第六話 「貸切練習」
ある土曜日、部活も終わってあのゴチャついた部屋でのんびりしていると夕の直属の後輩である前山からメールが来た。夕を怒らせてしまったと思ったあの日、あのあと前山とは仲良くなってメールアドレスも交換していた。
メールの内容はこうだった。
『明日進藤先輩にタイマンで走り教えて貰う約束したんだけど、朝日も来ない?ちょっと一人って気まずいんだよ~。』
何が気まずいんだよ!そんなん最高だろ!!と本気で突っ込みたかったが、そんな気持ちとは裏腹にそのメールを見た瞬間『行く!!!!』と返信してしまっていた。すぐに『こっちの競技場だよ』とメールが返って来たが正直そんな事はどうでもいい。ちょっと電車代がかかるが、それよりも進藤先輩に会えるのはとても嬉しいのだ。武人は嬉しすぎて部屋の中で唯一死ぬ危険性の無いベッドにダイブした。
武人はその事をすぐに香奈に報告した。ベッドに横になってメールを打つ。
『明日進藤先輩と特別練習!』
送信ボタン。
しばらくして携帯のバイブが鳴った。
『良かったじゃん。憧れだもんね。』
絵文字も何もない簡素な文面。女子らしくないところが香奈らしい。
『香奈も行く?』
先日の練習会では香奈もお世話になっていたし、何となく武人はそんな文を作って送信してみた。返事は想像できるが一応、だ。
いつもなら速効でメールが帰ってくるのだが、このときはすぐとはいかなかった。武人はベッドを下りると勉強机に向かってやりかけの宿題を進めることにした。
香奈なりに少し考えているのかもしれない。
しばらくして武人が電気分解の問題を解き終わった頃に、携帯のバイブレーションが鳴った。武人はすかさずメールを確認する。香奈からだ。
『遠慮しとく。私そんなに仲良くないし…。』
…の後には照れ顔の絵文字が付いていた。香奈にしては珍しいな、と武人はくすりと笑った。そしてとくに考えることもなくメールの文面を作る。
『そっかぁ。まぁ女子一人も気まずいしなー。じゃあ楽しんでくる!』
文末には笑顔の絵文字を付けてみた。今度はすぐに返信が来た。
『練習でしょ?』
確かに、遊びに行くわけではないのに楽しんでくるというのは間違っているかもしれない。しかし武人にとってはただ遊びに行くよりもワクワクすることだったので、『でも楽しみ!』というメールを送ったらそこでメールは切れた。二人の間ではメールをいきなり切ることなど日常茶飯事なので、武人はそれを不思議な事だとは露も思わなかった。
とにかく、明日の事を考えるとそれだけで武人の心は踊った。
翌朝、武人は目を覚ますとすぐに準備を始めた。窓から空模様を確認すると、まぁぽろぽろ雲は見えるが雨が降る気配は無い。武人は内心でガッツポーズをした。
適当に朝食をとると駅に向かった。いくらか自転車を漕いで、駅に着いたらいつもとは反対側のプラットフォームに昇る。そしていつもとは反対側から来る電車を待った。
電車に乗って暫くすると前山から『駅で待ってるから一緒に行こう』という内容のメールが入った。それに『わかった!』とメールを返して、武人は見慣れない景色が後ろに流れて行くのをなんとも言えない高揚感を抱きながら眺めていた。
*
「で、どうしてお前が此処にいるんだ…?」
競技場で先に待っていた武人を見た夕は、開口一番そう言った。
武人は前山と駅で落ち合うと陸上の話中心の他愛ない話をしながら競技場に向かった。駅からこの競技場は歩いても15分ほどなので、さほど遠くは無い、ここからさらに15分程歩くと前山たちの通う学校があるらしい。
前山は何処にでもいるような素朴な雰囲気の少年で、失礼な話だがどう見てもあまり速そうじゃない。身長も高くなければ筋肉の付き方も普通。それなのに二年生の中ではトップの実力者で、武人からすれば格上の選手だった。
