第四話 「重い足」
『県選』
彼らはその大会を通称としてそう呼んでいた。
それはシーズン中ではインターハイ予選の次に重要な大会になる。これで上位に入ると付近の県統合の選手権にエントリーでき、それも勝ち上がると今度は日本選手権へと繋がってゆく。
とは言ってもこの大会には社会人や大学生もエントリーして来るので、高校生が上位を狙うのは厳しいものがあった。ただ夕の実力であれば上位入賞も圏内ではあったが、インターハイ予選は間近に迫っておりその調整を優先する為には、この大会で無理をするわけにはいかない。そのため、夕はこの大会を、現段階での力試しの為の大会だと割り切っている。
陸上部30人近くは朝早くから学校に集合し、富田が部の為に自腹半分で買ったマイクロバスに乗って県内で最も大きな競技場に向かった。29人乗りであるそのバスでは、部員数がギリギリなので最近富田が「大型免許とろうかなぁ」という言葉をボソッと呟いたのを夕は聞いていた。この人はどこまでこの部を愛しているんだと逆に寒くもなったが、実際富田のその情熱は部員隅々にまで行き渡り、その人望の基ともなっているのである。
まだ7時30分ころだというのに、会場は既に多くの人が集まって来ていた。最終的には県内のほぼ全ての高校陸上部と大学生と社会人が大勢集まるのだからその人数は計り知れない。
バスが競技場前に停車すると、部員が前から順々に降りていく。その際一人として「ありがとうございました」を言わない者はいない。
夕は最上学年だったので、いつも決まってそのマイクロバスの最後尾に座っていた。というか、必ず最後部座席に座らされてしまう。富田の教えで、三年生が座らないと下級生は座れないことになっている。下級生の乗りやすさを考慮すると、三年生が固まって一番後ろに座った方が良いだろうと話がまとまっているからであった。毎度のことだが、面倒な取り決めであると夕は思う。
夕が最後にバスから降りると、部員はバスの前に整列しており、夕もその列に並ぶ。それを確認してキャプテンの号令で部員たちはもう一度「ありがとうございました」と今度は全員で揃って挨拶をするのだ。それが終わってから、下級生を中心に荷物の運び出しが始まる。
夕が自分のエナメルバッグを肩に担ぐと、富田がバスの窓から自分を呼んでいることに気づいた。「ハイ。」と返事をして、一度担いだバッグをもう一度地面に下ろすと、夕は富田により近い運転席側に小走りで移動した。
「今日はどうするんだ?」
とてつもなく曖昧な質問だった。普通の選手なら相応しい回答に頭を抱えてしまうだろう。しかし、夕は富田のその類の質問には慣れていた。
「力試しのつもりです。調子が悪いと思えば棄権も考えています。」
戸惑う様子もなくそう答えた。それに対して富田は穏やかに笑って「そうか分かった。とにかくムチャだけはするなよ。」とだけ言って窓を閉め、バスの駐車の為にアクセルを踏んだ。
富田は優秀な教員だ。普通有名運動部の監督といえば体罰は当然で、先生が第一。生徒は先生の言うことを全て聞いていればよい。逆に生徒が自ら考えて行動することをとにかく嫌う。だから、富田のように試合の扱い方を生徒自身に決めさせることなど有り得ないのだ。そんな当たり前が横行している高校陸上部の世界で、「生徒第一」をモットーに部運営、生徒指導を考える富田が、昨年度のインターハイの結果から県より最優秀指導者賞という名誉を授かったことは、逆に当然とも言える結果なのかもしれない。
夕達は富田と別れると前日に富田が直々に陣取りをしていた場所に荷物を運び込む。
この競技場は国際大会が開かれるような巨大な競技場ではない為、スタンドはホームストレート側にしかない。あとのスタンドは芝生貼りになっており、そこにテントを張って待機場所とすることになっていた。夕たちは決まってバックストレートの真ん中辺りに待機場所をとっていた。それは、目の前に棒高跳びのピットがあり、昨年度インターハイで上位入賞したある先輩をよく見るための場所取りであったことが伺える。
