第五話 「太陽の一日」
太陽は眩しかった。
大体家を出たのは7時前。雲一つ無い空は凜と讃えている。昨日の夜の天気予報では梅雨入りしたと言っていたばかりであったが、朝起きてみれば拍子抜けだった。雨どころか曇りですらない。
6月も半ばとなると確かに日中は蒸し暑くもなる。しかし、早朝というのは気温も低く、なんとも清々しいものである。
これからどんどん地面を温め上げるであろう太陽の光も、こんな朝には気持ちがよく感じてしまうのは仕方がないことであろう。
あるいは、雨だろうが曇りだろうが彼の気持ちに大した差はなかったのかもしれない。
朝陽武人は最近とても気分が良い。何故そうなのかはイマイチよく分からなかったが、友達にも親にも先生にも香奈にも「なんか気持ち悪いくらいに上機嫌だな」と言われていた。そこまで言われると、やはりそうなのだろうと武人も思わざるを得ない。
普段はあまりしない朝のジョギングを今日急に思い立ったのも、その精神状態からかもしれない、とアスファルトを蹴りながら武人は考えていた。肌を擽る早朝の風が心地よい。
団地を抜けて公園を通りがかると、犬の散歩に出てきている近所のおばあさんが前から歩いてくるのを見つけた。おばあさんは一人暮らしで、その小麦色の中型犬が彼女の唯一の家族なのだという。
「おばあちゃん、おはよう!」
彼が声をかけると、おばあさんは微笑んで「たけちゃんかい?今日は早いねぇ。」と言った。
「あんまりしないんだけどね。朝ジョギング!」
そして武人は「次郎もおはよう。」と言ってその中型犬の鼻先を撫でた。次郎は気持ちよさそうにしていたかと思うと、いきなり武人の手をペロペロと舐め上げた。次郎はとても利口な犬で、絶対に吠えないし、絶対に噛み付かない。武人がうんと小さい頃にやってきたのだから、この犬も相当な老犬である。
「次郎はたけちゃんが好きだからねぇ。また遊んであげてね。」
「もちろん!」
おばあさんとはそんなやり取りをしてお別れをした。最後に武人が次郎に向かって手を振ると、次郎は「ワンッ!」と一声だけ吠えた。
家に帰ると一度シャワーを浴びて汗を流した。
姿見で自分の体を眺めると、細い。とにかく細さが気になる。胸も腕もひょろひょろにしか見えない。とは言っても、当然一般男子のそれと比べれば相当な筋肉質であるが、本人はそうは思わないのは不思議である。
シャワーを浴び終え、パンツだけ穿いて脱衣所を出ると妹の優美華が起きて来て鉢合わせた。武人は少しドキリとしたが、優美華は男の裸体に女の子らしく悲鳴をあげるどころか、ごぼうでも見るような目で武人を見て「おはよ」とだけ言ってキッチンに向かった。長いツインテールが尾を引く。
武人は優美華の背中を見送りながら「あぁ、おはよー」と言ったが何となく虚しい。やっぱり筋肉が足りないのだろうか。そう思って腕の上腕筋をつまんだ。痛い。
脱ぎ捨てられた衣服やお菓子のゴミ、漫画などでめちゃくちゃな自室に帰って、多分いつのまにか母親が畳んでくれたのであろうカッターシャツとズボンを拾いあげ、それをさっと纏ってベルトを通した。勉強道具と部活道具の入ったエナメルバッグを持って朝ご飯を食べにキッチンに向かう。
「あんたそろそろ部屋、片付けなさいよ。立つ場所も有ったもんじゃないんだから。」
エプロンで濡れた手を拭きながら、母の喜美子は呆れたように言う。やはり部屋に入っていたらしい。
「へ~い。そのうちやっときまーす。」
武人は食卓の優美華の隣の椅子に座りながら気の無い返事をした。リビングのテレビが今日の天気予報を告げる。降水確率は0%だそうだ。昨日の梅雨入り宣言はなんだったのだろうか。
