無欲な彼の出世欲
「即興小説トレーニング」様で書いた同タイトルの短編小説に加筆修正して投稿しています。
「あ~、だんだん残業がつらくなってきたわ」
仕事帰りに彼氏のタケと待ち合わせて入ったいつもの小料理屋で、首をポキポキ鳴らしながらこぼした。
折角のタケとの出会い記念日だってのに、急な残業のおかげで待ち合わせには1時間遅れる始末。まったくあの使えない課長と来たら……と愚痴りだしたら、タケが口を挟んだ。
「そうだよなあ、沙智ももうアラサーだもんな。体力衰えてきたんだろ」
「なんだと」
目の前で焼き鳥にかぶりついている男をぎりりとにらんでやるが、タケはどこ吹く風だ。そりゃあそうだよね、長いつきあいだもん、慣れちゃったんだな。くやしい。
タケとは入社してすぐにつきあい始めた。同期で同じ部署に配属され、同じ新人なんだから遅れをとっちゃいけないとがむしゃらにやっているうちにライバル認定され、それがいつのまにか恋人に発展していたって言うんだからいったいどこのロマンス小説だよ、ってかんじ。ちなみにタケは誰からも「仕事が出来る男」認定されていて、それと張り合っていた私もそこそこ「使える女」認定されている、おかげさまで。
仕事は忙しいけどやりがいがあって充実してる。そして気心の知れた彼氏がいる。私は今の生活にものすごく満足している。お世辞にも上品とは言えない私の言動ごと寄り添ってくれる男なんて、多分他にいない。
「私がアラサーだって言うならタケだってアラサーじゃん、同い年なんだから。年代的にもこれから昇進とかもかかってくるんだし、体力衰えてる場合じゃないでしょうに」」
「だな。でも確かに俺も徹夜とかつらくなってきた。もうちょっとのんびりやれるとうれしいんだけどなあ」
「だな、って。まったく、他人事みたいに。ほんとタケって無欲って言うかのんびり屋なんだから」
「そうか?」
「そうだよ。出世欲とかないわけ? 30代目前にして昇進したい、とか」
別に出世しろ、とか思っているわけじゃない。でも、彼はいつもこんなかんじで、同期の出世頭が昇進したときも焦りもしなかった。それから日常生活でも無駄に散財するタイプでもなく、デートなんかも自分から「ここに行きたい」って主張することも少なくいつも私が引っ張り回している感じだし、これといってお金をかける趣味があるわけじゃない。本当に無欲なんだと思う。
そのうち悟りを開いちゃうんじゃないだろうか。彼女としてそれはちょっと困るけど。
「昇進、か。――――うん、あるよ、出世欲」
「え、そうなの?」
「ひでえなあ、あるよそれくらい」
笑いながらジョッキに残ったビールを空ける。
「沙智こそ、そろそろ気になってることあるんじゃないのか?」
タケが急に私の目をのぞき込んだ。その顔にどきっとする。いつもの無欲なタケなのに、なんだか目の奥だけが真剣な色を帯びている気がして。
「なによ、そろそろお肌の調子でも気にしろっていいたいわけ?」
それともあれか? ちょっと太ったこと?
むっとしてその目を見返すと、タケは小さくため息を吐いた。
「そろそろ帰ろっか」
「え、もう?」
「ちょっと歩きたい」
タケが伝票を摑んで立ち上がる。私もコートを引っつかんであわてて後を追った。
外に出ると夜の空気は冷たくて気持ちいい。飲んでほてった顔にはちょうどいいけど、ここで油断してコートを脱いで歩いたりすると風邪を引くから理性だけでコートの前をきっちりと締めた。
「沙智、ほら行くぞ」
その手をタケが摑んで、私はタケに引っ張られるまま夜の町を歩き始めた。
「た、タケ?」
どうしたんだろう。タケ、なんとなくいらついてるような気がする。私、なにか怒らせた?