この時試合に出るものとそうでないものに別れ、主に試合に出る二・三年生はアップに、試合に出ない一年生は待機場所のテント貼りをするのが慣わしになっている。夕も当然アップ組だったので、待機場所に到着したらすぐにランニングシューズに履き替えて準備を始めた。一応試合開始まではメイントラックが使用できることになっている。使用できる内にアップだけは終わらせておきたいところだ。
「今日バトン何色にする?」
夕にそう聞いてきたのは400m専門の淳だった。身体は小さいが、柔軟な走りで体力のロスを無くす事に長けた彼もまた、県内ではトップレベルの実力を持っている。ただし彼らの住まう地域はどうも400mのレベルが他県よりも低いため、夕のように全国的にも高いレベルの選手と比べると力の差は大きい。
彼は赤・青・白・黒・金・銀の六色入りのバトンケースを差し出している。夕はお決まりのようにその中から金と銀二本のバトンを抜き取った。淳は「やっぱりか」と言って笑っていた。
100mで全国の実力を持つ彼にとってそれは当然のことだが、夕は4×100mリレーや4×400mリレーのメンバーでもあった。そのメンバーは夕と信也と淳に、もう一人は二年の前山という奴だった。前山も夕と同じ短距離を専門としている。
この陸上部の部員数30という数字は、正直あまり多くない。一年生こそ12名という人数が揃ったが、二年生は8名、三年生は4人であとの6人はマネージャーだ。夕がここに入部したころは全くの無名校で、富田と夕の名声で年々入部者が増えているが、まだまだ部員100を超える名門と比べると規模が小さい。
部員数が少なければ、リレーメンバーはどうしても重複してしまう。おかげでそのメンバーは、自分の専門種目とリレー種目二種を走り切る為のとてつもない体力を要した。100mはお手の物である夕であるが、400mは正直苦手としていた。出来れば走りたくないなぁといつも考えている。
メンバーはアップ時バトンの練習の為それ以外の選手とは別にアップをすることになっている。
「9時半から四継の予選だっけ?」
夕は聞いた。『四継』とは4×100mリレーの通称だ。
「うん。まぁ予選は気楽に行こうよ。」
言いながら淳はランニングシューズの紐を結び直し、しっかり結ぶと「前山!行くぞ!」と叫んだ。少し離れた場所で一年にテントの立て方を教えていた前山本人は、「え、ハ、ハイ!」という気の抜けた返事を返していた。
四人でジョギングをしながらバトンの練習をしている時、トラックを回るついで夕は妙に辺りを気にした。無論、それはあいつを探しての事だった。
少し背の高い人が目に入る度夕はそちらに目が行くが、それが奴じゃないと分かるとなんとなく気が落ちた。おかげで注意力が散漫になっていつもは絶対に落とさないバトンを何度か落とした。流石にメンバーもそれは不思議がった。
しかしそれはジョグが終了して準備体操に入ろうと言う時だった。
トラック中の芝生で肩の関節をストレッチしている時、競技場に見慣れたジャージの団体が入って来た。白地に水色のラインが入った爽やかさが引き立つその特徴的なジャージは、武人の高校のものだった。今からアップ、と言った感じだった。
武人の行く高校は、実は相当賢い進学校だ。ただの馬鹿では絶対に入れない。その為伝統も長く、陸上部も今はそれほどではないが昔は県内総合優勝も果たしていた古豪である。
その伝統の為に部員数はかなりの数で、夕の高校に比べるとおよそ二倍は居るだろう。それだけの人数がぞろぞろと連れ立って入ってくると、その雰囲気は圧巻であった。
夕はすぐに武人を見つけた。
彼はいつも楽しそうで、いつもどこかはしゃいでいるからとても目立つ。その容姿も後押ししていると思われるが。バトンを持っている所を見ると、どうも武人もリレーメンバーらしい。
