第八話 「アルバムの中には」
夕が武人のことを呼ぶときは、いつも「おい」とか「お前」とか、そんなのばかりで、固有名詞で呼んでくれた試しがなかった。
武人はその事実をどちらかと言えばマイナスの意味としてとらえていたのだが、実際のところは違ったのかもしれない。
ハンバーガーショップから10分と経たずに到着した彼の家の前で、武人は夕の背中を見つめながらなんとなく頬が緩んだ。
夕が自転車を片付けていると家の扉が開いて、中から三十歳程に見える女性が現れた。
長い茶髪は綺麗なストレートで、服装には気品を感じさせた。黒いスキニ―のパンツと白シャツに鮮やかなターコイズブルーのストールを巻き、足元はハイヒールとシンプルながらお洒落で、その雰囲気はどこか夕に似ている。どうも今から外出するようだった。
女性は夕を見つけると「あら夕、おかえり。」と言った。すぐに夕の後ろで待機していた武人に目を移すと上品に微笑んで、「こんにちは。いらっしゃい。夕のお友達?」と聞いた。武人がそれに「こんにちは!」と挨拶を返すと、すかさず夕が口を挟んだ。
「後輩だよ。なんか家に来たいっつうから連れて来た。」
なんとなくぶっきらぼうな言い方だった。武人は夕が自分のことを『後輩』だと紹介してくれたことを先ほどの発言と違うじゃないかと可笑しく思った。
「あら後輩さん。珍しいのね。母さん今から買い物行くから。多分帰りは夕方くらい。お昼は適当に食べておいてね。」
夕の母親というその女性は、そう言って微笑んだ。その微笑み方がやはりとても上品である。
「もう食ったよ。」
夕はすかさずそう答えた。
「じゃあ調度良いわね。それじゃ行くから。」
そう言うと夕の母親は武人に「ゆっくりして行ってね。」と言って歩いて行った。その背中を見送って武人は口を開く。
「夕さんのお母さん若いんすね~。俺の親なんか既にババアっすよ。」
それを聞いた夕は「若いか?」と言って眉を顰めた。言ってる意味が分からない、と言った顔つきだ。夕は未だ自分の母親を目で追い続ける武人を尻目に自宅のドアのカギを回した。
「だって、まだ30台でしょ?見た感じですけど。」
武人が前を向いてそう聞いた時には、夕がドアを開けていた。そして特にバカにする様子も無く「いや、もう44。」と武人の誤りを訂正した。「え!?」と、武人がその言葉に驚愕したのは言うまでも無い。
「つうかあの人若い男の前だと人変わるから普段はあんなんじゃない。」
夕はそんなことを補足してくれたがそんなことはどうでもよく、彼の目からすれば、どう見ても彼女が40台には見えなかった。というか44なら42の自分の母親より年上ではないか。
「…世の中って不公平だ…。」
武人はボソッと呟いた。夕は意味が分からないといった顔をしていた。
夕の父親も何の用事か知らないが朝から出ているらしく、結局その小さな家は武人と夕の二人きりになった。
あの整頓された玄関からすぐの階段を登り、二人は夕の部屋に入った。中は以前と変わらずよく片付けられている。武人は「おじゃましまーす」と言って部屋に入ろうとした。しかし、夕は武人の入室を拒むかのように部屋の前で武人を制止した。
「ちょっと待て。」
「なんすか~?ここまで来て『帰れ』は無しっすよ!?」
武人はそう言って青ざめる。
「違う。ちょっとここで待ってろ。」
そう言うと夕は自室のドアを開けて一人部屋に入った。
武人は一人ぽつりと廊下に取り残されて、夕の行動を訝しく思いながらドアに取り付けられた金のプレートを見つめるしかなかった。
その間部屋の中で何かごそごそやっている音が聞こえて、しばらくしたら夕が大きめのバスタオルを持って出て来た。
「お前、シャワー貸してやるから浴びて来い。汗くさい。」
そして無表情にそう言い放った。
武人はそれに少しショックを受けて「マジっすか!?」とか言いながら自分の纏っている衣服に鼻を近づけてみる。…確かに臭う、気がする。
「どうせ着替えはある程度持ってるだろ?」
練習着の替えは練習時ならいつでも持ち歩いていた。
「まぁ下着とランシャツは有ります。ジャージも。」
「じゃあ貸さなくて良いな。シャワーこっち。付いてこい。」
言って夕はまた階段の方に向かった。武人は言われた通り付いていく。
バスルームに着いたら、夕は「シャンプーとかあるの使えばいいぞ」と言ってそのまま武人一人を残して部屋に帰って行った。
武人は何か言う間もなく放り出されて呆然としていた。とりあえず着ていたランシャツとハーフパンツを脱いでスパッツも脱いだ。脱いだものはエナメルバッグに突っ込んで、洗い場に入った。
とても綺麗なバスルームだったが、少し小さい気もした。浴槽も何だか小さい。武人の家の風呂はしっかり足を伸ばして入れるサイズなのに比べ、夕の家のそれはぎりぎり伸ばし切れないような大きさに見えた。