「それからあのどうしようもない雑誌の山、もう少し見えない所に置いときなさい。」
今焼き上がったハムエッグを武人の前に置いて、その恰幅の良い女性は声のトーンを落として言う。武人はそればかりにはしまったといった顔をした。
朝食を終えると洗面所で歯磨きをして、ハードワックスで髪の毛を立ち上げた。このつんつん具合が結構お気に入りだったりする。一か月も放置しておくと、少し髪が重力に負けて折れてくるので、そうなったら切り時だ。短髪男子の髪の毛事情には、意外とお金がかかるのである。
そのまま玄関に行って、靴を履き変える。スニーカーの靴紐を結んでいると喜美子が来て「気をつけて行くのよ。帰りは早くね。」といつも通りの言葉を言う。武人もいつも通り、「行ってきま~す」とだけ返す。
学校には電車で向かう。ローカルの私鉄で、武人はこれに乗っている15分がとても好きだった。季節に合わせて変わる景色と、車内の快適な空間。それらは武人の心を和ませた。
通勤ラッシュとは時間がズレているので、心置きなく座っていられるのも良いところだ。
家から5分程自転車を漕ぐとその小さな駅に着く。
自転車を自転車置き場に停めてプラットフォームに上ると、そこには見慣れた姿があった。小柄で小顔、可愛らしい雰囲気の女の子が、紺色のセーラー服を身にまとってこちらを見ている。
「武人。おはよ。」
少女はそう言うと小さく微笑んだ。
「おっす!香奈。」
武人はそう言って右手を軽く上げた。
香奈とはいつもここで待ち合わせている。
香奈と武人は実は小さい頃からの幼なじみだ。家が近所だったということもあったし、妙に気が合ったという部分もあった。ただ、小さい頃から互いに互いを認め合い、最高のパートナーとして認識していた。
勿論武人にも香奈にも多くの同性の友達がいるが、武人にとっての最高の理解者は香奈であり、香奈にとっての最高の理解者は武人だった。
回りから見たら二人の関係は明らかに異常で、彼達自身も自分達が少しおかしいというのは気が付いていた。だから彼らはそんな二人の関係に区切りを付けた。
実際二人の付き合いとはてんで綺麗なものだ。街で手を繋いでいちゃつく訳でもなくキスの一つもせず、ましてセックスなど考えた事も無い。武人は性欲は旺盛な方だったが、香奈に対してだけはそういった思いを抱くことはなかった。
悩みがあったらそれを二人で共有し、嬉しい事があったらそれをまた二人で共有する。それだけの関係。
武人はそれで満足していたし、香奈もそうだと武人は思っていた。
電車の中で他愛のない話をして約15分、学校の近くの駅に着いた。駅員には気前よく「ちわっす!」と挨拶をする。武人の日課だ。日替わりで三人いる駅員も武人の顔はもう覚えているようで、ちゃんと「おはよう。今日も元気だね。」と返してくれる。武人の後ろで香奈も小さな会釈をする。これもいつもの風景。
学校に着いたら香奈とはクラスが違うので教室の前で別れた。「じゃ、また!」と言って手を振る。香奈はそれに「バイバイ」と返した。教室の中で仲の良い男子達が武人を囃し立てていたが、武人は全くもろともしていない風だった。
「いいよな~、香奈ちゃん。俺もあんな子と付き合いたい。」
机に座って教科書の整理をしていると、そいつは前の席に反対向きに座り、言った。
「おはよータツ。」
彼は辻岡 辰己。武人は辰己のことを『タツ』と呼んでいた。明るい茶髪で耳にはピアスという、見た目はとてもチャラい奴だが、武人はこいつを気に入っていた。
「そんな良いもんじゃないだろー。」
武人は苦笑しながら否定する。それは謙遜ではなく、本気でそう思っている。武人にとっては香奈は、身近過ぎて可愛いとか綺麗とかの次元ではない。
