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九尾の狐

作者: 古数母守

 深い山奥に小さな村があった。雲一つない澄んだ青空の下、二人の姉妹が川で遊んでいた。姉の結衣は長い黒髪を一つに結んだ元気な少女だった。結衣はバランスを取りながら石から石へと飛び移り、先へ先へと進んで行った。

「結衣、待って~」

置いて行かれないようにと妹の彩が必死になって姉を追いかけていた。結衣は振り返り、彩が石を渡って来るのを待っていた。二人はずっと上流まで進んで行った。大きな岩があって、そこによじ登った。そして袋の中から、さっき摘んだばかりの野いちごを取り出して二人で食べた。甘酸っぱい風味が口の中いっぱいに広がった。近くにある滝から激しく水の落ちる音が聞こえて来た。涼しげな風が吹いていた。

「今日はもう帰ろう」

そう言って結衣が立ち上がった。陽が沈みかけていた。西の空が薄いオレンジ色に染まり始めていた。そして仲良く手をつないで二人は村へ帰った。


 そんな二人は特別な家系に生まれた娘たちだった。その家系では代々娘に九尾の狐を憑りつかせることになっていた。継承者に選ばれた少女は、恐ろしい狐の力を使って村を守る定めにあった。そして結衣がいよいよその役割につく年齢に達していた。彩は漠然とそのことを理解していた。あの優しい姉に恐ろしい狐が憑く。そう思っただけで、とても不安になった。そして同時に姉のお陰で自分がその役割を免れていることを理解していた。そのことを思うとやりきれなかった。古い記録によると村は恐ろしい怪異に度々襲われていた。そして九尾の狐の継承者がいつも村を守っていた。誰かがその役割を果たさなければならない。そう納得しようとしても、大好きな姉がその役割に就かなければならない理不尽を彩は感じ取っていた。


 継承の儀式の日がやって来た。村にある神社で継承者の身体に九尾の狐の魂を宿すためのものだった。巫女の衣装を着た結衣を彩はじっと見ていた。先代の継承者の口から煙のような何かが出て来た。それは空中で一瞬、九つの尾を持つ狐の姿になったかと思うと、口を開けた結衣の中へと吸い込まれて行った。今、結衣が狐を宿したことを一族である彩は理解した。結衣の目が一瞬、赤く輝いた。彩はその姿に恐れを感じたが、大好きな姉のことをそんなふうに思う自分がとても嫌な人間に思えた。

 狐の力を宿した結衣はその後、普通に暮らしていたが、あまり笑わなくなった。もう二人で一緒に遊びに行くことはなかった。時折、結衣が部屋で激しく苦しんでいるのを彩は見た。狐の力は結衣の心と身体を少しずつ蝕んで行くように見えた。結衣の身体をめぐって、結衣の心と狐の魂が激しい争奪戦を繰り広げているのかもしれなかった。

「彩ちゃん、私のこと怖い?」

苦しそうな結衣を彩が心配してじっと見ている時に結衣が言った。村の人たちは狐を宿した結衣のことを恐れていた。村を守ってくれる存在とは聞いているが、いざ、結衣の姿を見ると、ただならぬその気配に恐怖を感じてしまうようだった。もちろんその気配をいっそう敏感に感じ取っていたのは彩だった。何かとてつもなく恐ろしいものが結衣の中に潜んでいる。彩は本能的にそれを感じ取っていた。そして愛しい妹が自分の異変を察していることを結衣の方でも感じ取っていた。

「怖くなんてないよ! 結衣は結衣だよ!」

彩は恐怖を感じつつもそう言った。姉の味方になれるのは自分しかいない。その自分が姉を怖がっていてどうする? 彩は自分にそう言い聞かせていた。


 それは突然のことだった。十二体もの怪異がいっせいに村に出現した。村人たちは逃げ回っていた。まさか本当に怪異が現れるなんて思っていなかった。村は度々怪異の襲撃を受けたと古い記録にはあった。だが実際に怪異を見たものはいなかった。それは言い伝えにすぎない。誰もがそう思っていた。狼の姿をした怪異が口から真っ赤な炎を吐いて暴れていた。彩は逃げ遅れた子供を助けようと駆け回っていた。