シャワーの摘みを回すと最初冷水が出る。その辺は自分の家と同じで少し安心した。
シャワーを浴びながら武人は物思いに耽っていた。
自分はなぜ、今日夕の家に来たのだろう。
夕にちょっとは認められていたこと、それは嬉しかった。しかし根本的なもやもやはまだ晴れていなかった。
『ここに何をしにきた?』と問われた時、胸を張って答えられる理由が無い。
『夕の事をもっと知りたくなった』というのも詭弁だ。そもそも何故自分がそんなにも進藤夕の事を気にするのか、そこが分からない。
最初のうちは、ただの尊敬だった。
いや、違うかも知れない。分からない。
さき程の練習中に頭を過ぎったイメージ。あれは一体何だったのか。
それも分からない。
自分の制御下にあるはずの自分の心が全く見えない。
…気持ち悪い。
熱い水滴が武人の肌を打った。
借りたバスタオルで頭を拭きながら、夕の部屋に戻った。
「夕さんお待たせっす~」と言いながらドアを開けると、夕は何かを机の引き出しにしまった所だった。同時に「もう上がったのか?早いな」と言って立ち上がり、
さっきのとは違うバスタオルを掴むとこちらに歩いて来た。
武人はその一連の動作が少し慌てているように見えて、不思議に思った。
「俺もシャワー浴びてくるからちょっと待っててくれ。それからなんでも触らないようにな。」
すれ違いに夕はそう言って階段を降りて行った。
また武人は一人残されて、少し困った。未知の空間になんの説明もなく立たされた時、人は困惑する。何をすべきか全く判断出来ず、まるで路頭に迷う子供のような気分になる。その手にあるのは、無限のような時間だけ。武人もそんな気概だった。
取り敢えず床にストンと座り込んで回りを見た。以前来た時とほとんど変わらない。必要最低限の家具が整然と並ぶ。変わっているのは壁に立て掛けられたアコースティックギターが少し、前より傾いているくらいだ。
武人はそのギターに手を伸ばした。むやみに触るなとは言われているが、そのくらいは良いだろう。
1番左の太い弦を弾く。弦は低い重低音を鳴らし、その音が静かな部屋に印象的に響く。音が消えたくらいに、武人は今度は全部の弦を一気に引っ掻いてみた。すると全ての弦が、ジャーン、という耳に心地の良い和音を組み立てる。武人はその音に聴き入った。とても綺麗な響きだ。
あんまり触っていると夕に怒られそうなので、ギターに触れるのはそこまでにした。そしてまた武人は路頭に迷った。
しばらくぼ~っとしていると、ふとさっきの夕の様子が気になった。
武人がこの部屋に入って来た時、夕は何かを見ていた。そしてそれを慌てて引き出しにしまったのだ。
あれは、一体なんだったのか。
武人は必死に記憶を掘り返す。
…そう。あれは本だった。サイズは大きく、厚さもあった。…まるで、アルバム、のように。
そう思い立って、武人は以前夕の家を訪れた時のことを思い出した。確か、夕はこう言った。
『アルバムは無い!雑誌と一緒に捨てちまった。』
本当にそうなのだろうか。
実はアルバムはまだ持っていて、理由は分からないが夕がそれを自分に隠したのではないか。
もしそうなのだとしたら、そのアルバムは、夕にとって他人に見せたくないもの、或は、自分に見られたくなかったもの…ということだ。
つまり、あの鍵も何も付いていない軽装の引き出しの中には、夕の秘密が隠されているのではないだろうか?
武人はそう思った。
しかし、今の推理はあくまで推論。実際にはどうか分からない。しかし、武人はとても気になった。
机の前に移動し、引き出しを見つめる。
動悸が早くなる。どうしてだろう。
この中のものが凄く見たい。でも、他人のプライベートに無断で入るのは良心が痛むし、何より、武人はとても怖かった。
この中を見てしまうと、後戻りが出来ない気がする。夕の事を知りたくてここに来た。でも、知ってはいけないものまで知ってしまう気がする。
…武人は葛藤の末、その引き出しを引っ張った。
その中には、あった。
武人の推論は当たっていた。
表紙に『祝卒業』と大きく書かれた厚手の本が、そこにあった。
冷や汗が一滴頬を伝う。
武人は内心心を痛めながら、そのアルバムを手に取り、開いた。
最初のうちは、普通のアルバムで変わった所は何もなかった。
しかし、数ページめくった所で、ある『異常』が武人の目に飛び込んで来た。
…写真が切り抜かれている。
しかもそれは一カ所ではなく、あるクラスのページに多数固まっていて、後ろのページにもいくつかあった。
武人はその惨状に唖然とした。
切り抜かれているのは決まって二人分で、恐らくそのうちの一人は、夕自身だろう。
アルバムの何処を捜しても、夕は何処にも居ない。アップの顔写真も切り抜かれている。
…じゃあ、もう一人は?
