第二話 「非日常のきっかけ」
競技場からバスを飛ばすと、ものの10分ほどで海に着く。海水浴シーズンとは時期が外れているため、その砂浜は閑散としていた。
陽光に水面は煌めき、潮風が肌を擽る。しかしそんな神秘的な情景も、夕の目には薄ら寒く見えた。ほんの30分ほど前にここに来ていたらあるいは、また自然の美しさに感嘆出来たのかもしれない。
*
「香奈っす!付き合ってるんすよー俺たち。」
にししっと恥じらいの無い笑みを浮かべて、武人はそう言った。香奈と呼ばれた女は「だからそういうのやめてって!」と怒る振りをするが、紅潮した顔を見る限り、満更でもないようだ。
そうか、こいつもか。夕は眼前で繰り広げられるやり取りを見ながら、下手な期待に胸を踊らせていた自分を嘲笑する。そんな都合の良い話があるはずがない。そもそも、こいつは一つ後輩で他校の人間だ。拭い切れない隔たりがある。期待すれば期待するほど、痛いのは自分なんだと、あの時すでに悟っていた筈だったのに…。夕はふふっと笑って、いるはずが無いと思っている神様に感謝した。今回は、こんなに早く気付かせてくれてありがとう。
「香奈も知ってると思うけど、新藤夕先輩。ほらほら失礼の無いように!」
そう言って武人は香奈の背後に回って、後ろから背中を押す素振りをした。
「あんたに言われたく無いから。」
強い口調で言い放った後、香奈は夕に向き直って、
「九条香奈です。…あの、私も短距離専門で、今日は先輩の走り、参考に出来たらいいなと思っています。」
とハキハキ言った。横で武人が「誰だよ。」と言うのに、「うるさいな!」と怒嘲をあげながら、武人の脇腹にひじ打ちを入れた。武人は「ぐえ。」というわざとらしいうめき声をあげて舌を出しておどけて見せた。
目の前で行われるそれに、いつものナカマ達とのくだらない日常が重なる。こういう時の対応には慣れていた。また、見えない仮面を被れば良い。
「ハハッ!まるで夫婦漫才だな。香奈ちゃんだっけ?お前には勿体ないくらい可愛い子じゃん。」
笑顔、音量、言葉。どれをとっても完璧だった。誰が聞いても普通の会話。彼の内心に、どのような歪んだ気持ちが潜んでいるかなど、誰も知る由もない。
「そうっすか~?何処にでも居ますよこれくらい。」
頭の後ろで手を組んで、いかにも軽くそう答えた。それを聞いた香奈は「あんたはあたしに失礼。」と、武人の腹を今度はグーで殴り付ける。今度は本当に痛かったらしく、武人は「入った…。」という言葉を絞り出しながら、腹を押さえてうずくまった。香奈は素知らぬふりをしていた。
しばらくそんな問答を続けて、香奈が突然「そうだ!もう集合時間だから武人を探してたんだった。」と言ったので、三人で荷物をとりに戻り、バスに向かった。夕は終始面白くもない二人のやり取りにくすくす笑っていた。
これで良い。これが一番良い。俺とお前はただのセンパイコウハイ。…これで、誰も痛くない。夕は虚しさに悲鳴をあげる自分の心に、そう言い聞かせた。
*
「砂浜ダッシュは嫌いっす…」と嘆く武人を尻目に、一同は練習に励む。
今行われている『砂浜ダッシュ』とは、その名の通り砂浜上でダッシュを行うという、スポーツ全般に於いて定番中の定番メニュー。思うように走れないことから武人のように苦手意識を持つ者も少なくない。とはいっても、それなりの効果も期待出来るから、指導者側には好まれているらしい。
この練習はトップクラスの実力を持つ夕にとってもかなり厳しいものであるが、近場にこの浜辺があることから普段の練習でも頻繁に行っているので、他校の選手に比べれば慣れたものだった。
休憩中またもや武人が寄ってきて、「先輩彼女とかいるんすか?」とか「先輩随分こっちの方も遊んでるんでしょ~?」などいかにもヘテロの会話を持ち出す。それらには笑い混じりに当たり障りの無い返事をしてやり過ごした。