夕がぼ~っとそちらを眺めていると、武人がふとこちらを見た、ような気がした。100mのゴール地点近くに居る夕の位置からでは、まだスタート地点の彼らまでの距離はかなり遠いので目線までは判らない。
…が、それは気のせいではなかったらしい。気づけば武人が凄いスピードでこちらに向かってくるではないか。
奴はそのまま100mを走り切るとスピードを緩めること無く「せんぱ~い!」とか言って夕に飛び掛かって来る。それはもうほぼタックルに近かった。夕はそれを咄嗟に避けた。
武人は一人芝生にダイブして、そのまま一回転すると夕に向き直って「なんで避けるんすか!」と言った。夕は「避けなかったら死んでたからだ」と冷静に返した。
「先輩リレー何走っすか?」
体中に張り付いた芝生を叩き落としながら、彼は上機嫌にそう聞いた。
「二走。」
夕はなんとなく不機嫌を装って手短にそう答えた。なぜそんな態度なのか自分でもよくわからない。
「あ、一緒っす!やった!それじゃ今からアップっすからまた後で!」
しかし武人は夕のそんな気概を気にする風もなく、それだけ言ってまた走って行った。本当に台風みたいな奴だと夕は思う。
アップが終わったら一度もうすっかり形を成したテントに戻って、メンバーと少し話をした後コール場所に向かった。コールとは選手の点呼の事だ。試合が始まる前にその選手がきちんと揃っているか確認するための作業である。エントリー選手が一同に会し、自分の相手を知る場所でもある。
四継のコールは各走順に従って別々である。夕は二走であったので、第二コーナー付近で集まることになっていた。待機場所からはほど近い場所であったので、少し余裕をもって到着してしまった。先に女子のリレーのコールが行われており、男子よりも女子の方で賑わっているようであった。
ふとあたりを見渡すと、そこには既に武人が居た。彼も程なくして夕を見つけると、嬉しそうに手を振った。手は振るなよ、恥ずかしい。とか思ったが、結局武人の隣に荷物を置いて、夕はそこに無言で腰掛けた。
その時、ちょうど女子のリレーの予選が始まった。
「香奈が出てるんですよ。」
言って武人は三走の方を指差した。その指の先には、あの小柄な少女が居た。元々小さいのに遠くだとさらに小さく見える。
夕の心臓がチクりと痛む。
「予選は通るのか?」
アナウンスが鳴っている。辺りが一気に静かになった。
「多分通ります。結構速いんすよ。」
武人は小さくそう言った。
『オンユアマークス』が会場全域に響く。一走がスターティングブロックに足をかけているのが見える。この試合が、今日の一発目であった。
『セット』で腰をあげ、…号砲でスタートした。途端、静まり返っていた会場が一気に湧く。武人もチームメイトに何か叫んでいる。
夕はなんとなく手持ち無沙汰な気がした。が、応援しようにも夕の高校の陸上部は女子部員が今年に何人か入ったが、二・三年はマネージャーしかいないのでリレーのメンバーが組めていなかった。
香奈にバトンが渡った時は既に武人の高校はトップを争っていた。
二年とは思わせない走り。身体の小ささからは思いもよらない回転速。夕の目から見ても、香奈は武人同様優秀な選手だった。
…なんて似合いの二人なんだろう。
夕の心臓がまたチクりと痛む。
香奈達は予選の一組を二位で通過した。
「中々やるでしょ?」
武人は自慢げに笑う。
「あいついっぱい三年いる中でも速い方なんすよ。」
その嬉しそうな顔に夕は少しむっとした。
「予選二着じゃ準決も危ないだろ。」
自分でも、驚く程に声のトーンが低かった。
「え、ま、まぁ、そりゃそうですけど…。」
武人も、その思いの外冷たい夕の返事に珍しく戸惑いを見せた。
何となくそこに気まずい空気が流れた。
