第三話 「エデンのりんご」
件の店から走って約5分、大通りから一本入った道に沿った小洒落た団地。鉄道の駅のすぐ近く。夕の家はそんな場所に在る。
息を切らして彼らがそこに到着した頃には、もはや傘など意味を成さないほどに全身ずぶ濡れだった。
「マジありえねぇ…。」
家の前の雨の当たらない場所で、着ていたシャツの裾を絞ると、ジャッと雨水が湧き出した。武人も同様にジャージの裾を絞って騒いでいた。
「それにしても、なんかオシャレで良い感じのお家ですね~。」
「小さいのが球に傷だけどな。」
呆れたように言いながら、玄関の鍵を開けた。扉を開けると、そこには靴が一足も並んでいない。日曜の一般家庭には珍しい光景だった。
「先輩今日はご両親いらっしゃらないんすか?」
「いや、今日はたまたま。二人とも会社の都合で夜まで帰らないんだとさ。不景気で日曜も駆り出されてる。」
夕の親は共働きだった。父親は有名スポーツメーカーのデザイン製作の会社に勤務し、母親は化粧品の店頭販売員をやっている。
「兄弟とかは?」
「俺一人。」
「独りっ子っすか!楽そうですねぇ。」
「暇なだけだよ。」
水を吸って重くなったスニーカーと靴下を脱いで、家に上がる。しかし武人は戸惑ったように家の外で突っ立っていた。
「何してんだよ。早く上がれよ。」
「え、でも俺こんなんすよ!汚しちゃいますし…。」
「ばーか。逆にそんなんで電車乗れねぇだろ。第一俺も濡れてんだから変わらねぇよ。」
武人はそれを聞いて成る程といった顔をして、じゃあお邪魔しま~す、と申し訳なさそうに敷居を跨いだ。
「ちょっと待ってろよ。」
夕はそう言って、武人を玄関に残して家の中を進んだ。リビングのクローゼットを開けて中から厚手のタオルを二枚取り出すと、一枚でガシガシと頭を拭いて、シャツとタンクトップを脱いで上半身裸になった。タオルを首にかけたらそのまま洗面所にある洗濯機に今脱いだ物を突っ込んで、また玄関に戻った。
「ほらよ。適当に拭いて。」
言ってタオルを武人に投げた。反応が遅れたのか、手で受け止められず頭にばさっと掛かった。
「わ!ありがとうございます!なんか本当お世話になっちゃって。」
武人はスパイクの箱を玄関の隅に置くとそのまま頭を拭いて、夕の方を見てしばらく眺めてから言った。
「先輩やっぱりかなり筋肉質っすね…。服着てると分かんないけど、腹筋とか胸筋とか物凄い…。」
何も考えずに上半身裸のまま来てしまったが、そう言われると、なんだか気恥ずかしかった。
「うっせぇ!ジロジロ見んなっ。そんなん良いからお前も脱げ。一緒に洗っちまうから。」
「え~、先輩のエッチ。」
「黙れ。」
武人はへ~い、と言いながら、ジャージと一緒に中に着ていたTシャツも脱いだ。
細身ながらも良質な筋肉に覆われた半身が露わになる。陸上をしている者特有の端正なボディに、夕は少し見とれてしまった。なんとなく直視出来ずに、後ろを向いて、
「靴下も脱いで付いてこい。洗濯機こっち。」
そう言ってまた洗面所に向かった。
武人は後ろでウス、と唸って家に上がるとき二度目のお邪魔しますを言ってから、夕の後ろを付いてきた。
家の中を上半身裸の男が二人連れ立って歩いている図は、中々に滑稽なものである。
実は夕はここで少し当惑していた。家に友人を招いたのは、相当久しぶりであったし、また、須らく深い友人関係を絶ってきた筈だったのに、武人を家に上げる事になんの迷いも抱かず、至って自然な行動として行っていた。
これは夕にとって、とても不思議な事であった。
あくまで奴との関係は、「先輩と後輩」のものでなければならない。今の自分の行動は、限りなくそれを逸脱しているのではないか。
だから、夕は当惑していた。
奴に絆される訳にはいかない。
理解してはいたが、夕の心は何かを叫び続けていた。
「ズボンも乾かすから脱げよ。履くもん貸してやるから。」
洗濯機のスタートボタンを押しながら夕は言った。
「まじっすか~?予想はしてましたけど…。」
武人は案外すんなりと下も脱いでトランクス一枚になった。流石はスプリンターといった感じで、その毛の目立たない太腿やふくらはぎの筋肉のラインは、美しさすらあった。そしてその青地のトランクスの中心部には、男性特有の膨らみ。
