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王立魔道研究所所属の彼氏くんチーッスwww

作者: 逆凪まこと

いかにもなザマァものを書いてみようとしたつもりが、ちょっと勢いが違う方向に飛び出ました。


タグがNTR?となっている理由は、読んでいただけるとわかるかと思います。


評価&感想ありがとうございます!


 王立魔道研究所から、研究員のアイリスが消えた。


 本来の提出期限を過ぎても資料が提出されてこないという報告があり、急いで本人に確認しようとしたところ、資料どころかその他彼女の担っていたすべての行程が止まっていることでその不在が発覚したのだ。

 研究塔をくまなく探したがその姿はどこにもなく、彼女の使っていた執務室は、最後に見た時のまま止まっている。

 

 いつからそうだったのか、薄く埃の積もった部屋なかで唯一、見覚えがない手鏡がぽつりと机に置かれていた。彼女のものではありえないとわかる美しく変わった意匠のそれを手に取った途端、それは起こった。


 《――記録鏡に保存された映像を再生します――》


 どうやら手鏡は魔道具であったらしく、触れた途端に術式が発動して鏡部分が真っ黒く塗りつぶされると、ガタガタという物音と共に男の声がポツポツと流れ出した。 


『――……応、開始中為録(あ、これもう録画魔法)魔道式(始まってる)? 否、単独為声(まだ音声だけか)


 独り言のような小さな声は、異国語のようだ。

  

念入彼王国語(一応、あちらの王国語)展開準備(の吹替と字幕魔法)語彙変換魔道式(も掛けとくか) ……ん、よしよし』


 一瞬ぱちっと鏡が光ると同時に映像の角度が変わり、ひとりの男性が鏡面に写し出された。

 根本が鮮やかな赤で、毛先に向けて黄色に変わっていく派手な髪色に、つり上がった細い目の奥には銀の瞳が収まっている若い男だ。その視線が正面を向くと、薄い口元がにやにやと挑発的に笑った。

 

『王立魔道研究所所員の彼氏くんチーッスwww

 君の彼女のアイリスちゃんですが、今どこにいるか知ってる? 先月から姿見えなかったでしょ? 実はオレがお持ち帰りしてましたーwww』


 他人を馬鹿にするような声でそう語り始めた男は、まだ20代に入ったばかりとわかる溌剌とした顔立ちをしている。

 華やかと呼ぶのが似合うほど整ってはいるが、耳にいくつも連なるピアスや首もとを開いた乱れた服装、そして踵を机に乗せるように組まれた行儀の悪い長い足が、男を軽薄に見せていた。

 彼の口の動きに合わせるように鏡の下部分にするすると表示されていく自国語の濃い赤の文字は、本人の声以上に下品で挑発的だ。


『アイリスちゃんは今朝までオレの隣で寝てたんだけど、今は向こうでオレのお友達とたくさん()()()()してまーすwww』


 嗤う男声の後ろから「や、やめてください……!」と高い女性の声が混じった。場所がいくらか離れているようで「だ、駄目……っ」と、弱々しい声は途切れがちだ。

 それに覆い被さるように、同席しているらしい複数の人間の笑い声が女性の声をかき消していく。

 ざわざわと背中に嫌な感覚が広がるが、映像の角度が変わることはないし、当然、変えることもできない。

 

『あ、聞こえたー? 今後ろで聞こえてる楽しそーな声がアイリスちゃんの声ね。めちゃくちゃイイ声してんでしょ、彼女www


 ねえ、今どんな気持ち? 愛しのアイリスちゃんを他の男に取られた彼氏くんどんな気持ち??www

 

 彼氏くんさぁ、自分の女をパーティーに連れてくるんなら最後までちゃんと見とかないと駄目だよ?www アイリスちゃん、テラスから落っこちちゃうんじゃね? ってくらいフラッフラしてたから、誰が連れてっちゃうかわかんねーよ? まあオレがお持ち帰りしてんだけどwww』