普通実力のある選手というのは良い意味でも悪い意味でもそういう雰囲気がある。例えば新藤夕などは明らかに速いオーラを纏っているし、そうでなくても「自分が人より速い」ことを自負している人間は、どうしても格下の相手を見下したり、虚栄的な態度をとるものだ。しかし前山弘樹には、そんな一面が一切無い。そうやって気取らないという所は人として良い部分なのだと思うが、競争文化の根強い陸上世界では頼りないとも映る。
とはいっても武人はそんな彼を「良い奴だなぁ」くらいにしか思っていなかった。
そして競技場のロビーで夕を待っていたところ、約束の時間5分前に彼が現れたのだった。夕と目が合った時、数秒彼が固まったのがおもしろかった。
「前山が先輩と二人じゃ嫌って言うので!」
武人は前山をちらと見遣るとそう笑顔で返す。
「どういう意味だよ、前山。」
夕は前山をギロリと睨んだ。武人の隣で何も知らない振りをしていた前山がビクッと肩を震わす。
「いやいや!別に嫌なんて言ってないですよ!ただ朝日も居た方がいいかな~、なんて…。」
夕は訝しげな顔をして前山の方をじっと見た後、後ろを向いて頭を掻きながら、「こんな欝陶しい奴呼んで何になんだ」と小さく呟いた。
「あ、先輩!酷いっすよー、それ!俺先輩に会いにわざわざ高いお金払ってまで来たのに!」
武人はそう言いながら、夕の耳の後ろが紅潮しているのを見逃さなかった。
管理事務所に競技場の使用料を払って場内に入った。前山いわく、本来部活動として使用するならば無料でここは使用出来るらしい。なんでも去年の先輩がインターハイで上位入賞を果たしたことで、行政ががそう配慮してくれたという。
流石に日曜日なので競技場には誰もいない。この400mトラックを今日は三人で貸し切りらしい。武人はすごくウキウキした。
「先輩よくこういう事するんすか?」
アップがてらジョグをしている時武人は夕に聞いてみた。
「あんまりないな。そもそも今日はな、総体も近いのに前山とのバトンがイマイチ上手く行かないから来たんだよ。」
夕は言って前山を少し睨んだ。前山はまたびくびくしていた。
「成る程バトン練習っすか!」
「こいつたまに俺に追いつけない時があるからな。」
『こいつ』と言って夕は前山を親指で刺した。
「…進藤先輩の加速が早過ぎるんです…。」
前山はもはや泣きそうだ。先ほど武人が前山が夕とのタイマンを嫌がっていたと言ってから、夕の前山に対する当たりがきついように見えるのは、多分気のせいではないだろう。
「今日はそれだけっすか?」
もしリレーの練習だけするのだったら自分の走りを見てもらえないかもしれない。武人はそう思ってそう聞いた。そもそも休日にそこまで長々と練習するのは、体調にも影響を与えかねないのだ。
「100の調整もするつもりだけど。ちょっとくらいなら見てやるぞ。」
夕は武人の質問の意味を敏感に汲み取ってくれたようでまだ聞いていないことにまで回答してくれた。
「やった!ぜひお願いしまっす!」
武人はそれが嬉しかったので、ノリで夕の肩に手を回した。夕はすぐに「やめろ!馬鹿!」と言ってそれを振りほどいて、一人ジョグのスピードを上げた。その時やはり夕の首筋や耳は赤く見えた。多分、前から見たらもっと顕著なのだろう。
武人は夕のそのすぐ赤変する様子が結構好きだった。まさか夕に「先輩顔赤いっすよ」なんて言おうものなら声を大にして否定するのが目に見えているのだが。
ミディアムより若干短い髪は綺麗な黒髪だ。夕はいつもモノトーン系のカラーのウェアを着ているのでその色合いに矛盾しない。
武人は走りながらずっと夕を眺めていた。ハーフパンツから覗く足は確かに筋肉質だが、関節の部分は凄く細い。その部分で筋肉自体がキュッと締まっているように見える。何はともあれとても綺麗な肢体だ。見とれている内にジョグが終わった。
