1 王のいない王国
「誰か、たすけて……っ」
赤々と燃える、炎に包まれた部屋。
少女は、一人泣き叫ぶ。しかし、その悲鳴は無情にも熱風に消えていく。
床に散らばっているのは、お気に入りの人形、読みかけの絵本、開けることを楽しみにしていたプレゼントの山。
それらすべてを、容赦なく炎が飲み込んでいく。楽しかった思い出が、そのすべてが燃えていく。少女の目の前で、それらは灰になっていった。
そして、少女の足元には、先程まで一緒に誕生日を祝ってくれていた母親が倒れていた。
「あなただけは、生きて。この腕輪が必ずあなたを守ってくれ…る……から……――――」
息も絶え絶えになりながら、母親は少女に腕輪を手渡す。
そして、先程まで動いていた母親はもうピクリとも動かなくなった。
「……おかあさま、おかあさま……?」
死んだ、ということがまだ信じられない少女は、ひたすらに母を呼び続けた。どれだけ身体を揺さぶっても、どれだけ願っても、母親は目を開けない。いつも少女に向けていた、あの優しい笑みを向けてはくれない。
もう、炎は目の前に迫っている。
しかし、ショックのあまり少女は逃げる気力を失っていた。
朦朧とする意識の中で、少女は誰かに抱き抱えられ、襲い来る炎から遠ざかるのを感じていた。
* * *
また、あの夢だ。
無意識に頬を伝う涙をぬぐい、ローズはベッドから起き上がる。大きく伸びをして、窓を見た。
空はまだ薄暗い。
しかし、ローズは二度寝することなく、部屋を出る。
ここは、街はずれにある森に囲まれた教会。
そこに住む少女は、女神のように美しい、と教会を訪れた人々は言う。
しかし、一度教会を出てしまうと、その美しい少女のことを夢や幻であったかのように忘れてしまう。
まるで、何かの暗示のように……。
「神様、どうか私達を見守っていてください」
一人、礼拝堂で祈りを捧げるのは、人々から女神と称されている少女ローズ。
ゆるく波打つ美しい金色の髪。癒しをもたらすインカローズの瞳、そしてその大きな目を縁どるのは長い金色の睫毛。その全てが芸術品のように完璧に整っており、目を奪われずにはいられない。容姿だけではなく、ローズの美しく優しい心も人々を魅了する。
飾り気のないシンプルな薄紅色のドレスも、ローズが着るとまるで宝石を散らしているかのように輝いて見えた。
礼拝堂を後にし、早速ローズは行動を開始する。
洗濯、掃除など、料理以外の家事はすべてローズの仕事だ。
そうして家事を終え、明るく顔を出す朝日の下で薪割をするのが毎朝の流れだった。
「えぃっ!」
その細っそりとした容姿からは想像もできない、威勢の良いかけ声と共に次から次へと薪を割っていく。はじめは薪ひとつ割るのに一苦労だったが、数年もすれば慣れたものだった。
長い髪を後ろでひとつに結び、腕まくりをして、動きやすいようにドレスの裾をたくし上げたその姿は、十八を迎えた年頃の少女の姿とは思えなかった。
しかし、いきいきと薪を割る姿は微笑ましい。
そして、ひどく不格好に割れた薪を細腕に満足そうに抱え、居間の暖炉に薪をくべる。
季節はもう春だというのに、まだ肌寒い日が続いていた。
「あ、もうこんな時間……」
ふと時計を見ると、朝の八時を指していた。
もうじき朝の礼拝が始まる。
子ども達を起こす為、ローズは慌てて二階へと駆け上がる。古い木でできた階段は、所々ギシギシと嫌な音を奏でる。板が脆いわけではないのだが、この音を聞く度に床が抜けはしないかと心配になる。
教会の裏手にある小さな一軒家。
そこでローズは、三人の子ども達と神父様と暮らしていた。
「みんな、おっはよう!」
勢いよく子ども達の上かけをはぎ取る。
掛布にくるまっていた子どもたちは、その温もりを奪われたことで目を覚ます。
「けっ、女神様は朝から元気だなぁ」
と、朝早くから起こされて機嫌の悪いゾイは、憎まれ口をたたく。子ども達の中で一番年上の十一歳。意地っ張りなところはあるが、心の優しい男の子だ。短く刈りそろえた髪は茶色、少しやんちゃな印象を与えるつり目気味な目は紫色だ。
「毎日のことでしょう!」
「たまにはゆっくり寝かせてくれよ……!」
「そんなこと言って、いつもちゃんと起きてくるじゃないの」
ゾイがローズにつんけんするのはいつものことだ。それが照れ隠しであることを分かっているローズは、つい顔がにやけてしまう。
素直になれないゾイが、かわいくて仕方ない。
「……おはよう、ローズ」
ゾイの後ろから小さな声でローズにすり寄ってくるのは、八歳のリアーナ。
引っ込み思案な性格で、いつもローズの後ろをちょこちょこついてくる可愛い女の子。肩まで伸びたふわふわの黒髪、こちらを眠そうに見上げる大きな茶色の瞳は、とても愛らしい。ローズはリアーナににっこりと微笑みかける。
「おはよう、リアーナ。よく眠れた?」
「うんっ」
「そんなこと言って、昨日の夜中にぐずってたくせに」
ゾイが口をはさむ。
「ゾイ!!」
ローズが注意するが、ゾイはさっさと部屋から出て行ってしまった。
「リアーナ、気にしなくてもいいからね」
「うん、いつものことだもん。我慢する」
少し半泣きになりながらも、泣くまいとするリアーナ。
「偉いわ、リアーナ。もう、ちゃんとお姉さんなのね」