「いやいや!香奈ちゃんはヤバイだろ!頭は良いし走るの速いし可愛いし…。って言えば言う程高嶺の花の気がしてきた…。」
辰己はひとりでに肩を落とした。武人は、あははと笑う。
「やっぱり頭のいい子と付き合うには頭が良くないといけないのか?武人?」
甘えたような声で下から覗き込むように辰己は言う。別に可愛くないからやめてくれと言いたい。
辰己は見た目の軽さとは裏腹、驚くほど女の子には縁がない。そのお馬鹿っぷりが女子には受けないことも然ることながら、どんなときでも友達優先友情第一の熱さがその女子受けの悪さを加速させているらしい。以前ほとんどない女子からの呼び出しを、「今日アキラと約束があんだ…。」と言って断って、その女子の友達女子全員が大激怒したというのは有名な話だ。
「ばーか。たつじゃ頭どうこうの前に、論外だろ。」
武人が何か言う前に横から鋭利な槍が飛んできた。それは見事に辰己に突き刺さる。彼が、例の「アキラ」である。
「てめぇアキラ、それどういう意味だよ…。」
「そのまんま。」
聞いて辰己は「うぜー!」と叫んでアキラと呼ばれた男に飛び掛かった。が、ひょいと避けられてそのまま隣の机に突っ込んで、その際頭を打って一人で悶えだした。
教室全体が大笑いしていた。
霜野 彰は武人と辰己のお目付け役で、二人が調子に乗っても彼がブレーキをかける。比較的大柄な二人に比べて彰は小柄だが、見た目はジャニーズに居てもおかしくない程の美少年で、女の子からの人気は水面下で相当高いらしい。いつも辰己と一緒にいるので、中々女子と絡む姿は見られないが。とにかく彼の辰己に対する毒舌は、仲間内では名物とも化している。
辰己と彰。武人はいつもこの二人とつるんでいる。
辰己はサッカー部で、彰は無所属。辰己と武人がお調子者であるということを除いてほとんどタイプの違う三人であったが、その異種であるという事で寧ろバランスがとれる関係となっていた。
その日のホームルームで、先日行った模試の結果が返って来た。
武人が自分の成績の書いた紙を見ていると、辰己がふらふらとした足取りで、頭を抱えてやってきた。
「ヤベェ。さすがにそろそろヤベェ。俺が実はただのアホだということが浮き彫りにされてきた。」
「知ってるけど。」
いつのまにか辰己の隣に来ていた彰がそれに釘を刺す。辰己が「ねぇなんで霜野くんは僕にだけそんなに冷たいの?ねぇ…」と半泣きで彰の肩を揺するが、彰は無表情で無視を決め込んでいた。
辰己が模試の結果を武人の机に置いたので、それを見ると、見事に赤い字ばかりで順位も下から数えて数番目といったところであった。
「やるじゃんタツ!!最下位じゃねぇじゃん!!」
武人と彰は二人で笑った。
「失礼な!…つーか、お前らはどうだったんだよ?あんまり聞きたくもないけどな…。」
辰己はそう言うと彰の肩から手を降ろし、不満げにそう聞いた。武人は彰と顔を見合わせると一斉に口を開く。
「4番。」
「6番。」
「あー、負けた~。」と言ったのは彰だった。武人は小さくガッツポーズをとる。
「お前らは良いよ…。」
辰己は終始つまらなそうな顔をしていた。
そう、武人は陸上だけでなく勉強でもとても優秀だった。元々武人の通う高校は県内でも屈指の進学校であり、馬鹿では絶対に入れない。辰己や彰も含めここにいるというだけでも十分その証明となっている。
武人の目標はとにかく『誰にでも尊敬されるすごい人物になること』であった。自分に対して常に厳しく、甘えず、そしてそんな苦しい環境を乗り越えてこそ、誰もが尊敬するすごい人間になれると彼は信じていた。
