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晴れ着のまま、その可愛らしさを自分には見せることなく、手の届かぬ所へ消えてしまったみちるの葬儀の日。朝からずっと小糠雨が降り続き、私の心の奥底にじっとりとした何とも云えぬ虚無な空間に私はいた。私は警察から何度も事情を聞かれた。そして、この日の朝、警察からの電話で、取り調べを受けていた智子が、クモ膜下出血で倒れた、と聞かされた。重体だった。まさか、私がこの葬儀を抜けて会いに行く訳はないのだ。

誰かがそんな事を思っているのではないか、と、私の心はさざ波だった。誰かが、小声で話しながらこちらを見れば、私と智子の事を噂しているのだろうと、簡単に推測できた。廻りだけではない。こうして座っている親族の席の左から、後ろからも、痛いほどの視線が突き刺さる。逢瀬の代償が、好奇の目に晒されながらこの場に座っている事だとしたら、私はとても平常心ではいられなかった。

そして、葬儀が終わった、ひとしきりの時間のあとで、私のところに義父がやって来て言ったのだった。

「落ち着くまで、ゆきえを連れてゆく。」

 と。

 私はその日から、この家に一人きりになった。

ここで一人で暮らすのは結婚前以来のことだ。なんやかやと慌ただしい葬儀の後で、ぽっかりとあいてしまった心の闇に

「智子が死んだ」

と、知らせにやってきたのは、智子の老母だった。

まだ、みちるの四九日にもなっていない雨の日だった。やつれたようなその表情の中に、疲れ果てているのは、この母も同じだとたやすく理解することはできた。玄関先で構わないと智子の母は言ったのだが、あの事故で玄関脇には大工が入っており、立ち話も聞かれてしまいそうで、家の中に招き入れたのだった。

母は決して私を責めなかった。責められることも覚悟のうえの事だったが、

「謝っても決して許されない事をしてしまった。」

 そう言って、小さな骨壷と七五三の笑顔の写真のみちるの前で震えながら号泣した。そうして、

「奥様は?」

と訊いたのだ。

「あれから、実家に帰っている。」

とだけ私が答えると、居ない事に安心したのか、老母は智子の事を話し始めた。

智子が、クモ膜下出血が原因で亡くなったのは、あの事件から四日後の事だった、という。あっと言う間に娘を失った老母は、今日、こうして頭を下げに来る事のためにすべてを処分したのだと云う。小さいながらも智子がやっていたあの店も、少し離れたところに持っていた、母娘2人の住まいだった古家も、全部処分してそこから、借金を清算して、残った現金のすべてを、みちるの遺影の前に差し出した。

「そんな事をして、あなたはどうやって生きてゆくのですか?」

と、私が問うと、

「智子の不始末を奥様は許さないでしょうから。」

そう言った。

「智子との事は私の不始末ですから。ただ、こうして失うまで、この子―みちる―の存在を忘れていたのかも知れません。今になって、ぽかんと穴があいてしまったようです。」

私はそう言って、思わず、

「すいません。」

と、小さく肩を落とす母に続けてわびた。

智子がみちるを奪ったが、智子にそうさせてしまったのは、私の思慮のなさに尽きる。そこまでわかっているのなら、なぜ智子と云う女に溺れたのだ、と世間は言うだろう。まさかこんなことになるとは、というのが私の本音だが、正直、飲み屋で働く女なら、まさかこんな真似はしないだろう。という思いがあったことも否定できない。

 老母は、みちるの遺影に線香を1本たてて、ふと言った。

「みちるちゃんは、なぜみちるという名前なのでしょうね。」

 と。

 ゆきえの妊娠が分かった時に、

「もしも女の子なら、私とおなじようにひらがなの名前にしてください。」

とゆきえが言っていたので、ひらがな3文字で何か良い名前が無いかと徹夜して決めたのだ、と答えた。私は、

『未散』

 という名前に、決して散り果てる事のない美しさを願っていたのだが、結局のところ、幼きうちに、咲く事さえも知らずに散ってしまったのだ…と、心のうちの無念を告げた。そして、散らせてしまったのは、智子ではなく、自分なのだ、と悔恨の気持ちも吐きだした。決して智子ではないのだと、自分に言い聞かせるように、そして、老母が傷つくことのないように、言葉を選んだつもりだった。

