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「あなた、明日、朝早くに出かけてきますから。」
「んっ?」
「いやだわ。雑司ヶ谷ですよ。先月も、先々月も行かれなくて。待ってますから、出かけてきます。」
「ああ、そうだったね。」
「男はすぐに忘れてしまうんですから、こまったもんですよ。」
「そんなことはないさ。」
「帰りに、いつもの甘い奴、買ってきますから。」
「ああ、わかった。」
「そうそう、みちる(、、、)の(、)部屋(、、)ですけど…。寒いんですよ、少し。このところ、あんなに温かい日当りの好いはずの部屋が、朝のぞきに行くと、冷気が漂っている感じで。暖房つけましょうか?ねぇ、あなた、どう思います?」
返事がない。夫は寝がえりをうちながら、布団を引きあげ背を向けている。寝てしまったのだろうか。まだ、話は途中なのに。
妻は――あれから――というもの、必ず、みちる(、、、)の(、)部屋(、、)という。一番日当りのいい、2階の和室に移してからというもの、みちる(、、、)の(、)部屋(、、)に毎日のように通い、夏には暑いからと簾をたらし、冬には寒いから、と火を入れる、という。何のために…。毎月のように雑司ヶ谷へと向かう。「待っているから」と言って。そうして、私は、いつも見て見ぬふりをする。母性というのは、抱けぬわが子のためにでも、ここまで出来るものなのか。
「じゃあ、行ってきます」
妻は朝早くからそう言って家を留守にした。こんな日は、私が妻の代わりにみちる(、、、)の(、)部屋(、、)へと向かうのだ。幼いころ、自分が使っていたその部屋に。足取りはいつも重い。あんな事があってから、その部屋は私にとっては気が重い。
ふすまを開けると、そこはまだ暗闇だった。東側には腰高窓があり、南側には、全面開放できる大きな窓がある。そこを開けると、広い物干し場があるのだが、洗濯ものを干してしまうとみちる(、、、)の(、)部屋(、、)に日が差さなくなるからと、妻はここにもう何年も洗濯ものを干す事をしていない。
「大丈夫さ。干したって。みちるはそんなことで機嫌が悪くなったりしないから。」
私がそう言うと、妻は聞こえなかったふりをする。そして、庭先に自分で拵えた物干し場に洗濯ものを並べている。
「なあ、みちる。どうおもう?とうさんには、かあさんが理解できないんだよ。」
そう言って、みちるのほうへと振り返ったのだが、みちるは、私にはけっして口を聞いてはくれない。妻は、毎日のように、今日はたくさんみちると話したというのだが、みちるは私を許さないのか、一度だって話してはくれないのだ。西側の壁に写真を掛けた。3歳の七五三の時の笑顔がそこにある。その脇にちいさな漆塗りの仏壇があり、さらに小さな位牌があった。
「なあ、みちる。とうさんはどうしたら、かあさんに許してもらえるのだろうな。教えてくれないか。」
心の中に封印したはずのあの日の事が、妻の出かけたみちる(、、、)の(、)部屋(、、)で蘇った。
あの日。2年前のみちるの七五三の日。みちるは妻の実家で誂えてくれた、緋色の綸子の被布を着ていた。その下には、白色の地に、金糸、銀糸で刺繍された振袖を着て、その着物姿は、とても可愛かった。いや、「可愛かった」などと言えば、妻は逆上するかもしれない。私はその姿をこの眼で見ることはなかったのだから。こうして、写真に残る、その無邪気な笑顔の写真でしか見た事が無いのだ。
私達夫婦には長い間子供が出来なかった。そして、ようやくみちるが生まれ、世間から見れば幸せに違いなかったのかもしれない。だが、実際には、子供に恵まれなかった何年かの間に、互いの気持ちは確実に、はっきりと離れていたように思う。
跡取りのために肌を合わせている事に、男の自分は行き場のない悲しみを感じるようになったのだ。ゆきえの作る、温かだけど冷え切ったみそ汁よりも、一人きりで食べる、在り来たりな定食屋がおいしく感じられた。冷たくても一人で眠る布団の方が優しく眠れた。
ゆきえはと言えば、事あるごとに「子供はまだ?」と、聞かれることに閉口していたようだった。笑わなくなっていったのもこのころからだった。
同じころ、仕事先の宴会でちいさな小料理屋を訪れた私は、その店を切り盛りしていた智子と深い関係になった。愛していた、と言えば嘘になる。だが、しっかり者の妻と比べると、折れてすぐにでも朽ちてしまいそうなその女を、ほうっておけなかった。男の性だったと言えば、それは言い訳なのだろうか。そうして、ゆきえがみちるを妊娠した。
それでも、私は智子との関係を清算しなかった。それどころか、私は、わが子の七五三の時も、