休憩が終わった後はビーチバレーのような遊びで今日の練習を締め括り、競技場に帰って解散した。
夕が帰ろうと荷物を纏めていると武人が、
「先輩今日は楽しかったっす!お疲れ様でした!また大会とかで会いましょうね!」
と言いに来た。夕はそれに小さく笑って「ああ、おつかれ。またな。頑張れよ。」とつぎはぎのような言葉を返した。聞いて武人はまた子供のように笑い、「それでわ!」と言って敬礼じみた事をして帰って行った。奴の背中を見送りながら、夕は、なんだか胸にぽっかり穴が開いたような、そんな感覚を覚えていた。
なぜかその日はいつになく、夜が寂しく感じた。
人のざわめきは時として個人の思考を妨げる。
一般的には忌み嫌われるものだが、夕はその騒音の中に居るとある意味安心出来た。
すでに人が多く集まった教室の窓際の机に、数人の男が固まっている。夕は中心に腰掛け、回りには四五人が立っていたり、机に座っていたりした。
「春休みの課題終わった?」
「数学以外ね。」
「今日最終日っつってたじゃん。」
「あれ他のと比べると無駄に多いしやる気出ないんだよ。」
「しかもやってもわかんないし。」
「確かに。」
アハハ という二三人の笑いが聞こえる。1番乾いた声は夕のものだ。
「そういえば昨日の…。」
誰かがそう言いかけたが、始業のベルが言葉を切った。
夕の回りにいた人間は、「始まった始まった」などと言いながら方々自分の席に戻って行った。
間もなく担任の教諭が教室に入って来て、出席をとった。
夕は、何ともなしに学校生活の中に居た。
時間は矢のように過ぎる。いつの間にか新一年の入学式は終わり、同時に始業式も終わっていた。
寂しい夜はあの日よりずっと続くが、その理由には依然目を閉じたままだった。
三年になったら、教室が三階になった。海が近く小高い丘の上に立つこの学校は、三階から窓を覗くと家家の奥にほんの少しだが海が顔を出す。とは言っても、この季節は黄砂が酷く、あまり見えないのだが。
それでも夕は窓の外をぼんやりと眺めていた。ふと、小さな鳥が二羽飛んでいるのが見えた。
よくは見えないが、多分雀だろう。
二羽は戯れるように上下し、暫くそのままおぼつかない浮遊を続けて電信柱から伸びる電線につかまった。
鳥には意識があるのだろうか。
夕はなんとなくそう思った。
鳥だけでは無い。猫も、犬も、虫も、植物も。
万物には一体、「意識」というものがあるのだろうか。
人と同じように、「思考」することが出来るのだろうか。
これがもし、人間にのみ許された特権だと言うなら、人とはなんと面倒なものを授けられたものだろうと、夕は思う。
意識を持つが故に悲しみに沈み、怒りに震える。
鳥があれほどにも優雅なのが、意識を持たないが為だと言うなら、こんな面倒なものは無い方が良いのではないだろうか。
いつの間にか、あの鳥達はいなくなっていた。
*
「しゃす。」
競技場に出る扉を開けながら、夕は一礼した。そこに入る時は決まってそう言う。語源は『お願いします』だがどこかで壊れたらしい。
ここの競技場は入口がエントランスになっており、そこも電光掲示板があるようなハイテクな競技場とは格が違うほどにみすぼらしい内装だ。色の付いたアスファルトに固いソファーがいくつか並んでいるだけ。場内ではタータンの中心の芝は数ヶ月に一度刈り入れがされるが、基本は野ざらしだった。おかげで使用料は無料も同然である。学校からは自転車を飛ばせばものの10分程で着く。
放課後の部活となると時刻は夕方になる。4 月とはいえまだあまり日が長くないから既に空は朱く染まって来ていた。
荷物を適当にタータンの上に放り、軽く伸びをした。後ろでぞろぞろと部員が入って来て、あの軽い挨拶をしているのが聞こえる。
間もなくキャプテンが集合をかけ、競技場に対してしっかりした挨拶を全員でやってジョグに移った。
全部練習が終わってダウンが始まる頃には、もうすっかり日が落ちていた。