ここで夕はようやく気付いた。自分の決意と言動の矛盾に。意識すまいと思っていたのにいざ本人を前にすると揺らいでしまっていた。
今の言葉も自分の香奈に対する嫉妬心から来たものなのは明白だった。
…まったく自分の弱さには呆れる。
夕は大きく息を吐いてシューズの紐を解いた。
武人は依然黙ったままだ。いつもはうざいぐらい絡んでくるくせに、ちょっと威嚇したらそれか、と夕の気分は更に落ちた。
居た堪れない。早くここから去ってしまいたい。そんな気持ちでいっぱいだった。
競技は着々と進んでリレー予選が終わった。
夕のチームも武人のチームも組一位で予選は通過していた。
その間二人が交わした言葉は先の組で夕が走る際の「頑張って下さい」「おう」というやり取りだけだった。
夕は武人が走り終えてコール場所に戻ってくるのを待たずに、メンバーと合流してさっさとテントに帰ってしまった。
「お疲れ様!とりあえず42秒台出てるから、バトンさえ通れば決勝も上位狙えるでしょ!」
テントに入るとストップウォッチを持ったともよが言った。競技に出ていない一・二年の「お疲れ様でした~」が四方から聞こえる。
夕は「ああ」と一言だけ言って下にひいてあるマットに転がった。
なんとなく気分が乗らない。心なしか足も重い。
なんだかぐるぐるしている。
香奈の事を自分の事のように話す武人にも腹が立ったが、それに腹を立てる自分自身にもっと腹が立った。
なんて身勝手なのか。相手の思いを無視して自分勝手に感情を起伏させる。これでは昔の自分と何も変わらない。
夕が暫くマットの上で突っ伏していると、誰かが近くに来たのが分かった。顔を上げると、ともよが居た。
「どこか悪いの?さっきの走りもちょっと良くなかったよね。」
部内規定のジャージを着て、長袖を腕まくりしているのはともよのスタンダードスタイルだ。下級生がともよさんともよさんと躍起になるのはなんとなく分かる。確かに美人というくくりに入るよな、と夕はどうでもいいことを考えていた。
さっきの走りが良くなかった。多分それが言えるのはこの会場でも夕本人と富田と、あとは数える程しかいないだろう。それだけ微妙な差違をこのマネージャーは感じ取ったらしい。つくづく、選手に復帰したらどうだと夕は思ってしまうのだ。
「別に…。」
そう夕が適当にはぐらかすと、
「…本当に?」
と、ともよは身を乗り出して聞いてきた。すごいプレッシャーだ。
「…ちょっと足が重い気がする。」
なんとなく剣幕に圧されてそう言うしかなかった。嘘では無い。本当にそんな気がした。
「どの辺?」
ともよは躊躇も無しに夕の足を探り出した。慣れた手つきだ。噂によるとともよは時間が空くとマッサージの講習を受けたり、本で勉強したりしているらしい。確かに上手いなと前々から思ってはいた。
「ふくらはぎのとこ。」
夕がそう言うとその辺りを軽く圧迫したりしている。
「確かにちょっと張りがあるね。…どうしてだろう。今日始めから?」
ともよはそう言うと、マネージャーの後輩に指示を出してテーピングテープを取りに行かせた。
「いや、走ってから。」
大方、集中せずに走ったものだから変に力を加えてしまっていたのだろう。夕程のスピードになると、走る際に足にかかる負荷は並大抵ではない。少しでも気を抜いてしまえば、ちょっとの筋肉の力の遣い方の差が怪我につながってしまうのだ。我ながらトップアスリートとして失格だなと夕は自嘲した。
「ふ~ん。じゃあもっと張りが出て来るかもしれないから、危ないと思ったら棄権してね。こんな大会で肉離れとかしたら馬鹿みたいだよ。」
先ほど後輩に取りに行かせたテーピングテープを必要分だけ専用のハサミでカットすると、ともよは器用にふくらはぎの筋肉と腱に沿って貼り、仕上げに軽くマッサージを施してくれた。天下の日本選手権予選を『こんな大会』呼ばわりするこの女の肝っ玉は、一体どこから溢れてくるものかと思った。