 ぺらぺらと男の口はよく回り、時折あがる語尾はあからさまに嘲りが交じっている。

 思わず握りしめる拳に力が入った。鏡を床に叩き付けてやりたい衝動が駆けめぐったが、アイリスの行方の手がかりを失うわけにもいかない。

 黙ったまま待っていると、腰かけた椅子の背凭れをギイっと鳴らしながら男は続けた。


『そうそう、彼氏くんってアイリスちゃんと同じ研究チームにいたんだって? そこで毎日朝から晩まで働いてたんだってね。研究員になってから家に帰れなくてずっと泊まり込みで、徹夜が続くこともあったんでしょ? おたくの国の王立魔道研究所が人手不足って本当だったんだね! 大変だねーっ!

 

 あっ、でも彼氏くんは忙しくて研究室にほとんど来れなかったんだっけ? 最近じゃ三ヶ月くらい会えてなかったんだってね。ん? 半年だっけ? やっばww そんな会えてないと顔まで忘れちゃいそwww』


 男の笑う声は、がさがさと表面を擦るような響きをしていて、聞く者を苛つかせようとしているのが明らかだった。

 狙いどおりに神経がかりかりと引っ掻かれている気分を堪えながらひたすら続く男の声を聞き続けた。

 

『そんな長ーいこと会えずにいたら、留守してる間アイリスちゃんが寂しがってないか心配だったでしょ?

 安心していいよ。今はオレがちゃーんとそばにいてあげてっからねwww 寂しがる暇なんてないからwww 

 オレが呼んだらベッドに来て、カワイー顔してよしよししてっておねだり顔するんだぜwww

 彼氏くんなんかよりオレのがイイんだってさwww ごめんね、女の子可愛がんの得意でwww』


 あっはは! と喉を反らして嗤う声は部屋中に響き渡るほどに大きく、ぐらぐらと煮立った油が体の奥から吹き上げそうになった。

 

 頭なかで沸騰する怒りが強すぎて、適切な罵詈雑言すらきちんと浮かんで来ない。気分が鏡を挟んで反転しているかのごとくガタガタと椅子と机を揺らしながらひとしきり笑った男は、こてんと首を傾けた。

 女と遊び慣れている、いや、食い物にしているのだろうと、妖しい色気を持った悪びれもしていない顔でわかる。

 話から察するに、この男は巧みにアイリスから事情を聞き出し、寄り添うかのような甘い言葉で惑わせたのだろう。素直で純朴な彼女は、男にとってカモであったに違いない。世間知らずが裏目に出たのかもしれないと思うと舌打ちが漏れそうになる。

 

 アイリスもアイリスだ。あんな男にべらべらと事情を話すなんて迂闊が過ぎる。しかも男の語り口では我が国の研究所が無能であるかのようだ。彼女が戻ったら余計なことを話すなと言い含めておかなければ。

 

 そう思っていると、鏡に映る男は足を組み変え直し、踵で艶やかな木の机をガンッと鳴らした。まるで胸を叩くかのような音に一瞬びくりと体が強張る。

 気のせいかその目の鋭さを増した男は、憐れみのようなものをその笑みに重ねた。

 

『それからさー、彼氏くんてスレンダーが好みなのかな? ガリッガリに痩せた子が好みとか変わってんねwww 

 残念だけど、アイリスちゃんはもうガリッガリじゃなくなっちゃったからwww もうね、彼氏くんが見たら絶望する感じに変わり果てた姿になっちゃってるよ、今www


 あとなんだっけ? そうそう、アイリスちゃんに聞いたんだけど「女は人前で食べるところを見せるものじゃない」ってのがそちらの国(パワハーラス王国)の常識なんだって? もしかして彼氏くんって百年前くらいの人? 保守的すぎっつーか、前時代的って言われん??』


 あの女そんなことまで話したのかと、今度こそ堪えきれない舌打ちが漏れて出たが、それをかき消すような大きさで、男の組んでいた足がほどかれて両の踵がガンと机を叩いた。

 