 ずいぶんと長い沈黙が続いた後で、

「ところで、」

と、私は言った。老母はうなだれるようにしていた首をもたげた。

「ところで、智子は、どこに葬られているのでしょうか。」 

老母は、

「なぜそんな事を聞くのか?」

と言ったような表情を浮かべた。

「一度、智子に詫びてきたいのです。どうか、場所をお教えください。」

私が頭をたれると、老母は言った。

「市内の行徳寺に。泣くなったあの子の父と一緒のところに。3人(、、)一緒(、、)なら寂しくはないでしょうから。」

「3人?」

「あの子…、智子、妊娠していました。」

「妊娠…。」

「ええ。多分、あなたの子なのでしょうね。何かきいていなかったのでしょうか」

「何も、何も聞いていませんでした。」

「気がつかなかった…というのですか。」

「すいません。」

 私は続く言葉が無かった。謝りにきたという智子の母に私はこうして何度も頭を下げている。

あの日、「しばらく会わない方が」、と言った私に、涙をこぼしながら、「残酷なひと」と言った智子の言葉は、自らの腹の中の子供についての言葉だったのか。そうだ、あの時、その後の七五三のお祝いの事ばかりに気を取られ、自分は別れる気などなかったのに、前夜の義父の訪問から気ばかり焦って、智子に対して思いやりのかけらもないような言葉を発してしまっていたのだ。あの時、私の後を追うように車を走らせた智子は、

「あなたの子はみちるだけではないのよ。」

と、私に告げたかったのかもしれない。「何も望んではいませんから。」と云った智子の心の中を想うだけで、私の心は裂けそうだった。

「きっと、みちるちゃんへの嫉妬だったのでしょうねぇ」

「みちるへの嫉妬ですか?」

「ええ、おなかの子供に名前をつけていましてね。」

「名前ですか?」

「そう、名前。」

「まだ3カ月にもならないお腹の子に、名前をつけていたのですよ。」

「名前…。」

「ええ、女の子なら、みき。男の子なら、みきお。」

「…」

「『未生』と書くのだそうです。」

「『未生』」

 私は、抑えきれずに泣いた。ただ涙があふれて。みちるの葬儀以来、押さえていた感情も全部はじけて泣いた。

 私はみちるには、決して散らない命を思ってみちる―未散―と名付けた。その名を智子はずっと感じていたのだろうか。智子は私にさえその事を告げず、自分の子には、みきお(みき)―未生―と名付けていたとは。

 未生は、生まれてくる事すら許されない、という意味だろう。あの日、「会いたい」そう言った智子は、その事を私に告げたかったに違いない。どうして、言ってくれなかったのか、と思う反面、自分にはどうする事も出来なかっただろう、という事実もある。結局のところ、智子に溺れた自分の責任なのだ。私は一度に大切なものを3人も失って、そして、今こうして、大切にしなければならないはずの人を2人、激しく傷つけているのだ。

「許してやってくだぁさい。どうにも昇華できなかったんでしょう。本当に許してやって…。」

 そこまで言うと、老母は言葉にはならなかった。だが、自分に向けられるその目には、

――お前だろう――そう、私を蔑むようなそんな冷たさを感じさせた。

 その日、智子の母が帰ったあとで、ふと台所に目をやると、実家に戻っていたはずのゆきえが何事もなかったかのように必死で酢飯を切っていた。

「みちるの好きな鮭のお寿司を作ってやろうと思って。」

ゆきえはそれだけ言うと、食べられるはずのないみちるのために、みちるの好物を一心に作っていた。そうして、それから、ゆきえは笑う事なく、私を許すこともなく、この家にいる。


 ガラガラガラ…。

 亡くなった両親の代からの家には不釣り合いにも思える、あの直した玄関の引き戸が鳴った。

 雑司ヶ谷にあるみちるの墓にゆきえがでかけて、帰ってきたのは16時を回っていた、と思う。ゆきえは、着物の胸の袷あたりを右手で押さえて、上がった息を平常に戻そうとしていたようだった。階段から降りて、

「どうした?」

 と訊くと、こちらにちらりと目をやって、土間にぺたりとしゃがみこんでしまった。

「おい、どうした?」

 もう一度訊いた。ゆきえは答えることなく、だが、私を見る目は、あの時の老母にも似た、生気のない憎しみだけで生きているようなそんな瞳だった。

「あなた、明日行徳寺に行ってください。私も行きますから…。」

「行徳寺…。」

「ええ、行徳寺です。」


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