「分かってる。はじめからそのつもりだしな。」
夕は当然だろうとでも言うように顔を伏せた。
「100mのアップはどうする?すぐ予選だけど。」
ともよはそう言うと、足だけでなく背中と肩のマッサージもしてくれた。「相変わらず全然ハリがないよね」などとつぶやきながら。
「体操と流しだけするよ。」
そう言いながら、夕は結局ともよに身を任せてしまった。他の男がこれにころっとやられてしまう気持ちはなんとなく分かる。そういえば以前前山が鼻の下を伸ばしていたのを淳と信也がからかっていたっけ。多分自分も普通なら、そうなっていたかもしれない。
「分かった。無理しないでね。」
全身のマッサージが済んだところで、ともよはそう言って離れて行った。
夕も立ち上がって軽く伸びをした。ともよがちょっと離れた場所で「先生には私から言っておくから!」と言っていた。夕は軽く手を挙げて了解の合図にした。
ベッドを降りて適当にストレッチをしてみると、脚の重さはあまり変わらないが、それ以外の部位は驚く程軽い。やはりあいつは大したものだと夕は感心する。実際、この大会の扱い方も一流の指導者である富田や夕本人と全く遜色なく、身体に関しても的確なアドバイスをくれる。マッサージもこれほど上手い。この世にマネージャー選手権なるものがあるとしたら、ともよは間違いなくその上位にランクインするだろう。
と、そんなことを夕は考えていた。
テントでは他の部員達が他愛ない話をしたりプログラムを見て騒いだりしている。夕は奥で話をしている前山に目配せをして、「アップ行くぞ。」とだけ言った。
前山は「あ!はい!」と言って慌てて準備を始めた。
前山も同じ短距離なのでアップは一緒に行う。夕には及ばないが、彼も優秀な選手だった。記録は県内なら二年の中ではトップで、三年を含めてもベスト5には入る実力を持っている。しかしそんな選手でありながら、どうもカリスマ性に乏しく周りから過小評価されがちだった。本人もそれが悩みだと言う。
アップ用のサブトラックで体操をしている時、前山が夕に聞いて来た。
「先輩今日調子悪いんですか?」
伸脚をするとふくらはぎ付近の筋肉がぴんと突っ張る。同時に淡い痛みを感じる。これは確かに、調子が良いとは言えない。
「そうだな。今日は100の予選とリレーだけにするかもな。」
100の力試しの為に一本と、あとは団体競技であるリレーだけは外せない。それを聞いた前山は「マジですか!?」と無駄に驚いて見せた。
「大袈裟に喚くなよ…。ここで怪我は出来ないだろ。総体まで一ヶ月切ってる。」
正直言って夕はそんなものどうでもよく思っているのだが、体面上それがベストな答だと思った。
「そうですか…。」
前山はなぜか落ち込んだような声をだした。夕はそれに少しいらついた。
前山の実力を考えると、夕が居なければ順位が一つ繰り上がる。つまりそれだけ上位が狙えるということなのだ。二年である前山が県選で上位入賞したともなると、周囲からの評価はぐんと上がるはずだ。夕にとってはどうでもいい大会で、棄権したからと困ることなど何もない。夕が棄権したことで前山に降りかかるデメリットなど何一つ無いのである。
夕は平生、そういった人間が嫌いだった。同情した振り、同調した振り。本当はどうでもいいと思っているくせにまるで我が事のように一喜一憂する振りをする人間が大嫌いだった。
とはいえ、そういった人間は今やその辺に溢れているのが実状。逆にそう振る舞わなければ『あいつは性格が悪い』というレッテルを貼られる。自分の本心を何処までも隠し続けなければいけない、窮屈な世の中。夕はそれに辟易していた。
しかし、夕の日常は‘そういった人間の振り’だ。夕もまた、そんな世の中に同化しつつある。或は、わざと同化している、というべきか。
夕はそんな自分を少し軽蔑した。