そのまま解散して、家の方向が一緒の信也と連れ立って帰る。
夕の一日は、この繰り返しだ。
実際の所、夕は「学校」という環境は嫌いではなかった。
授業に出て前に立つ教師の話を聞いて板書を写してさえいれば、嫌でも時間は過ぎていく。
休み時間には人並みにトイレに連れ立って意味もない話をしたり、昼食時にはすぐ売り切れるパンを買うために購買に走る。
そして部活の時間になれば、ただ無心に100mのタータンを蹴った。
それらは全て、夕の心の孤独感を紛らわすための一時的な儀式であり、その時間中は確かに、自分が異常者であるという心の枷を払拭する事が出来た。
また、夕は常日頃多くの人間と行動を共にした。
それは行動する際の人数ではなく、ユウジンとして付き合っている人間の数だ。
分け隔てなく人と接し、誰とでも話をする。それは他人が一見するとただ夕が八方美人であるように映る。
しかしこれは夕が特定の人間との関わりを深くすることを恐れたからだった。
深い関係になればなる程相手に重大な秘め事をしているという負い目を感じてくる。それは夕の心の孤独感を助長し、ある種の虚無感を与えた。
夕が多くの人間と付き合うのは、付き合う人間の数に乗じて一人一人との関係性が希薄になり、深い人間関係を形成する必要がなくなるからだった。
ちなみに『陸上部』という閉鎖されたコミュニティの中では、容易に部員との関係が深まってしまう危険性があるので、夕は部内では極力個人行動を主としていた。
そういった夕の行動に疑問を抱く人間は誰も居ない。それが、夕の築いてきた『浅い関係』の効果だった。
夕の学校生活とは、そういったものだ。新しい学年に上がっても、その生活に狂いは無かった。
いや、無い筈だった。
五月も間近に控えた頃の日曜日、部活も休みだったので夕はあるスポーツショップに来ていた。
そこの陸上スパイクの棚で、あるスパイクに手を伸ばし裏返っていた値札を返した瞬間夕は眉を顰めた。
「にまんきゅうせんはっぴゃくって…ねぇ…。」
需要の少ない陸上グッズは競技人口が多いサッカーなどの商品より些か値が張る。専門色が強ければ強い程その傾向は顕著だ。
夕が触れたスパイクは短距離専門のスパイクで、シルバーをベースにしたなかなかスタイリッシュなデザインだった。
値段は29800円。高校生の小遣いではにわかに買える商品ではない。
夕はジーンズのポケットからちょっとしたブランド物の財布を取り出し、入れ物と矛盾する野口英世三枚を確認した。しばらく腕を組んで支出の計算をしてみるが、その方程式は永遠に解を示さない。
ボリボリと頭を掻いて「親父に頼んでみるか」と頭の中で呟いて、そのまま踵を返した。
店を出る途中にすれ違った店員に「ありがとうございました!またお越し下さい!」と何も買っていない自分に対して言われるのが、なんとなく後ろめたい気がした。
後方で自動ドアが無機質に閉まる音が聞こえる。途端、冷たい風が顔にかかった。ついこの間は夏かと思うほど暑かったのに、この日は上着がないと少し肌寒いくらいだ。空も打って変わって厚い雲が張っている。今にも一雨降りそうだ。夕は空を見て少し顔をしかめた。
さて、次は何をしよう。
時々何故かこういった気分になる。
やることはハッキリ決まっていても、いきなり宙に放り投げられたように行動に迷う。
正直、もはや家に帰る他やるべきことは無いのに、夕は動き渋っていた。
まぁ、とりあえず前に進むか。
それはそう思い立った時だった。どうも見覚えのある奴が目に入った。
武人、だ。
そのスポーツショップは夕の住む地域では最も大きく品揃えも豊富で、近郊地域に住む人間は『スポーツ』といえば大体此処に集まる。ここならば、他校の生徒と鉢合わせることはよくあることだった。
先程までは肌寒い気がしていたのに何故か気温が上がったような気がする。
夕の視界に映る武人は駐車場の向こうから携帯電話をいじりながらこちらに真っ直ぐ歩いて来ていて、どうも夕には気付いていないようだ。