「ちょっと出かける、祝いに出かけるまでには戻るから。」
そう言って家を開けた。
昼ごろに神社に行くと言うので、それまでに戻るつもりだったのだ。
前の日、――祝い事があるから――と云ってあったのに、仕事場に電話をしてきて、「どうしても話したい事がある」と言って智子は譲らなかったからだ。
「休みの日に私が出入りしているようだ」、と私と智子のことが噂になり始め、妻はそのことに気が付いていたようだったが、私を責めたりはしなかった。それがかえって私の心を苦しめたのだが、それでも、気持ちが妻に戻る事はなかった。
だが、妻の父に呼び出され、私は、その女との事を問い詰められた。近所で耳にはさんだのだが、男の火遊びにいちいち口をはさむつもりはない。ないが、いったいどうなっているのか、と散々言われた。だから、少し離れることも考えて、店に出かけたのだった。
「しばらくは会わない方が…。」
私がそう言ったとたん、折れて朽ちてしまいそうだったその女は、店の掃除をしていたその手を止めて、はらりと一粒の涙をこぼしながら、
「残酷なひと。」
それだけ言って、ふっきるように言ったのだった。
「今日は帰ってくださいな。お祝い事なのでしょう。私は何も望んではいませんから。」
私は話し足りない気持ちを抑えて、
「また来るから。」
そう言って店を出た。
途中、妻から
「記念写真を撮りますから、髪を切って来てくださいね。」
そう言われていた事を思い出し、私は近所の床屋に寄った。あの時、私が床屋に寄りさえしなければ、あんな事にはならなかったのかもしれない。
床屋によって、自宅へ向かった。すっきりして、さあ、着替えるか、みちるの準備はできているのか、そう思って、自宅へ。
だが、家の前の様子がおかしい。警察の車が何台も止まり、救急車も止まっていた。不吉な気持ちが頭をよぎった。自分の家の駐車場まで車では進めず、近くにいた警察官に
「あの家のものだが」
と、運転席から窓を開け、自宅を指さし、言いかけたその時だった。
「秀雄さん、ああ、もう大変な事に。みちるちゃんがはねられて。」
と、義母が走りながらやってきた。びっくりした私は車をそのままに、自宅の門のところまで来た時だった。
見覚えのある赤い軽自動車が、門を突っ切って玄関に突っ込んでいた。玄関の中はガラスが割れおびただしいほどの血が飛びきっていた。
「みちるは?」
「たった今、ゆきえが付き添って救急車で運ばれた。」
「けがは?」
「頭を打って意識がない。」
「病院は?」
「県立へ運ぶって。」
「いったいどうして…?」
そう言いかけて、その赤い軽自動車に目をやった。ナンバーをみて、状況をみて、私はすべてを悟った。
「智子か…。」
見ると警察の車の中で、智子が震えている。両脇を警察官に挟まれて事情を聞かれているようだった。あまりの事に腰が抜けた私に、
「秀雄さん、ゆきえから電話だ。」
義父が電話を取り次いだ。
「もしもし、ゆきえ?」
「あなた、みちるが、みちるが。」
「どうした、今すぐそっちへ行くから。」
「みちるが、亡くなりました…。」
「なんだって…。」
「私は何も望んではいませんから。」
そう言った智子だったが、店を出た私を車で追いかけたらしい。まっすぐ帰ったと思ったのだろう。「床屋に行け」、と言われた事をしらない智子は途中、私を追い越して、私の家の玄関にそのまま突っ込んだ。突っ込んで、私の帰りを待ちわびて、私の車で七五三のお祝いに出かけるはずだった、小さなみちるを跳ね飛ばしたのだ。あっという間にみちるは、晴れ着のまま遠くへ逝ってしまった。
「みちる。久しぶりだったわね」
ゆきえは、雑司ヶ谷にある墓の前で、もう何時間もみちるに話しかけている。話しかけては、みちるからの返事を待っている。
「一緒にいこう、って、とうさんを誘った方が良かったかしらねぇ。」
「うん。一緒がよかった。」
「そう?かあさんだけでいいじゃないか。とうさんは、かあさんのことなんてちっとも心配してくれないからねぇ。」
「そうかな?」
「みちるだって、とうさんが嫌じゃないかい?」
「嫌なんかじゃないよ」
「そうかい?とうさんと一緒は嫌かと思って、みちるの部屋はニ階にしたんだけどねぇ。そんな必要はなかったのかねぇ。」
「最初はねぇ、一人ぼっちで寂しかったんだよ。」
「寂しかったのかい。それは悪かったね。」
「でも、大丈夫なの。」
「なんでだい?」
「……」
「おや、教えてくれないの?」
「…かあさん…あのね。」
「どうしたの? みちる…。」
「みちるのところには毎晩お友達が来るんだよ。みきおくんっていうの。いっしょに毬投げするんだよ。」
「みきおくん?」
「そう、みきおくん。」
――みきお君――
その名を聞いて、ゆきえは震えが止まらなかった。