夕は出来るだけそれらを見ないようにした。
これはただ単に義理でやっているだけ。夕は自分に言い聞かせた。
武人の濡れたジーンズを乾燥機にほうり込み、摘みを適当に回して「とりあえず俺の部屋行こう。」と言った。
夕の部屋は階段を上がってすぐの部屋だった。扉には、金色の小さなプレートが嵌まっていて、そこに『YOU』と言う文字が彫り込まれている。
ドアを開けるとそこには全く物が下に落ちていない必要最低限の家具が並ぶ八丈部屋があった。
「へ~、流石先輩。お部屋も綺麗っすねぇ。俺の部屋なんて立つ場所すら無いっすよ。」
そう言ってトランクス一枚の武人は、ぺたぺたとフローリングを歩いて来る。
夕は据え置きのタンスから適当なTシャツとジャージを引っ張り出して武人に投げた。武人は「わ!先輩の服!こんな体験中々できないっ。」と興奮気味だった。
自分も適当な普段着に着替え、夕のジャージに身を包んだ武人に、ベッドにでもかけとけ、と言って夕は自分の椅子に座った。武人は依然嬉しそうで、「失礼します!」とか言って言われた通りにベッドに腰掛けた。キョロキョロと回りを見ていたかと思ったら、武人の視線が一点に止まった。そこには、壁に立て掛けるように一本のアコースティックギターがあった。最低限度のアイテムしかないその部屋にとっては、明らかにそのギターは異彩を放っている。
「先輩ギター弾くんすか?」
武人は興味津津と言った風に聞いてくる。夕はなんとなく、片づけておけばよかったと嘆息した。
「趣味程度にな。」
中学の頃に当時一番仲良くしていた友人に貰ったものだった。ボディはブラックで、アンプに繋げば音を大きくすることもできる、いわゆる『エレアコ』と呼ばれるものだ。夕は人並みに音楽に興味があったし、中学の頃にはこのギターを弾いてバンドの真似ごともした。まさに若気の至りだったと思う。
「もしかして弾き語りなんかも出来るんですか?」
夕が明らかにめんどくさいという顔をしているにも関わらず、武人は気にせず追い打ちをかけてくる。夕は特に読みたいわけでもない読みかけのファッション誌を開くと、適当にペラペラとページを捲ってみた。それでも当人はずっと目を輝かせているので、なんとなく居たたまれなくなって結局口を開いた。
「コードが解れば大体な。」
「へ~。やっぱり先輩かっくいいっすね~。ちょっとやってみて下さいよ!」
ほら見たことか。夕は自分の悪い予感が当たったことを嘆いた。なんとなくこいつのことだからやってみろとか言うのだろうと。
「嫌だよ恥ずかしい。」
いかにも興味無さげに、夕はそう吐き捨てる。
「え~、そこをなんとか!」
武人は顔の前で手をこすり合わせてみるが、夕は「いやだ。」の一点張りで全く動く気配は無かった。
武人は「ちぇ~っ」と舌打ちのような声を出して夕のベッドに倒れ込んだ。すぐに「あ、スイマセン。」と言いながら起き上がったが。
「お前兄弟いるんだな。」
夕は唐突にそう聞いた。そういえば先ほど武人が一人っ子を羨ましがったことを思い出したのだ。
「あ~、妹が一人いますよ。今中二なんすけど。めちゃくちゃうざいっすよ。」
「中学生は大体ちょっと不安定だからな。」
そう言ったら武人は何かを思い付いたみたいにまたキョロキョロしだした。
「どうした?」
訝しんでそう聞いたが、次の言葉に、夕は凍った。
「中学の卒業アルバムとか、無いんすか?」
迂闊だった。自室に招けば、こういった話題になる事は簡単に予想できたはずなのに。
夕には、武人にそれを見せることが出来ない大きな理由があったのだ。
「こういうときは卒アルですよね~!さ、どこっすか?」
武人はまたもやテンションが上がってきている。夕の額に冷や汗が浮かぶ。
「あ~、卒アルな。ごめん。ない。」
夕はそう答えるしか無かった。出来るだけ平淡に、動揺を見せずに。
「え、嘘付かないで下さいよ。無いって事は無いでしょ~。」
武人は依然ベッドの上で周囲を見渡している。
「マジで無いから!前に間違えて雑誌と一緒に捨てちまったんだよ。」
