第五章:侯爵の誘い
舞踏会の夜が明けた翌日、ミレイアはいつもと変わらぬ落ち着きを保ちながらも、心の中で少しばかりの疑念と揺らぎを抱えていた。昨夜のクラリスの無邪気な挑発、侯爵の優しい眼差し、そして彼に対する自分の思いが、まるで揺るぎないはずの復讐計画を静かに乱し始めているように感じられたからだ。
しかし、今は計画を着実に進めることが最優先だ。そう自らに言い聞かせ、冷静さを取り戻しつつあったその時、侯爵からの手紙が届けられた。美しい筆跡で書かれたその文には、次のように記されていた。
「マデリーン夫人、もしよろしければ、本日午後に私と共に散策を楽しんでいただけませんか?普段あまり人を誘うことはしませんが、貴女となら穏やかな時間を過ごせる気がいたします」
その申し出は、ミレイアにとって驚きだった。侯爵が自分に個人的な時間を割くなど予想もしていなかったからだ。復讐を達成するためには、彼とより親しくなり、彼の信頼を完全に勝ち取ることが重要だ。ミレイアは静かに頷き、侯爵の誘いに応じることを決意した。
午後になると、侯爵は小さな庭園の入り口で彼女を待っていた。彼はいつもよりもリラックスした表情で、少し緊張気味に見えたが、彼女を見るとすぐに微笑んだ。
「来てくださって嬉しいです、マデリーン夫人。こうしてお二人で話すのは初めてですね」
「ええ、光栄ですわ。侯爵様がこんなにリラックスした表情をされるとは、少し意外です」とミレイアは微笑んで応じた。
二人はゆっくりと歩きながら、自然と他愛のない話を交わし始めた。侯爵は真剣な表情で庭園の美しい景色について語り、まるで少年のような好奇心で草花を眺めている。彼のそんな無防備な姿に、ミレイアは少しずつ彼が抱いている「侯爵」という冷徹な仮面の裏に、意外な一面があることに気づき始めていた。
その時、ふいに侯爵が笑顔で口を開いた。「ところで、マデリーン夫人、昨日の舞踏会でクラリスが貴女に会いに行ったと聞きました。あの小娘は少し変わり者ですが、楽しませてくれましたか?」
ミレイアは思わず苦笑いを浮かべた。「ええ…彼女は少々、手強いですね。とても小さな体に、とても大きな口を持っているようです」
侯爵はそれを聞いて笑い声をあげ、「まさにその通りです。クラリスは小さいながらも、私たち大人にとっては頭の痛い存在ですよ。いつも突拍子もないことを言って、まるで我々を試しているかのようです」
ミレイアも思わずその言葉に頷きながら、昨夜のクラリスの無邪気で鋭い質問の数々を思い出していた。彼女の発言は、まるでミレイアの本心を見抜こうとしているかのようで、不思議と心に残っている。
そんな会話をしていると、不意に草むらからクラリスが現れた。彼女は二人の姿を見つけるなり、満面の笑みを浮かべて走り寄ってきた。
「おやおや、また変なお姉さんと一緒だね!」と、クラリスは侯爵に向かって言い放った。
侯爵は苦笑しながら、「クラリス、お前はいつも失礼だな。マデリーン夫人に謝りなさい」と注意したが、クラリスは全く動じる様子もなく、ニヤニヤと笑っている。
「いいもん、わたしにはわかってるんだよ。お姉さん、何か秘密があるって。侯爵もそれに気づいてるんじゃない?」と、クラリスはからかうように言った。その発言に、ミレイアは心の奥で冷や汗が流れるのを感じた。
「クラリス、君はまだ小さいから、そうやって人のことを決めつけないことだ」と侯爵は宥めようとしたが、クラリスは相変わらず無邪気な表情を浮かべている。
その時、クラリスはふとポケットから小さな折りたたみの手帳を取り出し、侯爵とミレイアに見せた。「じゃあ、二人とも質問タイム!ここに面白い話がいっぱい書いてあるの。ねえ、例えば…」
そう言うと、彼女は真顔で手帳を読み上げ始めた。
「『相談員が「この人なんてどうでしょうか?年齢は41歳で年収は260万、結婚後は家事を優先して…」と言って紹介した相手に、ババアが「絶対嫌です!年とりすぎで年収もゾッとします!」と答えたら、その紹介されたのが実はババア自身のプロフィールだった』とか!これ、どう思う?」
侯爵は一瞬言葉を失ったが、笑いをこらえきれず吹き出した。「クラリス、それは一体どこで聞いてきたんだ?本当に、君はただの小娘じゃないな」
ミレイアも思わず笑いを漏らし、クラリスの無邪気な顔を見ながら、「あなた、本当にどこからそんな話を?」と尋ねた。
「ふふん、秘密の情報源だもん!」とクラリスは胸を張って答えた。彼女のあまりの可愛らしさと大胆さに、二人は再び笑わずにはいられなかった。
「しかし、クラリス。そうやって大人の話に首を突っ込むのもほどほどにするんだぞ」と侯爵が忠告すると、クラリスはあっさりと、「わかってるもん!でも、お姉さんと侯爵のこと、もっと面白くしてあげようと思って!」と悪戯っぽく笑った。
侯爵は呆れたように頭をかきながら、「クラリスにはかなわないな…」とため息をついたが、その目はどこか優しく、彼女に対する愛情が感じられた。
ミレイアはそんな侯爵の姿を見つめながら、彼の中にある家族への優しさや、温かい一面に再び触れた気がして、心が揺らいでいくのを感じた。侯爵がただの冷酷な野心家であるならば、どうしてこんなにも子供に対して優しく接することができるのだろうか――そんな疑問が頭をよぎった。
クラリスは二人が立ち止まっていることに気づき、ふと真顔に戻ってミレイアをじっと見つめた。「ねえ、お姉さん。侯爵ともっと親しくなったら、わたしに何か面白い話聞かせてね」
その言葉は、まるでただのお願いというよりも、何か見透かされているような響きを含んでいた。ミレイアは一瞬息を飲んだが、すぐに微笑んで答えた。「ええ、クラリス。あなたに話すのが楽しみになるような出来事があれば、ね」
こうして、侯爵とミレイア、そしてクラリスの奇妙で愉快な午後のひとときが過ぎていった。