体操を各々やって、基本のドリルに入る。その際武人は夕からいろいろアドバイスを貰った。
基本ドリルを終えて八割程度の流しを一本走ってようやくウォーミングアップ終了。ここまでで大体小一時間はかかってしまう。
学校の体育などではウォーミングアップは開始の10分くらいで終わっているが、本来はこうやって身体がしっかり温まってベストのパフォーマンスが出来るくらいにまで準備運動を行わなければならない。特に、陸上競技のように筋力を最大まで活用するような運動の場合、その準備は相当念入りに行わなければならない。
この季節になるとアップが終わると大分暑いので、大程の選手はもっと動きやすい服装に着替えるのが一般的だ。武人も既にハーフパンツの下にハーフタイツを穿いていた。なので休憩中にさっと着替えた。ハーフパンツを脱ぐだけなので簡単だ。これがランニングパンツになると、いちいちはき替えなくてはならないので手間がかかる。。
夕もいつのまにかショートタイツに着替えていた。これも恐らく下に穿いていたのだろう。ショートタイツはほとんど丈の無いタイツなので日焼け跡がとても目立つのが難点だが、夕の足は綺麗に一色なのでそれを頻繁に穿いている事が予想出来た。
中学時代にはこの『タイツ』にすごい抵抗を抱くものだ。なんせとても股間の膨らみが目立つ。
タイツの下にパンツなどは基本穿かないし、まぁ一般的な感覚ならそれは、パンツ一枚で走っているのとそう変わらない気分になることだろう。
しかし高校に来ると皆が皆タイツといいランパンといい穿いているものなので慣れてしまう。むしろこういったタイツがとてもカッコイイとすら思うようになる。
武人も今のタイツは結構気に入っていた。黒字にブルーとホワイトのラインが入っており、いつも着ているお気に入りのTシャツと相性が良いからだ。
「ちょっとスタートやるか。」
さっさとスパイクを履いた夕がそう言って立ち上がる。すぐに前山が「ブロック出しますか?」と聞いた。夕はちょっと考えて、「人数分出してくれ。」と答えた。それに了解の意を示したら、前山は武人に手伝ってくれと頼んだ。武人はすぐにOKした。
スターティングブロックは100mゴール付近の器具庫にある。武人は前山とシャッターを開けてそこに入った。地面はコンクリートで固められているので、スパイクで歩くとガチガチ音が鳴る。
ブロックを荷車に乗せていると前山が言う。
「お前、なんていうか、凄いな。俺進藤先輩にあんな風には絶対絡めないよ。」
武人は意味が解らないと言う風に前山を見る。
「俺、なんかあの人には壁があるような気がする…っていうか、わざと壁を作ってるんじゃないかって思う時があるんだ。…面倒見も良いし喋り難いわけじゃないんだけど、深くまでは絶対入って来ないし、入れさせもしない。」
前山はなんとなく寂しそうであった。武人はその語り草を不思議に思いながら口を開く。
「そうなのか?俺はあんまり思わないけどなー。」
二つ目のブロックを積み終えて、三つ目のブロックを手に取った。そして前山が続ける。
「そりゃお前はいつも一緒にいるわけじゃないから解らないだろうけど…。」
武人はその前山の言葉が引っ掛かった。なんだかとてもムカついた。同時にとても寂しくなった。
自分はあまり先輩の事を知らない。あまりどころか、全然だ。考えてみれば会って話したことも数える程だし、何より普段の姿を知らない。でも、前山はそれを知っている。
武人はいきなり、夕と違う学校である事がとても口惜しく感じた。
先輩と同じ学校だったら、もっと話して、もっと仲良くなって、もっといろいろ教えて貰って、もっと…、もっと?