細身のジーンズに上は何かのジャージ。いかにもスポーティブな武人然とした格好で、そのあまりの自然さに夕は少し笑えた。
当人は手前10mくらいまで来てようやく夕の存在に気付き、「あれ~!?先輩じゃないっすか!」とか言いながら大袈裟なリアクションをとった。夕は平然とした声で「オッス」と返した。
「俺もスパイク見に来たんすよ。ずっとなんか素人が使うみたいな奴使ってたんで。」
結局武人に付き合わされて夕はもう一度そのショップに入る事になった。さっき笑顔で挨拶された店員にまたしても「いらっしゃいませ!」と言われる嵌めになり、なんとなくムカついた。先程既に充分見たスパイクの棚を今度は武人が物色している。
「今何使ってんの?」
「ジオ…なんとかって奴っす。銀色の。」
「あぁ、ジオ?別に素人向けって事は無いだろ。」
素人向けってのはこんな奴、と言って夕は一番左端の見るからに頑丈そうなスパイクを取ってヒラヒラさせた。ちらと見えた値段は4500円だった。
「でもあれ短距離専用じゃないっすよね?何でも使える、みたいな。」
「まぁそこが売りだからな、あれは。じゃあ何、インクスとかにする?短距離専用の。」
言って実物を手にしてみせる。21980円。高い。
「いやー、色が嫌っすねぇ。なんか青っぽいのが良いんすよ。ん~…これとか。」
手にしたのはブルー主体のめちゃくちゃに肉抜きのされたスパイクだった。確かに種目は100・200と書いてある。19800円。
「ふーん、レイね。良いんじゃね? ただちょっとそれ足幅が広いから靴擦れしやすいかもな。」
「なんか先輩物知りっすね…。」
「年の功だよ。」
「え~、一年ぽっちの?」
「うるせー。てかどうすんの、それに決めるの?」
武人は少し考えて、もうこれで良いっす、と言って店員を呼んだ。
試着してみて「確かにちょっと広いっすねー」とかぶつぶつ言っていたが、結局「まぁいっか」という結論を下してレジに向かった。
そこで夕が武人を相当適当な奴だ、と認識したことは言うまでもない。
二人の背後で無機質に自動ドアが閉まる。この感覚は、夕にとっては本日二度目だ。
外は雨こそ降っていないが、依然雲行きは怪しいままだった。にも関わらず武人は妙にハイテンションで、「今日ちょっと寒いっすよね~」とか言いながらつい先程買ったスパイクの袋をぶんぶん振り回していた。
「お前、なんかテンション高いな。」
何気なしに夕はそう言った。すると、
「そりゃあ、だって先輩に会えて、それだけで嬉しいのに、まさか買い物にも付き合って貰えて、もう俺思い残すこと無いっすから!」
武人は臆面も無くそう答えた。そして、子供みたいに笑う。
「何言ってんだよ、ばーか。」
夕はそう悪態をついていたが、なんだか自分の顔が火照るのを感じた。
その時、ポツ、と顔に水滴が落ちた。それは次第に周囲の駐車場のアスファルトにも点々と小さな染みを作り出した。
「わ!降ってきたっすね!どうしよ、俺傘持って来て無いんすよ!」
空いている方の手で頭を覆いながら武人は言った。
「家は?」
「結構遠いんすよ。電車で30分くらい。200円で傘は中々買えないっすよね…。」
雨は勢いを増す。あまり考える時間も無かった。
「じゃあ俺の家すぐそこだから、少し雨宿りしてけよ。傘くらいなら貸してやるし。」
「え、まじっすか!? いや、それは流石に悪いっすよ!」
「別に良いから。駅も近いぞ。」
武人は少し考える素振りを見せたが、如何せん強まる雨に思考の猶予は無いようだった。
「じゃ、お言葉に甘えさせて貰います。」
「オゥ。じゃあ、とりあえず走るか。」
付いてこいよ、と言って夕は寸分待たずに駆け出した。
「ちょ、先輩速いっす!俺、荷物!」
そんな不評を言いながら、スパイクの箱を邪魔そうに抱え武人も夕の背中を追う。
雨はいつの間にか本降りになっていた。