呻いた。この表情はダメだ。
「…久しぶりに会えた仲間と、語りたいことが沢山あるのに、夜しか時間が取れそうにないのです…」
残念そうに言うサイラスに、アデレイドは折れた。
斯くして、一行はグランヴィル公爵邸に泊まらせて貰うことになったのだった。