もっと、何をするのだろう。何がしたいのだろう。あれ?なんだっけ…。
武人は今一瞬自分の脳裏に過ぎったイメージの正体を突き止め兼ねていた。
「…朝日?どうしたんだよ、恐い顔して。」
気が付いたら、前山が顔を覗き込んでいた。武人はびっくりして「わ!!!」という悲鳴をあげて今持っていたブロックから手を離してしまった。前山が「あぶない!」と言って手を伸ばしたのも遅く、ブロックはコンクリートの地面に落下して器具庫中に鈍い金属音を響かせた。
「…うるせ~。」
「…うるせ~。」
思いがけず声がハモって、武人と前山は顔を見合わせて笑った。武人は落としたブロックを拾いあげて前山に向かって言う。
「先輩ってそんななんだ。」
「うん、大体。…あ、でも最近はちょっと雰囲気変わったかも。今までなら絶対練習に俺を誘ったりしなかったからさ。」
前山はそう言うと少し誇らしげに笑った。なんだかんだ言っても、夕はトップランカー。前山も彼に近づきたいと思っているのだ。
「へぇ~。」
武人はそう相槌を打った。前山が少し笑顔を綻ばせたのはなんとなく嬉しかったが、依然、心はもやもやしている。
ブロックを荷車にのせてスタート地点に持っていくと、夕は不機嫌そうな顔で待っていた。
「おせーよ!ていうかなんか変な音しなかったか?」
武人と前山は笑って「ブロック落としちゃって。」と正直に言った。夕は軽く呆れていた。
スタートの練習のついで、夕にフォームや中間疾走、フィニッシュなど、いろんな所を見てもらった。
アドバイスはどれも適確で、しっかりとした見本をみせてくれる。加えてその理論までも教えてくれた。武人の顧問は口で言うだけでその辺のことは一切教えてくれないし、先輩に至ってもただ漠然としていて陸上にそこまでの理解を持っている人は居なかった。夕こそ今まで見てきた、先輩を含めた教師の中で最も優秀な指導者だとすら、武人は感じた。ますます武人は夕に対する尊敬を強めた。
二人がリレーの練習をしている時は、バトンパスの調子を武人がみてやった。確かに最初の頃は三回に二回は前山が追いつけないという状態だったが、しっかり待機距離や風を考えたら、大体成功するようになった。
夕がその事で武人に「お前のおかげだな」と小さく言ったので、武人はそれが凄く嬉しかった。
練習が大体終わりダウンに入ろうという時になって、武人はまた淋しい気分になった。楽しい時間はすぐに過ぎる。夕とはこれでまた当分お別れだ。
走っている最中もいつものようには口数が増えず、当の夕に「どうした?」と声をかけられた。
「先輩と次会えるのは総体っすね…。長いなぁと思って…。先輩と会えないのは寂しいです。」
武人は基本隠し事をしない性質で、心境すらもぺらぺら喋る。それを聞いた夕はまた赤くなっていて、「な、何言ってんだよ!」と取り乱していた。
武人はその様子が可笑しくて、ちょっと笑って「先輩顔真っ赤っすね!」と言った。
夕はすぐに「そんなわけねぇだろ勘違いすんな!!あれだ、あれ!日焼け!…ったく馬鹿な事言ってないでさっさとあがるぞ…。」とごまかしていた。
見事に予想通りの反応で武人はまた笑えた。
全部終わって競技場に三人で挨拶をした時、武人はまたさっきの前山の言葉を思い出していた。
『お前はいつも一緒に居るわけじゃないから解らない』
その言葉を思うと、夕の事を何も知らない自分が憎らしく感じる。もっと知りたい、もっと居たい。
そう思っていたら、武人の口は独りでに喋っていた。
「先輩、今からまた先輩のお家お邪魔して良いっすか?」
その唐突な質問に荷物を纏めていた夕は驚いた顔をして、しばらく考えてから「親…いるぞ」と言った。
「俺は構わないっす!」
武人がそう答えると、夕は武人を見ないように、
「別にいいけど。」と小さく呟いた。