前山が流しに行っている間、そんな事を考えていた。最近はこうやってモノを考えることが多い気がする。今までは何も考えないように、何も見ないように、何も感じないように生きてきたから、思考することが新鮮に感じた。一体どうして最近はこんなことを考えるようになったのだろう。夕は、そう思ってその原因に、なんとなくあいつの顔が浮かんだ。バカバカしい。そう思って顔をあげた。
その時だった。
いきなり誰かにガバッと後ろから抱き着かれた。夕は最初何がなんだかわからなかった。
その正体不明の誰かが「センパイ」という声を出してようやく、それが武人だと理解できた。
理解した瞬間、体内の血液が一気に顔に集まるのが夕には分かった。その辺には短距離のアップに来ている連中が大勢居たが、武人はお構い無しだった。
「た、武人?なんだよ、いきなり…。」
恥ずかしくて後ろを見れない。武人の声が耳に当たる。
「先輩、怒ってるんすよね。俺、なんか嫌なこと言ったんすか…?だったら、謝りますから機嫌直して下さい。」
夕はこの大衆の面前でとんでもない状況になっている事の恥ずかしさと、武人に抱かれていることの驚きの両方で蒸気でも噴きそうな頭の中、『あいつ』の言葉が重なった。
『夕、何怒ってんだよ…。俺がなんか言ったんだろ?言ってくれよ。謝るから…。』
あの時「あいつ」もそう言った。
同じだ。全部。
思い出して少し頭が冷めて、少しずつ冷静になれた。とりあえずこの状況をどうにかしなければならない。
「つうか、離れろ!気持ちわりぃだろが!」
夕はそう言って大げさに身をよじった。武人は夕を解放した。
自由になって夕は武人に向き直ってこう畳み掛けた。
「別になんも怒ってねぇよ!ちょっと足の調子が悪いから気分悪いだけ!お前ごときが俺の気分悪くできると思うなよ。自惚れんな!」
最後の台詞はちょっとキツすぎたかと思ったが、どうも武人にはその部分は聞こえていなかったらしい。武人の顔は見る見る輝いて行って、最終的にいつかの子供みたいな表情が戻ってきた。
「ホントっすか!?怒ってないんすか?? …良かった~。俺先輩怒らせちゃったのかと思ってめちゃくちゃ沈んでたんすよ~。」
そしてそう言って、夕にかるくハグを求めてきた。夕はそれをひょいと躱して、「気のせいだよ馬鹿。」と言って武人を押し返した。
「うっす。ちょっとハズイっす。」
そう言って武人は頭を掻いた。「てゆかなんで逃げるんですかー?」とか言ってまたハグを迫ってくるので夕は「うわ、キモイ!来んな!」と言って軽く逃げてみせた。そして、自然と笑えてきた。面白い。楽しい。久しぶりに感じた気持ち。
さっきまでは死ぬほど暗かった武人が、いつもの明るさを取り戻していた。それは多分、自分も同じなのだろうと、夕は心の中で思っていた。
暫くしたら前山が帰って来た。
初対面という訳ではないがあまり仲良くはなかった筈の前山に、武人はいきなり「あ!お前は俺の積年のライバル前山弘樹!」などと言って絡みだした。最初は前山も戸惑っていたが、すぐに武人のキャラに打ち解けていた。
そのまま夕達は100mの予選に出て、三人とも準決出場を決めた。
しかし夕は100m予選を終えても足の調子は変わらなかった為、宣告通りリレー以外の出場を棄権することになった。
それを受けて武人はなんかぶーぶー不評を言っていたが。
武人も前山も100m決勝には惜しくも出られず、リレーも夕の不調もあって決勝では六位だった。
県選自体は次の日二日目があったが、夕は足のこともあり結局200mもマイルリレーも出場しなかった。一日通してずっと待機場所で棒高跳びに出ているキャプテンを見ていたので、特に誰と絡むことなく一日が終了した。
実際のところ、夕は揺れていた。
武人と一緒にいることの楽しさと、その先に待っている切なさ。
何より、あいつには彼女がいる。あいつは、「普通」なんだ。
…好きになっては、いけないんだ。
夕は心の中で、何度も何度も、その言葉を反芻した。