ローズに褒められて少し自信を持ったのか、リアーナはまだ寝ぼけていたユイアの手を引く。
ユイアは、リアーナの一つ下で、おっとりした女の子。腰まで伸びた長い栗色の髪は、寝癖で少しはねている。
そして、ぱっちりとした青色の目は、まだ眠そうで開ききっていない。朝にはとても弱いのだ。
「ユイア、今から朝の礼拝に行くよ」
「……う、うん?」
まだ半ば夢の中にいるユイアは、リアーナに引かれるままに部屋を出た。
そんな子どもたちの後ろを、ローズは微笑みながらついて行った。
「ペイン神父、おはようございます」
礼拝堂には、すでにペイン神父が来ていた。
ペイン神父はこの教会の神父であり、子ども達の親代わりでもある。
細身の長身で、短い白髪。その水色の瞳は深い愛情で満ちている。
ペイン神父は身寄りのない子ども達を引き取り、自分の子どものように大切に面倒を見てくれている。歳は五十代後半で、子ども達にとっては父親というよりおじいちゃんのような存在かもしれない。
そして、他ならぬローズもペイン神父に引き取られた一人である。
ローズには、幼い頃の記憶がない。
ペイン神父は、偶然通りかかった森でローズを見つけて保護してくれたのだという。
教会で目が覚めた時、ローズは自分の名前以外何一つ覚えていなかった。
何らかの酷いショックを受けたのだろう、とペイン神父が連れてきた医者は言っていた。
「心の傷が癒えれば思い出せますよ。まだ、時間が必要なのかもしれませんね」
そう言って、ペイン神父はローズを教会に引き取ってくれた。
当時のローズは、おそらく十歳頃。
しかし十八歳になった今でも、十歳以前の記憶は思い出せないままだ。目覚めた時に握っていた美しい腕輪と、時折見る悪夢だけが昔の記憶の手がかりである。しかし、その夢の内容もまた、目が覚めると徐々に薄れていってしまう。
自分が何者なのか。
ローズは時々不安になる。
記憶をなくすほどのショックな出来事があったのだとすれば、思い出さない方がいいのかもしれない。そうやって、自分を納得させているのだが、本来の自分が分からないというのは、どこか心細い。
だから、この教会で子どもたちやペイン神父と賑やかに、忙しく過ぎていく毎日には救われていた。
朝の礼拝を終え、皆で食堂に向かう。
もう、おいしそうな匂いが漂っていた。朝の礼拝の前に、ペイン神父が作ってくれていたのだろう。
食堂には、四角いテーブルが四つ置かれており、子ども達はいつもの様に窓辺の席に座った。そこからは、森を抜けた所にあるボルダーの街が見える。
ペイン神父の作る食事は、いつも愛情たっぷりで美味しい。ふわふわのミルクパンに、ペイン神父自家製のイチゴジャム、肉厚がジューシーなソーセージ。そして、庭で育てている新鮮な野菜のサラダ。
お腹が空いていた子ども達は、パンを口いっぱいに頬張る。
その姿を見て、ローズとペイン神父は微笑んだ。
「ローズ、ちょっといいですか?」
朝食後、ローズはペイン神父に呼び止められた。どうしたのだろう、と思いながらも、ローズはペイン神父の隣に腰掛ける。
「今朝、王国軍の兵士が来ました。この辺りにも、賊が出たそうです……」
サーレット王国の治安を守る王国軍だが、王都から離れたこの辺りでは大きな問題は起きてなかった。王国軍の旗を掲げた立派な基地や、武装した騎士たちは、この平和な田舎街ではあまり必要とされていなかった。
しかし、そのお飾りであった王国軍が力を発揮しなければならない状況が迫っていた。
「とうとうここまで……」
今、サーレット王国には暗い影が差している。
魔石の加護に守られていたはずのこの王国で、不作が続き、不審な事件や事故が増えた。
教会のあるボルダーの街も例外ではなかった。
街の名前の由来であり、名産でもあるボルダーオパールは、ここ数年採れなくなっていた。これは、ボルダーオパールの生産で潤っていたボルダーの街にとって致命的だった。
そのうち、王都のように不審な事件や事故が起こるかもしれない、とボルダーの市民は怯えている。ここ数ヶ月だけで、教会に祈りに来る人が急激に増えたのはその為だろう。
さらに、サーレット王国内には、数年前からこの混乱に乗じて賊がはびこるようになった。
ゾイ、リアーナ、ユイアも両親を賊に殺され、家族を失った。
その心の傷が少しずつ癒され、やっと子ども達の笑顔を見られるようになったというのに。
もう、子ども達の笑顔を奪われたくない。
「だから、ローズも十分に注意するのですよ」
ペイン神父が心配そうな顔で言う。
「大丈夫です! 私、こう見えても強いですから。賊なんて逆に倒しちゃいますよ!」
そう言って元気よく立ち上がると、勢い余ってテーブルに引っ掛かり、気づいた時にはおもいきり転んでいた。
「あまり無理はよくありませんよ。あなたは、女の子なのですからね」
と、優しく微笑むペイン神父の手に助けられ、起き上がる。
「そうですね。気を付けます……」
恥ずかしさで顔が赤くなる。
そんなローズを、ペイン神父は心配そうに見つめていた。
八年前、バルロッサ王が亡くなるまでは、サーレット王国は豊かで平和な国であったという。
しかし、未だに次期国王は決まらず、状況は悪化するばかりで不安定な状態が続いていた。
「神様、どうかあの子達をお守りください」
ローズは、静かに神に祈りを捧げた。