雪解け、薄闇の地下牢にて
おそらく地下につくられているであろう牢の中は、冷たい鉄の感触がする。
地面を人差し指で撫でる。冷たさとわずかながら湿った感じがする。外の雪が溶けて漏れてきているだろうか、と憶測を立てた。服が濡れるのはさすがに嫌だ。
ほぼ同時に、聞きなれた破砕音が耳を貫く。
バシン!
「…。」
対面に位置する牢の中。緑の軍服らしきものをまとった看守が、鞭を片手にほくそ笑んでいた。
「おら!さっさと立て!」
看守が少女に向かって鞭を振りかざす。何度も何度も入念に背中を打ち、その度に少女の口から甲高い悲鳴が上がる。
「やめて!もうやめてください!おうちに返してください…。」
最後はかの鳴き声と変わらない小さな声だった。震える手で壁に縋り付き、背後にいる看守へ懇願する。
見たところ8から9歳あたりだろう。年端もいかない少女がいたぶられているのは正直に言って、見てて気持ちのいいものではない。
しかしながらあろうことか、看守はさらに鞭を打つ。
バシッ!と人体を抉る耳障りな音。
「うぐっ…!」
とうとう堪えきれずに、少女は倒れ込んだ。冷たい鉄製の壁に衝突、そのまま地面に倒れ込む。
近くにいる囚人が大きく身を震わせた。彼らにとっては決して他人事ではない。明日は我が身というか、1寸先は我が身なのだ。
「てめぇら《魔女》に口答えする権利はない!とっとと白状して、大人しく首をはねられろ!」
吐き捨てるように言い残し、看守はドカドカと足音をたてて格子を出た。重厚な扉を閉めて鍵をかけることも忘れない。
「人に這い寄る蛆虫が!とっとと死ね!」
少女に唾を吐き捨て、看守はおぞましいものを見るように顔を歪めた。足音を立て、大股で去っていくのを無感情に眺める。
残された他の囚人はがっくりと肩を下げ項垂れていた。特に少女は起き上がる気力もないのか、その場にうずくまったまま動かない。
「行ったか…。」
ふと視線を手前に戻せば、私と同じ牢入れられた青年がぽつりとこぼした。
男にしては黒髪に色素の薄い透明な瞳。すっと通った鼻筋にくっきりとした二重。白い肌は妖精のような儚さを感じさせる。
端的に言って、人離れした整った形をした青年だった。
「おい嬢ちゃん、大丈夫か?」
青年が格子越しに声をかける。廊下を挟んで向かいにある少女の元に、声は届いたはずだ。しかし返ってきたのは、
「…う、うぅ、」
という小さなすすり泣きと呻き声だけだ。
青年が顔をしかめる。正確に言えば後ろからでは表情が見えないので、実際のところは分からない。が、背中からはありありと伝わる。
「《魔女病》もここまで広がると、あんなちっせぇガキにも容赦なしか。ひでぇもんだ。」
他の囚人たちも無言ながら同情している様子だった。膝を抱えて縮こまる者、肩を抱き震える者、手を合わせ何かに祈る者。皆行動は違えど、心情は同じらしい。
「魔女病…って何?」
空気が凍りつくのを肌で感じた。
視線が突き刺さる。怒り、憎しみ、驚愕、そして悲しみ。
何がまずいことを口にしたのは分かるが、今更慌てたところでどうにもならない。
くるりと青年が振り返る。驚いたように目を見開き、じっとこちらを見つめる。
「あんた、知らねぇのか。」
「知らない。」
青年は訝しげに、私の頭のてっぺんからつま先までを凝視した。
「その格好…旅人?」
「ええ。」
「どこから来た?」
「ここより北にあるムスタサーリという孤島よ。」
「聞いたことねぇな。」
「小さな島ですもの。知るはずがないわ。」
顎を撫でながらじっと黙り込む。鉄でできてるこの部屋は思っているよりも冷える。青年の吐く白い息を見ながら、彼の出方を伺った。
「孤島って言ったな?住んでるのはあんただけか?」
案外あっさりと受け入れられた。一呼吸おいてから簡潔に答える。
「ええ。」
「そうか。」
この状況下において、青年は警戒心を捨ててはいない。しかしこれだけ簡単に他人を、しかも余所者を信じるとは。余程の馬鹿かお人好しだろうとあたりをつける。
「いきなり巻き込まれて災難だったな。俺はハイレーン。あんたは?」
「マリアンネ。」
青年──もといハイレーンは頷くと、淡々と口を開いた。
「魔女病って言うのは、その名の通り人間が魔女になっちまう病のことだ。200年前から急激に広まって、治療法も見つかっていない病。魔女が何かについては…さすがに分かるな?」
ハイレーンが気遣わしげに視線をやる。
さてはて魔女とは何なのか。知ったところではないが、ここで知らないというのも変に目立つ。
これ以上場の空気を悪くしたくはない。ただえさえ凍りつくように冷たいのだ。
「ええ、なんとなく。」
頷くと、ハイレーンはやや安堵したように肩をなで下ろした。
「魔女病に感染すると、通常は魔女にしか使えない不気味な力が使えるようになる。俗に言う魔法ってやつだ。厄介なことに制御は不可能で、本物の魔女と見分けもつかない。」
ぐるりと周囲の囚人たちを見回した。皆同じような布きれを体に巻き付け、縮こまったまま身を震わせている。
「だから国のお偉いさんは片っ端から怪しいヤツを牢にぶち込む。本物の魔女を炙り出すためにな。」
どこからともなくため息が漏れた。抗いがたい絶望に飲み込まれた吐息。吐く息は冷気により白く染まり、全身を覆う寒さはさらに心を削ってゆく。
「なるほど。通りで沈んだ顔をしてると思ったわ。ここには魔女なんていないものね。」
「そういうこった。こいつらはぜーいんあらぬ濡れ衣おっかぶされて、身内に売られたヤツばっかよ。」
向かいにある鉄格子の向こう、少女はまだ床にうずくまっている。
ぽつりぽつり。今にも途切れそうな泣き声とともに、言葉が吐き出される。
「かえりたい…かえりたいよ。ママ、パパ…!」