その思想は高校で何かスポーツをやろうと考えて、陸上競技という競技を選んだことにも起因する。陸上競技をやる者にとっての一番の好敵手は、誰にとっても自分である。球技と異なりそこには一切の「遊戯」の側面が無いことは、自身を逆境に追い詰めたい人間にとっては好都合なスポーツなのである。
そういう訳で武人は勉強も陸上も人間関係も全て蔑ろにしなかった。
そんな武人にとって、他校の一つ先輩である進藤 夕という男は特に魅力的だったらしい。
武人が進藤夕を初めて視認したのは一年の頃だった。
その年の県総体100m決勝で、二年にして十一秒の壁を乗り越えた夕は相当の話題になっていた。武人も短距離に従事する者として、その試合は見逃さなかった。
筋肉隆々で、言ってしまえばゴツイ男達ばかりが立ち並ぶ中、彼はただ一人だけ明らかに異質のオーラを纏っていた。恐らく、その場に居た誰もがそこに並ぶ七人は、彼を引き立たせる為だけにある肉人形としか思えなかっただろう。それほどに彼、進藤夕は異質だった。
武人はスタンドで一人、自分の直属の先輩もその場にいるにも関わらず、じっと夕だけを見据えていた。
華奢な訳では決してない。スプリンターとしての足、男の躯。顔こそ中性的に整っているが、そこにいるのは確実に男だ。だが、武人は何故か彼を『綺麗』だと感じた。何が彼をそこまで美しくするかは、洞察力に長けた武人でも分からなかった。
結果その試合で夕は三位になった。
それから大会や強化練習会などでちょくちょく夕を見かけるようになった。いや、意識するようになった、というのが最も正しいのだろうか。
あまり団体行動をしているのは見なかったが、顔も広く、後輩への指導力、効率性、リーダーシップ、カリスマ性、どれをとっても一流。
例の大会で一躍有名になった夕は、その容姿から女子陣から「王子様」と呼ばれ慕われるようになった。
実際にはそういった気持ちは、その人物に対する「愛情」とは違う。アイドルや偉人を奉るのと同じように、彼女たちは彼を「憧れ」や「尊敬」の対象として見ているのである。
武人は、その様子を見つめながら猛烈に進藤夕に嫉妬した。
そう、はじめは嫉妬だったのだ。
「羨ましい!」
「妬ましい!」
「俺もあんな風に思われたい!」
武人は進藤夕に対してそんな気持ちを抱き続けていた。アスリートなのに女子にちやほやされる進藤夕が気に入らなかった。しかし大会で彼を見ると、そこに女子に構う様などはなく、とにかくストイックに走りに没頭する夕の姿を見るだけだった。最初は、そんな清ました態度も気に入らなかった。
しかしいつからか自分も彼に「憧れ」や「尊敬」といった気持ちを抱いていることに気づいたのだ。それは気持ちが変化したのか、はたまた、最初から同質の気持ちであったのかは定かではない。とにかく、猛烈に嫉妬に狂う程、彼に近づきたい気持ちが大きくなっていったのだ。
そして、最終的に武人は彼こそが自分の目指すべき人物だと確信した。それからひっそりと夕を目標とし、彼に少しでも近付けるように陸上に励んできたのだ。
そんな彼との関係が最近とても近くなった。
一時は家にまで上がってしまって、その時はどうしようかと思った。あまりにテンションが上がってしまってどんな話をしたかもあまり覚えていない。なんだかとても気掛かりな事があった気がするのに、イマイチ思い出せない。
夕と話せるようになると、彼は意外に気さくで、物知り。少し可愛い面もある。ちょっとしたスキンシップですぐ顔を赤らめるし、素直じゃない。でも彼のそういう人間めいた部分が武人は特に気に入っていた。
とにかく、今では武人は夕をとんでもなく「尊敬」していた。