イグナルスへ
からって俺は、あんたらを許せねぇよ…。許しちゃ、ダメなんだ。…医者として教示が、俺にもある。」
存外はやく、ハイレーンは立ち上がった。
医者、というたった2文字の言葉が彼の肩にのしかかっている。私には理解できないその重さを、彼は教示と言った。人の命を救う者として、救けるという選択肢を切り捨てた私を許さない、という意味だろうか。合ってるにせよ間違っているにせよ、私には推測することしかできない。
「分かってるっポ。無理に分かれとは言わない。ただ、マリアンネ様の事情も、考慮して欲しいっポ。」
「ああ。すまなかった。」
焼き鳥も無理に噛みつきはせず、穏便にことは収まった。ハイレーンも余計なことは口にしない。2人とも、これ以上言い争っても仕方がないと理解しているのだ。今は事を荒立てるより、表面上だけでも協力関係を築いた方がメリットが大きい。
にしても意外だ。と思い、あぐらをかいて座るハイレーンを見やる。彼は情に厚すぎるが故に、感情的になり過ぎる部分がある。彼の性格上、この場で私を殺しても何ら不思議ではない。
それを呑み込んだということは、私に着いていくメリットが大きいと判断したということ。
魔女の生態を観察し、魔女病の治療法を発見する。彼にとっての最大の目的はあくまでも魔女病の治療である。そのためには、己の憎悪さえも押さえつけるということか。
──────案外聡いな。
話に聞くには、医者という職業は一部の賢い人間しかなれないらしい。ハイレーンも例に漏れず、ということだろう。
「それで?これからどうするの?」
そう問えば、ぱちくりと瞬きをして、4つの眼が私を見つめる。さっきまでの争いが嘘のようなアホズラだ。
しばらくの間口をあんぐりと開け言葉を失っていた。が、いち早く正気を取り戻したハイレーンが言う。
「いや、俺的には俺があんたに着いていくもんだと思ってたんだが…。行き先、俺が決めんの?」
「嫌なら私が決めるわ。」
「そういう問題じゃねぇんだわ。」
整った黒髪をぐしゃぐしゃと搔く。頭が混乱しているようだ。
「だいたい、あんた目的があって旅してたんじゃねぇの?」
「目的…。端的に言えば、暇つぶしね。」
私の原動力は、基本的にはこの一言に尽きる。暇、とにかく暇なのだ。どうしようもなく退屈で、地べたをのたうち回っていたので、そのままの勢いで島の外にでた。始まりなんて案外そんなものである。
「は?」
しかしハイレーンは納得がいかないようで、再び口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。
「私がいた島…前も言ったムスタサーリという島はね、自然が豊かで野生動物もたくさんいて、一言で言えばいい場所だったわ。気候も安定してたし。ただ、島というだけあって狭くて狭くて。」
「それで旅を?」
「ええ。私死なないし見た目も変わらないし、痛覚とかもないけど、ずっと同じようなものばかり見てると流石に飽きるわ。だから旅をしてる。それだけ。」
焼き鳥と静かに目配せをする。視線だけで何か語った後、ハイレーンがおずおずと尋ねてきた。
「…じゃあ、こいつは?」
ちょいちょいと指さした先には全身を振動させている焼き鳥。鳥なのに器用にも冷や汗を流している。
「いい暇つぶしになるでしょう?面白いし、見ていて飽きない。」
無言でハイレーンは焼き鳥に近づき、人差し指で頭を撫でた。
いつの間にこんなに仲が良くなったのだろう。焼き鳥も指を拒まず甘んじて撫でられている。私が知らないだけで、結構甘えんたなのだろうか。
「でも、けっこう気に入ってるわよ。案内人にもなるし。」
「マ、マリアンネ様…!!」
「お前それでいいのかよ!」
「ポーッ!この際お傍にいられれば何でもいいっポ!!」
ハイレーンはさらに指を押し付け、豪快に焼き鳥の頭を撫でた。こころなしか、豆粒程度の瞳に小さな小さな雫が見える。邪念を払うよう、勢いよく頭を降って、雫を振り飛ばしていた。
「で、これからどこに行くの?地図はないけど焼き鳥は土地勘あるし、大抵の事は大丈夫だと思うけど。」
「…うーん。」
腕を組みしばし熟考。ハイレーンがどこの出身かは知らないが、あの収容所に捕らえられていたということは、おそらくこの近くの出自のはず。地元の人間であれば、詳細ではなくとも大まかな地理は知っているだろう。
「…とりあえず、町に行きたい。食料と物資の補給もしたいし、この薄着で旅を続けんのはな…。」
ハイレーンの一張羅は、三日三晩歩き続けたせいでボロボロだ。靴に至っては底が剥がれているし、もはや服という本来の役割を担っていない。
私が感じることはないが、人間は周囲の環境に影響を受けるらしい。気温が高ければ暑く、低ければ寒い。面倒なことに、いきすぎると死ぬこともあると言う。
「分かった。1番近い町はどこ?」
「確か────イグナルスだ。ここからだと…歩いて1日で行ける。」
イグナルス。
初めて聞く町の名前だ。
ハイレーンの様子からして、あまり大きな町ではなさそうだ。だが少なくとも町と呼べる規模があれば、物資の調達には十分。
1日、というのは人間の活動時間内での所要時間。私なら、おそらくは半日足らずで到着する。
しかしこれ以上ハイレーンに無理を強いるのも無体なものだ。無闇矢鱈と喧嘩をふっかけることもしたくない。
私は首を縦に振る。
「イグナルスね。じゃあ夜明けに出発しましょう。焼き鳥もいい?」
「承知しましたっポ!」
忠実なる使い魔は羽を腕替わりにして敬礼をした。どこで覚えてきたのか、焼き鳥はこのポーズを大層気に入っている。
ハイレーンに目配せをすると、小さく頷きを返してくれた。
「今日はここで休息を取るわ。ハイレーンもゆっくり休んでね。」
「言われなくても休むっつーの。」
柔らかな苔の上にごろんと寝転がった。私より少しだけ大きな背中が見えた。すり傷と汚れに塗れた背中。
数秒後には完全に寝入ったようで、穏やかな寝息が聞こえた。私の前でこうも簡単に隙を見せるとは、余程信頼されているのか。やや驚いたが、疲れが勝った結果だろうと納得する。
「マリアンネ様。申し訳ありませんが、ボクも休ませていただきます。何かあれば、遠慮なく起こしてくださいませ。」
眠そうに羽で目を擦りながら、焼き鳥は言った。
「ええ。」
ハイレーンに続き地面に横になる。こっくりこっくりと頭を揺らし、やがて糸が切れたように動かなくなった。
「…。」
木々のざわめきに混じり、2人分の寝息が響く。不思議とテンポの合った三重奏に、思わず聞き入ってしまった。
思えば、人間の寝ている姿を見るのは随分と久しぶりだ。面倒事は御免なので普段は近寄らないようにしているし、私に好き好んで着いてくる人間はそもそもいない。ハイレーンの背中をじっと見つめる。何とも不思議な気分。
魔女ではない、魔女と似て非なる存在である私が、こうして人間と共に生きている。恐れ、憎み、恨まれながらも、結局は人間との関わりをやめられない。
面倒事になると確実に理解してはいる。だが、関わるのをやめられない。まるで針鼠のジレンマのようだ。
『君が何を思い、何を選ぶか。決めるのは君自身でなければならない。他の何者にも、君の心を犯させてはいけないよ。』
彼から教わった唯一の教えを、ふと思い出した。