『まあ百歩譲ってそうだとしてもさぁ、人前って定義がバカすぎじゃね? 家に帰ってないってことはずっと職場にいたんでしょ? 完全に誰の目もねぇのってご不浄(トイレ)くらいしかなくない?』


 怒涛の勢いで一方的にまくし立てた男は、そこでさも今気付いたかのように『ああ!』と手を打った。

  

『もしかして、痩せてて力が出ない子くらいしか捕まえておけないからかな?? ハハッ、ダッサwww

 それか、自分だけがアイリスちゃんにごはんを食べさせてあげる特権を独占しようとしてたとか? ごめんねwww  その権利もうオレがもらっちゃったからwww

 

 最初は嫌がってたけど、今ではちゃーんとオレの言うこと聞いて、大人しくちっちゃくて可愛いお口をあーんって開いて、オレからのごはんたっくさん食べてくれるよww』


 こんな感じで、と男が口を開くと、その赤く健康的な口腔に、真ん中にピアスを埋めた舌がちろりと動き、美しく並んだ歯列と狼のような鋭い犬歯がぎらりと覗く。


 次の瞬間まるで何かを噛み砕くかのようにガチッと鳴った歯音に、ぞわと肺の辺りが震えた。男の見せる嘲笑の中に、チリチリと火種が見える気がするのは何故だろうか。

 先ほどまで煮えていたのとはまた違う理由で体の中が落ち着かずにいると、男の声は腹の中に手を突っ込むような気分の悪い声で語り続ける。


『そうそう、アイリスちゃんに"魔術式開発のためなら研究所でどれだけ働いてもいい"って、休みを取らないで済むように()()してあげてたんだって? 真面目に働く子が好きなんだろうけど、彼氏くん甘やかしすぎじゃんwww

 今は週に三回も休み()()()()()、怖ーいセンパイたちから深夜まで働くなって怒られちゃってたよwww

 こないだなんて休みの日に無理やりカフェに連れてったら、フルーツタルト食べながらめっちゃ泣いてたwww カワイソーwww』


 口の端をいやらしく持ち上げてチェシャ猫のような笑みを浮かべると、男は『あ、言い忘れてたけどォ』と、わざとらしく今思い出したかのような調子で続ける。


『アイリスちゃんね、今、オレんとこで働いてもらってんだよね。やー、働き者で助かっちゃうね。なんでもやらせてくださいっておねだりしてくっから、他のやつらの仕事なくなっちゃいそwww え、給料? 彼氏くんだって渡してなかったんでしょ?? オレが払うわけないじゃんwww』


 再び笑い声をあげた男は、手をひらひらとさせて馬鹿にするように「べぇ」っと舌を突き出した。


『だってさぁ、全寮制で風呂と上下水道完備で家賃なし、食堂利用制限無しで制服は支給だし、研究費はぜんぶ国持ちなんだからさぁ、給料とか必要ないでしょwww  ドレスや必要な私物なんかはぜんぶオレがプレゼントすりゃいいだけだしwww 

 ってかさー、彼女にプレゼントのひとつもないとか、彼氏としてどーなんそれ?? どんだけ甲斐性ナシさんなの?? 自分のお給料で暮らせてけないほど貧乏さんだった??

 ……つーか』

 

 一瞬、口元がすっと笑みを消し、その銀の目が虹彩の端に青い燐光を宿し、鏡ごしだというのにビリと空気の震えるような気配があった。


『アイリスのお給料さ、お前、自分の懐に入れてたんだろ。それ使って()()()()()? 同じ男として恥ずかしいわ流石に』


 記憶の奥まで貫くような一瞥と、狼が唸るような低い獰猛な音質の声に、室内の空気がぎゅっと絞られるような錯覚が襲う。

 貴様に言われる筋合いはない、と喉の奥では出かかっていた。アイリスのことは()()()()()をしているだけで、彼女も愛する人のためにと喜んでそれを受け入れているのだ。他人に非難されるような謂れはない、と。

