第六章:侯爵の仮面の裏側
穏やかな午後の散策から数日が経ち、ミレイアは侯爵との距離が一層縮まっているのを感じていた。彼の優しさ、親しみやすさ、そしてクラリスや周囲の人々に対する温かい態度が、ミレイアの心の中に新たな感情を生み始めていた。しかし、彼女の目的は復讐だ。この男の一時的な親切に惑わされるべきではない。冷静さを保ちながら計画を進めなければならない――その思いを新たにしていた。
そんなある日、侯爵の執務室で仕事の打ち合わせがあると呼ばれたミレイアは、意図せず、彼の「冷徹な」一面を垣間見ることとなる。
侯爵の館の廊下を進むと、執務室のドアの向こうから何やら低く冷たい声が聞こえてきた。ミレイアは立ち止まり、その声に耳を澄ませた。侯爵の声だ。いつもの穏やかな語調とは異なり、どこか冷酷で鋭い響きを含んでいる。
「…言ったはずだ。私に逆らった者には容赦はしない、と」
静かながらも、その言葉には一切の情けがない。続いて聞こえてきたのは、震えるような男の声だった。
「申し訳ございません、侯爵様!どうか、どうかもう一度だけお考え直しを…」
「お前の言い訳は聞き飽きた」侯爵は冷たく言い放ち、続けた。「お前が私の信用を裏切った時点で、もう道は閉ざされているんだ。すべてお前の選択の結果だよ」
その冷酷な言葉に、ミレイアは思わず息を呑んだ。彼がここまで無慈悲な態度を見せるとは想像していなかった。彼女が知る侯爵は、暖かな微笑を浮かべ、優雅に振る舞う紳士だった。しかし、今の彼の声は冷たく、冷酷で、人をあえて傷つけることに何の躊躇もないように思える。
中で何が起こっているのか、つい確かめたい衝動に駆られてミレイアはドアに手をかけたが、その瞬間、侯爵の声が再び聞こえてきた。
「お前の愚行の代償は、全財産を失うことだ。明日までにこの館を去れ。従わなければ、命を奪うことになる。それほど私を侮辱したことが罪深いということを、忘れるな」
相手の男は怯えた声で「そ、そんな…」と呟き、絶望した様子で何か言いかけたが、すぐに足早にその場を去っていく音が聞こえた。
ミレイアはその場に立ち尽くし、心がざわつくのを感じていた。侯爵は彼に対して完全に無慈悲な制裁を下した――それも、まるで何事もないかのように、冷静かつ計算された口調で。侯爵のこの冷酷な一面は、彼のもう一つの仮面なのだろう。復讐心を胸に抱くミレイアにとって、その冷徹さはどこか共感を覚える部分もあったが、一方で、彼の優しげな外見に隠された真の姿を垣間見たようで、背筋に冷たいものが走った。
彼女は侯爵の恐ろしさを理解しつつも、冷静を装ってドアを軽くノックした。「失礼します、侯爵様」
「お入りなさい、マデリーン夫人」と、侯爵は再び穏やかな声を取り戻して答えた。その瞬間には、さきほどの冷酷な男とはまるで別人のように微笑を浮かべていた。その演技力と二面性に、ミレイアは驚きを隠せなかった。
「お忙しいところ、失礼します」と言いながら彼女が部屋に入ると、侯爵は優雅に椅子をすすめ、再び穏やかな笑顔を浮かべた。
「いえ、夫人が来てくださって嬉しいですよ。少し立て込んでいましたが、ちょうど一段落ついたところです」と、侯爵は彼女を安心させるように言ったが、ミレイアはまだ心のざわめきを抑えきれないでいた。
「…先ほどのお話、何か問題があったのですか?」と、ミレイアはあえて平静を装いながら尋ねた。
侯爵は少しの沈黙の後、柔らかな笑みを浮かべて答えた。「ええ、少々…不誠実な部下がいたものですからね。私の仕事には、時に厳しい判断が求められるのですよ。冷酷だと思われるかもしれませんが、私のやり方には理由があります」
彼の言葉には微かな陰が宿り、その奥には計算された冷酷さが見え隠れしていた。ミレイアはその表情を読み取りつつ、わずかに眉をひそめた。「それでも、少々厳しいのでは…?」
侯爵は冷ややかに微笑み、「甘さは許されないのですよ、マデリーン夫人。私の立場ではね。人々が私に忠誠を誓う理由は、単に私が優しいからではありません。私が信頼に値し、また恐れられる存在であるからこそ、皆が私の命令に従うのです」
その冷ややかな言葉に、ミレイアは一瞬、思わず身震いした。だが、彼の視線が再び優しい色を帯びた時、彼女は冷静さを取り戻した。侯爵が持つ、温かさと冷酷さの二面性。それが一体どちらが彼の「本当の顔」なのか、彼女には分からなくなってきていた。
侯爵は少し体を前に乗り出し、まるで彼女の心の奥を探るような視線を向けた。「マデリーン夫人…貴女も私にとって、とても特別な存在です。もし私の生き方を受け入れてくださるのなら、これからもそばにいていただけると嬉しい」
ミレイアは心の中で激しい葛藤を覚えた。自分が抱えている復讐の目的、そして今の侯爵への複雑な感情が交錯し、何をどう返すべきか分からなくなった。だが、今はあくまで「マデリーン夫人」として彼の信頼を得なければならない。彼女は微笑みを浮かべて答えた。
「もちろんですわ、侯爵様。私にできることがあれば、何でもお力になります」
侯爵はその答えに満足そうに微笑み、ゆっくりと頷いた。「ありがとう、マデリーン夫人。貴女がそばにいてくれると、私は非常に心強い」
彼の言葉に安堵の表情を浮かべながらも、ミレイアの心は激しく揺れていた。この男に対する憎しみと共に、彼への奇妙な親近感が芽生えつつある自分に、冷ややかな恐れを感じていた。
侯爵が見せた冷酷な一面。それは決して忘れることができない彼の「本当の顔」かもしれない。その仮面の下に潜む冷たさが、今も彼女に冷たい影を落とし続けていた。
だが、それでもミレイアは微笑みを浮かべ、「マデリーン夫人」としての役割を果たすために冷静を装い続けた。