「こっちよ」

家屋に取り残された子供の手をつかんで彩は外に出た。獅子の姿の怪異が目の前にいた。彩の表情が恐怖ですくんだ。

「助けて」

そう思った瞬間、九つの尾を持つ狐が彩たちと獅子の怪異の間に割って入った。彩の目の前で凄まじい戦いが繰り広げられた。激しい戦いの末、九尾の狐は獅子の怪異を打ち倒した。倒れた怪異は灰が散るように消えていった。

「早く逃げなさい」

狐が言った。結衣の声だった。お姉ちゃん、ありがとう。そう思いながら彩は子供を連れて逃げた。鷹の怪異が空を舞っているのが見えた。そこに九尾の狐が襲い掛かった。空中で激しい戦いが繰り広げられた。狐は傷つきながらも鷹の怪異を葬り去った。そこへ虎の怪異が現れた。どうやら怪異の首領のようだった。村人たちが見守る中、激しい戦いが繰り広げられた。そして遂に九尾の狐は虎の怪異を討ち取った。だが、自らも深手を負ってしまったようだった。力を失くした狐は人間の姿に戻った。それは傷つき疲れ果てた結衣だった。彩は結衣を抱きかかえて屋敷に戻った。結衣を寝かせて、傷口を消毒し、包帯を巻いた。

「彩ちゃん、ありがとう。化け物になった私にやさしくしてくれるのは彩ちゃんだけだよ」

結衣がかすれた声で言った。

「化け物なんかじゃない。結衣は結衣だよ」

彩は必死に手当てをしていたが、結衣の傷が思ったより深いことに愕然としていた。

「また一緒に川で遊びたいね」

結衣が言った。

「そうだよ。また一緒に滝の音を聞きながら、野イチゴを食べようよ。だから死なないで結衣」

涙が零れ落ちるのを彩はどうすることもできなかった。だが彩の介抱もむなしく、結衣は帰らぬ人となった。

「助けてくれ!」

その時、外で声がした。結衣の奮闘にも関わらず、生き残りの怪異がまだいるようだった。結衣を失ったばかりの彩は正気を失くしていた。もうどうでもいいやという気がしていた。

「九尾のお姉ちゃん、助けて!」

子供が屋敷に逃げ込んで来た。結衣はもう死んでしまった。もうどうにもならない。誰も助けてくれない。もう誰も助からない。彩はそう思った。いや、違う。まだ望みはある。その時、彩は九尾を継承できる者がいることに気付いた。私が、この私がいる。彩は結衣の亡骸にそっと手を当てた。結衣の口から煙が出て来て、狐の姿となった。

「お前が継承者か?」

狐は言った。

「そうだ。私が継承者だ」

彩は力強く答えると狐の姿をした煙が彩の中に入って来た。九尾の力が彩の身体に満ちて来た。そして彩は外に出て、狼の姿をした怪異を討ち取った。怪異は灰となって消えた。犠牲は大きかったが村は平穏を取り戻した。


 村人たちは九尾の狐の力で村を救ってくれた彩に感謝していたが、やはりその力を恐れていた。結衣と彩に助けてもらった子供たちも九尾の狐の力を目の当たりにして、その力の持ち主である彩に怯えていた。そんな時、彩は黙ってその場を立ち去り、一人神社に籠るのだった。

「とうとう私も化け物になってしまったよ」

誰もいない神社で彩は独り言をいった。

「そんなことないよ」

結衣がそう言ってくれた気がした。彩の目の前に結衣の姿が浮かび上がっていた。

「そうだよ」

別の声がした。そこには代々、九尾の狐の力を宿して来た娘たちの姿があった。

「私たちがついている」

彼女たちは言った。彩は晴れ渡った夜空を見上げた。星が輝いていた。流れ星がひとつ空をよぎって行った。


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