 しかし男の目が宿す銀の光が放つ熱に、喉は勝手に焼かれたような息苦しさを覚えて唾を飲み込む。

 沈黙すること数秒。その目の燐光はかき消え、男はふたたび嘲笑を浮かべると机から足を下ろした。


『……あーそうそう、アイリスちゃんの仕事の件だけど、彼氏くんさぁ、アイリスちゃんのこと大好き過ぎんじゃん?? ぜーんぶアイリスちゃんに()()()()()()()たんだって?』

 

 そのまま姿勢を変えて机に肘をつくと、ずいと鏡のほうに顔を近付けてくる。若く瑞々しい肌と、その耳に飾られたピアスの恐ろしく繊細な彫刻が鮮明になった。

 手鏡に良く似た意匠をしているところから見て、それも魔道具なのかもしれない。

 それらをジャラリと鳴らしながら顔を傾け、切れ長な目を細めると、男は軽薄な笑みを深めながら続ける。

 

『ウチって実力主義だからさぁ、前職がどうとか爵位がどうとかはぜーんぜん考慮されねーから、アイリスちゃんめちゃくちゃ困ってたんだよね。

 なんか資格とか実績でもありゃ別だったんだけど、そういうのなんも持ってねぇって言うからさ。

 しゃーねぇから最悪洗濯婦(ランドリーメイド)にでもなってもらうしかねーかなってなってたんだけどさぁ……

 なあ、彼氏くん? アンタ、アイリスちゃんの上司でもあったんだろ? ちゃんと教育したん?

 いやマジで、アイリスちゃんが研究員だったとか、信じらんねえんだけど??』


 ハッと馬鹿にするようなため息と共に、男はやれやれと言った様子で肩をすくめる。その先程までとは違って直接的に貶す言いように頭の中をカッと熱いものが走った。

 アイリスの教育で不足しているものなど何もない。労働時間についても、遅くまでかかってしまうのは彼女の努力不足なだけであって、すべての仕事はきちんと教え、与えているのだ。それをまるで、こちらのせいかであるかのように……!


 熱された鉄のように思考が焼けていた、その時だ。

 男の嘲る声は思いもよらぬことを口走った。


『資料の作成なんかもそうだけどさぁ、機材のメンテナンスにしても素材の管理知識にしても、研究員のレベルじゃねぇじゃん。術式の広域変換と出力並列化の基礎理論なんて、図面に起こせるほど理解してんの、こっちでも何人もいねーんだけど?? なんでそれで資格取らせてねーわけ??』


 その言い様に、先程の言葉の意味が真逆であることを察して、違う意味で思考が熱を帯びた。

 貶されているのは、もっと根本的なことであると、気付いたからだ。 

  

『ってかさぁー、アイリスちゃんの仕事っぷりからして、ウチの職員でも五人は専属でやってるような業務をアイリスちゃんひとりに任せてたってことだよな?? すげぇ人件費削減の仕方してんじゃんwww とてもじゃねーけど真似できねーわwww

 パワハーラス王立魔道研究所って、そんな程度低いわけ?? そりゃー評議会参入が遅れるわけだわwww』


 何がツボにはまったのか、長い指をした手がバンバンと机を叩きながら男は爆笑しているが、対峙する側は爪先からじわじわと冷たいものが体を巡りはじめていた。


 男の言うことは正しい。

 パワハーラス王立魔道研究所は、何代も前の国王が自国の魔道水準引き上げのために創設したものだが、近隣諸国の発展速度に未だに追い付いておらず、国内では金の掛かる道楽(無駄飯喰らい)だの煌びやかな名札(名前だけは立派)だのと呼ばれていた。


 だがそれも、もう数年で追い付ける見込みだったのだ。ここ数年でさまざまな理論が発見されたことで水準は飛躍的に向上している。

 その功績に陛下からの覚えも良くなり、先日の功労パーティーでは研究所の予算を倍以上にしてもらえる約束を得た。これからさらなる躍進が始まるはず()()()()()