全くのウソだった。こう言うのを口から出まかせと言うのだろうか。夕は流石に無理があるかと唾を呑んだ。流石にこんなウソに引っかかるバカではないだろう。
しかし武人は「え~、それは大分間違えましたね。」と言ってあっさり信じて夕は少し肩透かしを食らった気分だった。
「マジであれはミスったよ。」
ハハっと渇いた笑いを見せて、「そういえばさっきの妹の話、聞かせろよ」と言って夕は話題を逸らした。
武人は「妹ですか~?」などと言って嫌そうな顔をしたが「え~っと、名前は優美華って言うんすけど…。」と話し始めた。
夕は内心胸を撫で下ろすような気分だった。
そこから武人の妹のうざかった話や、親の話、学校の話と色んな話を聞いた。
しばらくそんな話を続けて、洗濯が終わってそれもタンブラに入れて渇いたら、それに着替えて武人は帰って行った。
雨はもう止んでいて、傘を貸す必要は無かった。
去り際に「楽しかったっす!また来ますね!」などと言っていたが、夕はそれが嬉しいようで恐ろしいような気もした。
武人のいなくなった自室で、勉強机の引き出しから夕は一冊の厚手の冊子を取り出した。
その表紙には「祝卒業」の文字があった。
夕はペラペラと冊子を捲り、あるページで止まった。
そのページは夕が中学時代に在籍したクラスのクラス紹介のページであった。夕はそのページにしばらく視点を落として、ぐっと眉を顰めた。
そして一つ大きく息を吐くと、パタン、と冊子を閉じた。
「捨てられるもんなら、とっくに捨ててるさ。」
夕はそう呟いてもう一度、その冊子を引き出しにしまい込んだ。
自分の中の誰にも見せられない黒いもやもやを、無理やりに押しこむようにして。
気が付くと闇の中を歩いている。彼は独りだった。
自分がどこに向かっているのか全く解らなかったが、その足は一人手に歩を進める。何かがその向こうにある気がした。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
暫くして、いきなり辺りが明るくなった。
小鳥が囀り陽光は眩しく、咲き誇る花々と一面の野原。そこはまるで楽園のように美しい場所だ。
目の前には大きな木が一本あった。見ると美味しそうな赤い実をつけている。
彼は、その実を食べてはいけない事を知っていた。誰に教わったわけでは無いが、何故か本能的に理解していた。
しかし、彼はどうしてもその実が食べたかった。
それがどれほどに甘美で、至福な味を持つのか、知りたくて仕方が無かった。
いけない、とは頭で理解していても、彼の手はその実に伸びた。
パキっと枝から実を摘むと、そのこの世の物とは思えない程に赤く熟した実が彼を誘惑する。
シャリ、夕は、それを一口かじった。
瞬間、辺りはまた真っ暗になった。
赤い実は、いつの間にか腐り果てていた。あの美しかった面影は何処にもなく、ただおぞましい異物がその手にあった。
口の中は砂で一杯になっていた。どれだけ吐き出しても、いつまでもジャリ、ジャリ、と口の中で不快な音を出し続ける。
咽て地面に手をつくと、そこはいつの間にか沼だった。手はどんどん吸い込まれていき、足もいつの間にか動かない。
どうすればいい?
そう思って、ふと顔を上げた目の前には、「あいつ」が居た。
「あいつ」は、ただじっと夕を見る。
気味の悪い物を見るような、化け物でも見るような、あの目で。
夕は、ただただ無心に叫んだ。
恐怖を。
孤独を。
悲痛を。
目を開けると目の前にあるのはいつもの天井だった。
夕はムクと起き上がり。身体に掛かっている布団を足元に追いやる。
なんだか気持ちが悪い。身体は汗でべたついていた。
夕は額に手を置いて、一つため息を吐いた。前髪が額に纏わり付いていてこれも欝陶しい。
あの時の夢。最近はあまり見なくなったのに。
まぁ、原因はやはり、あいつだろう。
夕はそう思い立って、途端「ふふっ」と小さく笑った。
大丈夫だよ。夕。もうあんな過ちは犯さない。
一時の至福の為に全てを台なしにするなんて、もうしない。
『もう誰も好きにならない。』
あの日、そう決めた筈だ。
だから、…武人は、ただの後輩。あいつも、俺にとってはただの他人。『友人A』と、何も変わらない。
夕は自分に、そう言い聞かせた。