顔写真が切り抜かれているのは夕だけだ。しかし、確実に切り抜かれたスペースは二人分。いつも夕の隣に居た誰か、が居るはずだった。
ただ、その誰かを見つけることは、今の精神状態では無理だった。もっと時間があればそれもできただろうが、いつ夕が帰ってくるとも知れない。
武人はそっとアルバムを元あった状態に戻した。
誰も居ない空間の中、武人は考えた。
夕は一体なぜこんなことをしたのだろう?
夕の隣りにいた人物は一体誰なのだろう?
なぜ夕はこれを隠したのだろう?
…夕の過去に一体何があったのだろう?
しかし、全てにおいて答えは出ない。
何も分からないのだ。真相を知る為には、夕に直接聞く外無い。
しかしこれは夕には聞けない事だ。夕に与えられた情報では無いのだから、絶対に聞ける事では無い。
ならば、答えを知る術は無い。
暫くして武人は今見た事に関する思考を放棄する事を決めた。
どうせ答えの出ない事を考えるのは不毛でしかない。
だから、忘れるのが一番簡単だと思った。
いや、本音をいうならば、夕の抱える正体不明の闇が大きすぎて、自分では持て余してしまうのではないかと、そう思ったのだ。怖かった。それが本音だった。
数分後、ジャージ姿の夕が戻って来た。
「どうした?なんかぼ~っとしてんぞ。」
武人は気を取り直して笑顔を作った。暗いのは、自分の性には合わない。
「なんでも無いっす!それより夕さん、今日こそギター弾いてくださいよ!」
武人は少しわざとらしいとも思ったが無理やり別の話題を探し、そう言った。
「あ!?嫌だよ!」
夕は露骨に嫌そうに言った。
「良いじゃないっすかー。減るもんじゃなし。俺、先輩の歌聴きたいっす…。」
武人は精一杯懇願してみた。
すると、夕は困った顔になって、一度舌打ちすると、「仕方ねぇなあ。ちょっとだぞ。」と言って壁にかかったギターを手にした。
実際、夕の歌はとても上手かった。それは本当に綺麗な声で、恥ずかしいなんて代物ではない。ギターも美しいアルペジオで、武人は本気で聴き入ってしまった。
「うっまいじゃないすか!!」
武人はそう言って頭の上で拍手して見せた。お世辞なんかじゃない。ギターを弾く友達は何人か居たが、大体小うるさくて歌も上手とは言えない連中ばかりだった。なんて言う自分も筋金入りの音痴なのであるが。
「いや、大したことねぇよ。」
夕は少し頬を赤らめながら遠慮がちにそう言った。
しかし武人が「そんなことないっすよ!」などと言って持ち上げまくるのだから、夕も少し気分を良くしていたようだった。
「夕さんはずっと陸上してたんですか?」
武人は唐突にそう聞いた。夕は最初面喰ったような顔をしたが、「ん?中学の二年からだな。」と返事をした。
「最初はサッカーやってたからな。」
夕はそう続けた。
「へー、そうなんすね!なんで陸上始めたんすか?」
武人は中学二年という中途半端な時期であることを気にしながらそう聞いた。
「あぁ、中学の時に仲良かった奴がいて、そいつにめちゃくちゃ誘われたり、陸部の先生にめちゃくちゃ勧誘されて…だな。」
夕はいつになくすらすらと身の上を話してくれた。いつもなら「あん?めんどくせぇ。」で一蹴されていそうなものだ。
「実はこのギター、そいつから貰ったんだよな。」
そう言って夕は少し頬を緩めた。
武人はその夕の微笑みが珍しくて、なんとなく見惚れてしまった。夕は普段はこんなふうに笑わない。その時の夕の目は、心の底から温かなものを見つめる目だった。それは、先ほどのアルバムから見えた何かどす黒くて歪なものとは全く違うものだ。
「その人は、今は陸上は?」
夕にこんな表情をさせる人物が気になって、武人はそう尋ねた。
「辞めちまったよ。夢があるんだって言って、今は東京の専門行ってる。」
夕はそう言って座っていた椅子から立ち上がると、机のさっきのアルバムのとは違う引き出しから一枚の写真を取り出し、「ほら。」と言って武人に差し出した。
そこには包丁を両手に持ってポーズをとった、見習い料理人といった出で立ちの若者の姿があった。辰己と似たお調子者感がひしひしと伝わってくるのはなぜだろう。
「料理人さんですか!すごいっすね!!」
武人が興奮気味にそう言うと、「そんなことねぇよ。」と夕はなぜか謙遜したが、まんざらでもなく嬉しそうだった。
夕にとって、それだけこの人は大事な友人なのかもしれない。
はじめ武人はその人があの「切り抜かれたもう一人」なのかと勘繰ったが、このときになんとなく直観的に、違うんだということが分かった。
その後も色々な話をしたが、結局アルバムの話は全く出てこなかった。
一体あれはなんだったのか。
そんな一抹の不安と疑念を心に抱きながら、武人はその一日を終えたのであった。
しばらくぶりで申し訳ありません。
少し忙しい時期が重なり、執筆に手が回りませんでした。
では連載再開します。