『アイリスちゃんの能力ならさぁ、とっくの昔に導師になってねーとおかしいって。なのにやってることほとんど雑用ばっかりじゃん。ほんと、無駄な時間使わせてんねーwww

 どうせアイリスちゃんの研究成果とか丸ごと自分のもんにしてたんだろ? だったらそれこそアイリスちゃんの手を自由にさせてたほうが、効率よかったと思うよ? 今更だけどwww ま、恋人の能力に嫉妬しちゃうような彼氏くんには難しかったかな?www』


 男は「なあ彼氏くん」とピッと長い指を鏡に向けて突き出し、その指に嵌められた指輪の石が、ちかちかと光を反射する。

 その輝きよりも強い男の銀の眼差しが、針のようにこちらを射貫いて蔑むように笑った。


『お前、アイリス()が自分より何倍も優秀なのが気に入らなかったんだろ? だから資格をとらせないようにして、試験さえも受けられないように手を回した。

 それでいて、低迷してる研究所の成果を爆上げできる才能は捨てがたかった。

 だからさも善意で雇ってやってるかのように恩を着せて、なんでもかんでも押し付けることでお前は下っ端なんだぞと思い知らせつつ、そん中に紛れ込ませてやらせてた幾つかの仕事の成果を抜き取って自分のもんにした……違うか?

 そうやって自分の女を便利に使ってる俺賢いとか思ってたんだろ? ハハハッ

 ――――いかにも低能の考えそうなこった』


 まるで見ていたかのように確信を滲ませた言葉のひとつひとつひとつが、頭の奥を鈍く貫いてガンガンと心臓を打ち鳴らし、はあ、と、知らず荒くなった自分の息が薄暗い部屋に響いた。


『馬鹿だねぇ。おたくの国(パワハーラス)ってガチガチの保守派で、妻は旦那の所有物って法律にすらなってんじゃん? そんな国なら当然、妻の手柄も旦那のもんなわけだろ。

 だったらさぁ、さっさと嫁に迎えて最高の環境を用意して最高の成果を出させて、そんで最高に甘やかして「あなたのおかげよ」って言わせときゃ、うちの妻は王国一の魔道師です、って自慢できたんだぜ?

 わかる? 女を上手く使うってのはそうやるんだよ。ま、女に劣る自分が認められねーくせに利用はしてぇとか考えるようなカスじゃ、土台無理な話だろうけどなぁ』


 これまでの小馬鹿にしたような間延びした口調とは違った低く抉るような侮蔑の言葉は、ざりざりとこちらの精神を削っていく。

 黙れと叫んで耳を塞ぎたくなる衝動をこらえるのが精一杯になったところへ追い討ちをかけるように男は続ける。


『それから――たぶん気付いてないだろうし、オレは親切だから教えてやるけど、お前さ。アイリスちゃんにどこまでさせてたか、ちゃーんと覚えてる??』

  

 その一言でハッとし、続けてぞわりと背中に冷たいものが走った。

 

 アイリスを研究所へ迎えてから、雑務のほとんどは彼女に任せていた。それこそ簡単な書類整理から機材のメンテナンスにはじまり、素材の調達と等級の選別や他国の最新魔道具の解析、国内のあらゆる魔術理論の更新まで彼女の仕事だった。精緻を極める研究用術式の構築も、彼女でなければ作成不可能だ。

 

 ――そして何より、この国の魔術水準を何年分も引き上げると期待されている幾つもの論文の草稿たちは、机上にて完成を待っている状態で止まっている。 

 アイリスの身柄が今鏡の向こうにいる異国の男のもとにあると言うことはつまり、彼女の持つ能力と知識すべてが他国へ渡ると言うことだ。

 

 今更ながらに突きつけられたその危険性にようやく頭が回ってきて、一気に血の気が引いていく。 

 自分の名声どころの話ではない。既に王族に承認を得た事業の柱を失うことは、この王立研究所が取り潰しになるだけでは済まないような事案だ。すぐにでも鏡の持ち主であろう男の素性を割り出し、取り戻しにいかなければ。

