5
朝、雀の泣き声で目が覚めた。春はまだ遠いというのに、ずいぶんと朝が早くなった気がする。東側の窓のカーテンの隙間から、うすく明かりが洩れるようになってきた。台所の方から、味噌汁を煮るにおいがしてきた。久しぶりの事だった。
「おはよう。」
私が台所に入ってゆくと、ちらりと視線をやって、ゆきえはそう言った。そうして、
「すいませんが、2階の窓を開けてきてください。」
と言ったのだった。昨日までのゆきえならこうして朝飯の用意をする前に、自分でみちるの部屋に行って窓を開けていただろう。どうした心変わりかと思ったりもしたのだが、その声が明るくて私はためらうこともなく2階に行った。
その部屋の引戸を開けると、この部屋の東側の窓からも薄く朝日が差し込んでいて、カーテンを開けた瞬間に、ぱあっと何かが消え失せたようだった。籠っていた何かがあっという間に朝の空気と入れ替わったのは、南側の窓を開けた時だった。昨日の夜、ゆきえはこの部屋を出るときに、仏壇の扉を閉めていた。小さなその扉を開けると、そこにはみちるの位牌があった。遺影に目を移せば、そこには柔らかな笑顔があった。
「おとうさん、ありがとう」
笑顔の口元から、みちるの声が届いた気がした。
「そろそろ出かけましょうか。」
ゆきえがそう言ったのは10時を回っていたと思う。こうして、肩を並べるように出かけるのは、何年振りだろう。この前がいつだったか私には思い出せなかった。そんな、私の思いに気がついたのか、
「病院へ行った時以来ですね。」
と、ゆきえは言った。そうか、あれ以来か、と私はようやく気がついた。ゆきえから妊娠したかもしれない、と聞かされて一緒に病院に出向いた時だった。あれから、もう5年以上の時が流れたのか…。
目の前に長い石段がある。行徳寺はこの上にあるのか、と、私は、ため息をもらしそうになったその時、ゆきえは、
「いきましょう」
そう言うと、途中で買い求めた白菊の花を抱え、歩み始めた。
「どうして、お寺の入口には石段があるか、あなたはご存知ですか。」
途中、山のようになったその場所を登る私にゆきえが訊いた。
「いや…。」
私がそう言うと、ゆきえは話し始めた。
「門をくぐって、こうして石段を登りながら、俗世に別れを告げるのだそうですよ。垢や埃を俗世においてゆくのだそうです。そしてきれいにならないと、寺には入れないそうです。」
「垢や埃…」
「ええ、垢や埃です。」
「……きみは私を責めているか。」
「今になってみて、ですが…」
「ん?」
「あなたの浮気を見て見ぬふりしました。」
「ああ。」
「私はそういうふうに育てられましたから。」
そう言われてあの時を思い出した。
――男の火遊びにいちいち口をはさむつもりはない――
義父は私にそう言ったのだった。
「あの時、私があなたを責めていたら、この石段を登る事はなかったのかもしれません。だから、私もこの石段を歩かなくてはいけないのですよ。きっと、私にもたくさんのものがついているのでしょう。心の中で、あなたを責めていた時もありましたから。」
『心の中で、』、そう言われて、その通りだろう、と私は思った。責められる方がどれだけ気が楽だったろう。それをしなかったゆきえは、妻の鏡だったのだ。だが、その強さが、折れて朽ちてしまいそうな智子と離れられない関係を作り上げてしまったのだった。途中、私は、石段の上から下を振り返った。俗世はもう見えなかった。
石段を登りきったそこには左右に数本の桜の樹が植えられ、寒々としたその枝ぶりの向こうに、本尊があった。その向こうにいくつもの墓石が並んでいた。どこだかわからぬ智子の墓をさがしていると、ゆきえが、あれでしょう…と言った。
墓誌には、確かに智子と水子の名があった。手向けられた菊の花は枯れていた。老母が備えたのだろうか。持ってきた白菊を供えるときになって、
「あなた、お願いします。」
とゆきえは言って、「わたしになんかやって欲しくはないでしょうから。」と、続けた。
花を供え、水をやり、線香をともして手を合わせる。私の横ではゆきえが同じように手を合わせていた。
「みちるがねぇ、言うんですよ。毎晩、みきおくんと遊んでいるって。」
「みきおくん…?」
「ええ、みきおくんですよ。この子…。」
そう言って墓誌に目をやった。
「……」
私はあの日、老母に教えられた子供の名前の事を思い出した。
「やはり聞いていたのだね。」
「ええ。でも、あの頃は、聞いていたというだけで、まったく頭には入りませんでしたけど。」
「私もだ。」
「ここへ来たんです。少しは気持ちがラクになりませんか。」
「どうだろうか。お前は、私を許せるのか。」
「いった筈ですよ。私はこういうふうに育てられたのだ、と。」
みちるちゃん。みちるちゃん。
今夜はどうしてはやいの。
ふたりでこれから遊ぼうよ。
とうちゃん、かあちゃん、寝たからさ。
ふたりでこれから遊ぼうよ。
毬投げ、お手玉、おはじきに、めんこに、ビー玉、こま回し。
ふたりでこれから遊ぼうよ。
了