プロローグ:華麗なる策略の幕開け
夜空に重く垂れ込める雲が月光を遮り、闇があたりを包み込む中、ミレイアは古びた城の塔から遠くを見下ろしていた。冷たい風がその頬をかすめ、彼女の長い黒髪を夜空に向かってなびかせる。かつてこの地に広大な領地を持ち、繁栄を誇っていたエルディア家。しかし、その栄光は今や過去のものとなり、彼女を除く一族はすでにこの世から姿を消していた。
復讐。その言葉は彼女の心に深く根を張り、彼女の生きる目的そのものとなっていた。
一族を破滅へと導いたのは、冷酷な権力者、レオンドール侯爵。巧妙な策略と陰謀により、エルディア家の資産と名声を奪い、彼は新たな地位を手に入れた。かつての盟友であった侯爵が、彼女の家族を陥れ、無惨にも殺害した時から、彼女の心は復讐の炎に包まれた。そして彼女自身も、家族と運命を共にすることを強要され、死んだも同然の状態に追いやられたのだ。
しかし、彼女は生き残った。愛する家族を見捨て、一人生き延びたことへの罪悪感に苛まれながらも、復讐のためにその命を捧げると誓い、密かに生を続けてきた。
今夜、ついにその復讐の計画が動き出す。数年間にわたり慎重に準備し、侯爵の信頼を得るための偽りの姿を築き上げたミレイアは、現在では侯爵の側近であり、彼の心を掴む一人の未亡人、マデリーン夫人として知られている。その仮面の下には、エルディア家の血を引く唯一の生き残りである彼女自身の冷徹な思惑が潜んでいた。
「侯爵様、今夜のご機嫌はいかがですか?」
彼女は侯爵に声をかけ、貴族らしい優雅な微笑を浮かべた。その顔には愛想を見せているが、目の奥には冷たい復讐の意志が宿っている。侯爵は、彼女の仄かな香りを嗅ぎ取るように鼻を鳴らし、魅了されたように彼女の手を取った。
「マデリーン夫人、貴女が私にこうして寄り添ってくれることが、何よりの喜びです」と、侯爵は満足げに微笑む。その眼差しは、彼が何も知らぬ愚か者であることを示していた。侯爵はまさか目の前の美しい未亡人が、自らが滅ぼしたエルディア家の生き残りであり、自分に復讐を目論む者であるとは夢にも思っていないのだ。
侯爵の指先が彼女の手を包むたび、ミレイアは胸の奥底で冷たい怒りを燃やしていた。「いつか、その手を私が引き裂く日が来る…」彼女は心の中でそう誓いながら、笑みを絶やすことなく彼に囁いた。「貴方がこの地を手に入れたのも、すべて貴方の努力の賜物ですね」
侯爵は誇らしげに頷き、堂々と語った。「ええ、エルディア家などという古い血筋に頼る時代は終わったのです。私が築く新しい秩序が、この地に繁栄をもたらすでしょう」
ミレイアはその言葉に内心激しく反発を覚えながらも、冷静さを保ち続けた。彼女の計画は慎重を要し、一切の無駄や感情の揺らぎを許されない。今この瞬間も、侯爵が信じる愛しい「マデリーン夫人」としての完璧な仮面を崩すわけにはいかなかった。
「ええ、貴方の言う通りですわ、侯爵様。ですが、かつてエルディア家が成し得た偉業もまた忘れるべきではないと思うのです」と、ミレイアは侯爵を試すように言葉を選んだ。
「偉業?」侯爵は一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐに嘲笑の色を浮かべた。「あの家には何の価値もなかった。ただ、無用な誇りと、時代遅れの家系の名にしがみついていただけだ」
その言葉を耳にし、ミレイアの胸に隠された復讐の炎がさらに激しく燃え上がった。だが、彼女は依然として微笑を浮かべたまま、冷静に侯爵の顔を見つめ続けた。いつか、この男に全ての罪を認めさせ、地獄の底に突き落とすその日まで、彼女は完璧な仮面を保ち続けると心に誓った。
夜が更けるにつれ、彼女の計画の次の一手が、徐々に明確な形を取り始める。まずは、侯爵の信頼する側近たちに疑念を抱かせ、彼が築き上げた絆を一つずつ切り崩していく。そして、いずれは侯爵自身が、誰も信じられなくなり、孤独の中で自らの破滅を迎えるよう仕向けるのだ。
一方で、彼女の心には、かすかに拭いきれない恐れも宿っていた。何年もかけて作り上げたこの計画が、無情な現実の前に脆く崩れるのではないかという疑念。それでも、今はその恐れを封じ込め、冷静な策略家としての自分を信じるほかない。
そうして彼女は微笑みを浮かべ、侯爵の手をそっと握り返した。何も知らぬ侯爵はその行為に満足し、彼女に対する信頼をさらに深めたようだった。その姿が一層、彼女の中で冷酷な悦びを生んだ。
「侯爵様、今夜はお互いに良い夢を見ましょう」と、彼女は甘い声で囁いた。その言葉には、彼女が密かに抱く冷たい思惑と、復讐への情熱が込められていたが、侯爵には何の疑いも感じられなかった。
こうしてミレイアは、仇敵である侯爵の信頼を完全に手中に収めた。彼女の復讐の旅路は、ついに本格的に幕を開けたのだ。