 

 手鏡を握る手に力がこもり、必死で持ち主の居場所を辿る魔術式を構築している中、まるでこちらの状況が見えているかのように男の声は嘲るように流れ続ける。 

   

『ま、今更慌てても無駄だけどなwww アイリスちゃんは……』


 男が何か言いかけたその時。


「――――ッ!」

 

 唐突に、女性の高い悲鳴が上がった。それがアイリスの声だとわかってどくりと心臓が鳴る。

 

 やはりそうだ。

 

 この男の言葉はすべて虚言で、アイリスは男に無理矢理連れ去られ、無体を強いられていて、自分に助けを求めているのだ。

 彼女の気持ちが変わるはずがないし、本来下働きにすらなれない下民であった彼女を恋人としてそばに置いてやった上、研究者として雇ってやった恩を忘れるはずがない。

 彼女は自分の立場をよく理解していたし、恩人たる自分に尽くせることを幸福に感じていたはずだ。いつも笑顔で迎え、後ろをついて回ってきた女なのだから。


 ――なのに。 

 

『あーもーあいつら、加減しろっつったのに』


 くしゃっと苛立たしげに髪を掻き回すと、ガタンと椅子を鳴らしながら奥を振り返った男の声が「おい!」と乱暴に響いた。


『お前ら! アイリスに食わせ過ぎんなよ! やっと普通に食えるようになったばっかりなんだから、胃がびっくりするだろうが!』


 先程までの甘くべとつくような嘲弄の声とは違った、獣の咆哮にも似たがなり声にビクリと肩をこわばらせていると、映像の向こうからは『ずるーい!』と年若い男の声が聞こえてきた。

 

『ずるいずるい! アイリスちゃんの独占ずるい!』

『殿下! あいつを独占禁止法違反で捕まえてくださいよー!』

『うるっせぇぞ! 今録画中なんだ静かにしろや!!』


 同年代とおぼしき複数の男の声が入り交じり、聞き捨てならない単語を耳が捉えた。が、映像相手に尋ねることもできず、心臓がばくばくと嫌な音を立てていく。


 すると、数秒して、ぱたぱたと軽い足音が奥の部屋から飛び出し、綿菓子のようなふわふわとしたピンクブロンドの髪を揺らす、ひとりの長身な女性が映り込んだ。

 

 大きく開いた袖口から覗く真っ白な手はすらりとしているが、体型の分かりにくいローブからでも女性的な丸みがしっかりとわかる。

 薄い桃色に染まった、ふっくらと柔らかそうな頬から顎にかけての整った輪郭。きめ細かな肌に艶やかな唇は小さく、長い睫毛に縁取られたぱっちりとした淡い栗色の目に、微かに滲んだ涙にきらきらと光が反射する。自国の貴族にもそうは見かけない可憐な美少女だ。

 

 思わず息をのんでいると、その女性は男に近寄ったかと思うとその腕をぎゅうっと捕まえた。

 アイリスをたらしこんだ上に、こんなに上等な女を囲んでいるのか。

 噴飯ものだったが、安堵もしていた。こんな美しい女がいるなら、アイリスのようなみすぼらしい女を相手にするはずがない。やはりアイリスはこの男にとってただの便利な女にすぎないということだ。

 きっと今頃男の甘言に騙されてホイホイついていって後悔しているに違いないから、わざわざ連れ戻しに来てやった自分に感謝するはずだ。

 

 そんなことを思っていると、その美少女は困り顔のまま恨めしそうな目で男を見上げた。


『ご、ごめんなさい……っ、つ、つい……』

『構わねぇよ。言ったろ、ここじゃ殿下相手でも礼儀だの気にしなくていいって』


 先程の怒鳴り声が嘘のように、男は宥めるように大きな手が女性のなだらかな肩を抱いた。女慣れした態度に、苛立ちをもって眺めていると、もじもじと躊躇いがちに女性の唇が動く。

 