繋いだ手がいつもより痛い。タケの手に力がこもっているのがわかる。
「ねえ、ねえタケ! どうしたのよ急に。なにか怒ってる?」
「怒ってないよ」
声色は確かに怒っているようには聞こえない。でも、私の方を振り向いてはくれない。いつも私を見てくれているタケが、振り向いてくれない。なぜかそれが無性に私の心の奥をひっかいて、ひりつくような焦りが生まれてくる。
「ねえ、タケってば!――――痛い!」
いつになく強い力で手を握られて、思わず悲鳴をあげてしまった。するとタケははっとして手を離した。
「あっ、ごめん。つい」
「――――やっぱりなにか怒ってるんだ?」
「怒ってないよ、本当に。ちょっと考え事してただけで」
「そっか」
なんだ、そうなんだ。ちょっとほっとした。でも、じゃあ今の力一杯手を握られたのは何だったんだろう。
「タケ、ひょっとして何か悩んでる?」
「悩んで……うん、悩んでるな。その、出世のことについて」
「はあ?」
何だろう。昇進の辞令でも出たんだろうか? でもそれにはかなり時期はずれな気がする。
私がわからない顔をしていたんだろう、タケは苦笑してまた私の手を取ると歩き始めた。寒いだろ、なんて言いながら、私がそれを肯定する前に繋いだままの手を自分のコートのポケットに引き込んだ。
タケのポケットの中は暖かくて、でもまるで隠れて手を繋いでいるみたいでどこか恥ずかしい。
「俺さ、沙智、昇進したいと思ってるんだ。でもそのためには沙智の協力が必要なんだ」
歩きながらタケが話し始めた。私は何が言いたいのかわからず、ただ相づちを打つだけだ。でも昇進のために私が協力って、あれかな? 昇進のために社長のお嬢さんと結婚しなきゃいけないから別れて欲しいっていうのかな? だめだ、ロマンス小説の読み過ぎだ。
「協力、してくれるか?」
そのときポケットの中で繋いだ手を離されてドキッとした。まさか、ロマンス小説ばりの妄想が現実だったのか? 離された手は私の不安をあおりまくり、残された手は失ったものを求めてポケットから出すことが出来ない。ただ、小さいポケットの中だからどうしても手と手が触れる。なのに繋がれていない手が無性に辛い。たった今のくだらない妄想が事実なんじゃないか、そんなことする男じゃないってわかってるのにどうしてもそんな不安がわき上がってくる。
けれどその時、タケの指先がポケットの中で何かを探し出し、それを残された手に持たされた。小さくて固い――――これって。
ドクンと再び大きく心臓が跳ね上がった。でも今度は違う意味でだ。
おそるおそる手を引っ張り出して見た、持たされたものは。
「俺を昇進させてくれ。沙智の恋人から――――夫に、さ」
私の手の中で輝く給料3ヶ月ぶんのアレは左手の薬指にぴったりで。
ひょっとして、あれか。小料理屋での「アラサー」とか「出世欲」とか「気になること」とかいろいろ言っていたのは、そういう話だったわけ?
なんて回りくどい男なんだろう。はっきりと言えばよかったのに、そのひとことを言えないばかりにずっともやもやしていたわけか。ということは、店を出てからずっと手を握っていたのも、ポケットに入っていたこれを私に気づかせる作戦を実行できずに緊張していた、と?
もやもやとしていた不安が融けていく。融けた不安は熱い波になって目と鼻の奥を刺激する。そして不安が融けたあとにはとまどいと、そして締め付けるようなせつなさがわき上がってきた。
まったく、仕事はばっちり使えるくせに変な欲がないとかイイ男なのにこういうことはダメダメだ。けれどそんなところもぜんぶひっくるめて私はタケを愛しく思っているわけで。
私はこの無欲な男の出世欲をかなえることを泣きながら約束したのだった。
即興小説トレーニング様でのお題は「求めていたのは結婚」でした。