『その……食べても食べても次々にお菓子を差し出されて……しかもどれも高そうだし、私みたいな庶民には畏れ多くて………!』 

『それで逃げてきたのか』

 

 苦笑するように男は応じたが、続く言葉はまったく頭に入って来なかった。

 いつもの控えめなそれではなかったから最初はわからなかったが、その形良い唇から溢れる声は――アイリスの声だ。

 だが、その姿はまったくの別人としか言いようがなかった。いつも適当な三つ編みしかしていないボサボサの髪。地味な顔を隠すでかくて分厚い眼鏡の向こうでへらへらと笑う、やつれた目元。化粧っけもなく、ダボッとした色気のないくたびれた服を着ている地味でみすぼらしい女。それがアイリスだった。

 女のくせに少しばかり才能があるからと、勉強ばかりして男を立てることを学ばなかったから、そんな惨めなことになるのだと思っていた。


 それなのに。


『あいつら、お前を喜ばせたいだけで悪気はねーんだけど、限度がわかんねえんだよな。勧められたからって、全部食わなくていいんだぞ?』 

『うう……だって、どれも美味しそうで……それに、残すなんて勿体ないこと、私には無理です……っ』

『あーあーはいはい、後で保存魔法かけておいてやるよ』

 

 姿こそとびきり愛らしくはなっても考えなしは相変わらずなのか、馬鹿みたいな我が儘を言うアイリスに、男の目に嫌悪感はなく、溜め息混じりながらその声は本当に同一人物かというほどに柔らかだ。

 髪を撫でる手も、わざわざ指輪たちを外すまでしてやっていて、手付きもまるで絹を撫でるかのように気遣われているのがわかる。

 自然と腰に回された手が、まるでしがみつくように男の胸に収まったアイリスの体を支えていて、あまりにも近い密度が当たり前と言わんばかりに、ふたりの交わる視線には熱があった。


 愛し、愛される男女そのものの姿に愕然とし、呆然としている耳に、こちらに視線だけを寄越した男の声が滑り込んでくる。


『なあ、彼氏くん――もうわかってるだろうが、今のアイリス嬢は白狼桐(ハクロウドウ)皇国の()()な客人だ。

 それがわかっても尚彼女を取り返すつもりなら、我が皇国の第一魔道研究所――青銀の塔まで来るといい。最上階で迎えてやるよ。

 ま、この竜胆(リンドウ)趙戉(チョウエツ)に喧嘩を売る度胸が、彼氏くんにあるんならね』


 男が名乗ったその名は、大陸最強として名を轟かす《朱の大魔導師》のものだ。

 彼を敵に回すことがどれだけのことか簡単に察せられて、全身から一気に力が失われていくのがわかる。がくりと膝が落ち、鈍い汗がべっとりと纏わりついた。

 

『そんじゃ、アイリスちゃんはオレが幸せにしてあげっから、彼氏くんはそこで指咥えてるといいよwww じゃーなwww』

 

 ブツリと録画魔法が切れると同時。

 

 震える掌から滑り落ちた手鏡は、この先待ち受けている絶望的な未来を告げるように、固い床に砕けて甲高い音を響かせたのだった。


 


 




こちらのクズのその後は推して知るべしでございます。

尚、彼氏くんは実際のところアイリスちゃんを恋人とは思ってはおらず、端的に言うと所有物と認識していたクズです。

竜胆の煽り口調が古めかしい(平成みがある)のは翻訳のせいです。ハイ。



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― 新着の感想 ―
古来より「NTRれたというなら寝てから言え」という言葉が…あったっけ? まあ元カレもどき君もそういう事はしてなさそうだし、アイリスちゃんは幸せになってくれれば良いのよ
NTR胸糞配信かと思ったら寧ろ真逆だった… 面白かったです
確かにwww翻訳するとどうしても最新の言い回しは辞書にないから古臭くなりがち…あるある!! まぁ有能女子を大事にしない男の末路なんてこんなものですよね〜〜! と思えてスッキリでございます。 そしてこの…
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